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ノーベル賞受賞者の「下村先生と対談」をして来ました

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9月12日~13日新潟市の日本歯科大学主催の学会で、下村修先生がアメリカから20時間かけて来てくださり講演をされました、その晴れの舞台で私が「下村先生と対談をする」という嬉しいできごとがあった。

壇上の右端の二人が、下村先生と私

壇上の右端の二人が、下村先生と私

これは自分の胸一つにしまっておくにはもったいない、私だってこんな晴れがましいことを広く知ってもらいたいという人並みのひそかな思いを持っている、まあお読みいただいて彼奴もやっているなーと思っていただけたら隠居の身にも励みになる。

先生はオワンクラゲの緑色蛍光タンパク質(GFP)を多くの困難をいかにして乗り越えて純粋な形で抽出できたか、なぜオワンクラゲの研究をしたのか、それがどんな利用のされ方をするのか、を約40分語った。

日本でウミホタルの発光体を純粋な形で抽出に成功したことで、アメリカのボストンに有るウッズホール研究所に招かれ、そこでオワンクラゲを研究テーマとして与えられたこと。

多くの画像やデータを使いながらゆっくりゆっくり説明をされた、GFPを抽出に成功して50年たってノーベル賞を受賞されたこと、授賞式の様子も多くの映像を使って紹介された。

下村先生の話は聞く人の胸に大きな感銘を与えて終わった。

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

2014年10月再度訪問して頂いた際、市内の新茶屋で昼食をした

 

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

2014年10月鶴岡南高校で講演をされた

先生は86歳になられてかなり体力的に衰えが見えて壇上に上がるもの支えが要るほどで、特に足腰が弱られたようだった。

そういえば昨年の10月14日に新しくなった加茂水族館にお出で頂いたが、あの時も「かなりお年を取られたなー」と思わずには居れなかった。

「もう日本には来れないかも知れない、今回が最後になるだろう」そのようにご自分でも話されていた位だから、この度の日本歯科大学の招待は実現しないのではないかと危ぶんでいた。

自宅から新潟空港まで20時間かかったとおっしゃっていたが、本当によく決心してきてくれたものと思う、やはり先生は夏の暑さで体調を崩されて日本に来るのは無理な状態になられたらしい。

その際に学会の方から「村上前館長も来る」と連絡したところ、先生は「それでは行く」と次第に元気になられ、体調に不安が残る中お出でになられた、、、そんないきさつを学会の関係者が何人も話してくれた。

頬をつねりたくなるような話だが別々に何人かが同じことを話してくれたから嘘ではないのだろう、そう言えばこんなことも有った、先生がアメリカから到着された夜に歓迎会が開かれた際、皆が席についている会場に案内されて入ってきて何やら探している風だった、真向かいに座る私の姿を見てご自分のネクタイを持って上下させ、にこにこして「頂いたネクタイをしてきたよ!」と無言で伝えてきた。

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

下村先生は私がプレゼントしたオワンクラゲの発光をデザインした ネクタイをしてアメリカからお出でになった

 

あれを見たときは嬉しかった、何がどうしたのか、何故なのかは分からないが、やはり私に会うことが楽しみでアメリカから来たのは確かなことだったようだ。

ノーベル賞と言えば庶民にとっては、光輝く太陽かはたまたエベレストの山頂か、近寄りがたく眩しい存在なのだ、その方が私ごときに何故こんなにやさしいのだろうと思う。

そして翌日先生の講演の後私と対談となった。

先生と私は同じテーブルに隣り合わせで座り、司会者の質問に答える形で対談となった、「加茂水族館とのご縁はどんないきさつから始まったのか?」その質問には「私が出した1通の手紙からだ、先生の受賞に感動してその思いを伝えるべく手紙を出したのだ」。

「その後平成22年4月には加茂水族館に奥様とご一緒にお出で下さった、そのことが大きく報道されて年間6万人の増客につながったのだ」

年間の増客が「6万人は6000万円の売り上げになり、その資金で新水族館建設に向けた準備をすべて整えることが出来た」

「クラゲ展示の拡大と充実をし、飼育員のレベルアップのために海外までも何度も派遣し研修や教育を行い、新水族館を想定して飼育員の採用、、などなど本来ならすべて市が資金を出すべきところだったが、市の金は使わずに現場の収入で賄うことが出来た、すべては下村先生の恩恵によるものだ」

先生が受賞されたとき、加茂のクラゲ展示は新水族館を作るにはまだまだ未熟だった、胸突き八丁に差し掛かっておりここからが一番大事な所だった、何とか先生をお呼びして「誇りと力、そして軍資金」を得て日本いち小さな加茂がクラゲ水族館に生まれ変わりたかった。

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

2010年初めてお出で頂いた、先生は私が贈ったベニクラゲのネクタイをしていた

 

そのために私は「死なないくらげとして知られているベニクラゲをデザインしたネクタイを作り敬老の日に合わせて先生に送ったのだ」そして先生が来てくださり6万人の増客が5年間続き私の思いは実現した。

「何事も小さな1歩が大事だ、その後ご一緒に東京の有楽町にある国際フォーラムで話したり、2013年には先生のご厚意で対談をしそれが本になったり、去年の10月には再度訪問してくださったり。」

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「先生は子供の教育に対して、子供は構うな自然の中で自由に遊ばせておけ、そうすることで色々なことに興味をもつ人間になる、その方が何でも出来る優等生よりも将来性がある、、、、それが自分だ」、、、このように語っておられた。

社会に出て力を発揮するのは頭がいいとかいい大学を出たとかじゃないぞ、能力というものは積み重ねて計るものじゃない、掛け算で計算するものだ、「失敗を恐れて余計なことはするな、、黙っていろ、言われたことばかり取り組む」こう言った考えはマイナスかゼロだ。

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

先生ご夫妻の席には常に人が絶えなかった、あいさつに行った家内と

そんな人はろくな仕事が出来ないだろう、、、、場所もわきまえずにそんなことを語った、先生は耳が遠くなられ会場からの質問や、司会者の言葉をほとんど聞き取ることが出来なかった、そのたびに隣に座る私が補聴器の役目を果たし質問に答えて頂いた。

無事に対談を終えたときには会場から結構大きな拍手や感動の声が上がっていた、ノーベル賞学者と東北の片田舎の小さな水族館の館長、、、という異色の対談は、「歯医者さんの学会」という場でもそれなりの評価を頂けたと思う。

そして19日新潟から帰って初めて水族館に出勤をしてメールを開いたら、学会の主催者から「来年下村先生を訪問することを」了解を得ているので、村上館長もぜひ参加して頂きたいという言葉が届いていた。

この世もまんざらではないな、こんな勉強嫌いな田舎者が世界的に偉大な学者と交流が出来るのだから、、、、。

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