引退してから始まった土曜日の出勤もすっかり慣れてしまった、現役だったら8時15分の朝礼に合わせて家を出るのが7時20分、仕事のことを考えながら40分も車を走らせていた自分は3月までで終わった。
もう急ぐことのない気楽な身分になったのだ、少し早めに起きて甲斐犬の茶(ちゃ)虎(こ)と4kmの散歩をして、食事を済ませて、、、そこまでは同じだが、そこからはこれまでとは違うゆったりとした時間が流れている。
出勤しても特に決まった仕事が待ってもいないし、会議や報告を受ける事も無い、出てゆく時間も融通を効かせてもらっているから、庭の盆栽や、山野草に水をかけてテレビのニュースを見て、パソコンを開いてメールの確認をして、あわよくばテレビを見ながらうたた寝をする、これがまた実に気持ちがいいのだ、、責任がない今の有り難さだ。
※ 3Fの淡水魚展示のあたりを取り壊している、何度も改装して最後には雷魚と、ナマズのプールになっていたところだ
わずかな朝寝の間に夢を見るがこれも「楽しいさわやかな良い夢」ばかりだ、現役の頃の切なくもやるせなく、逃げれども足が動かない変な夢とは格段の差だ、館長の職を離れたということがこうも違うものか、そして9時になればおもむろに出てゆく。
そう言えばこの間旭川市で講演をした際、前の園長小菅さんに世話になったが、彼も私と同じことを言った「園長を退職して3年ぐらいは怖い夢を見ていた、いつもきまって狭い部屋で虎か、白クマに襲われて背中に乗られ噛みつかれそうになる」これを聞いて私の夢も思い出し、「俺は半年で良い夢を見るようになった、それだけ小菅さんよりダメージが少なかったのだろう」、、、、お互いに似たような環境で似たような業績を上げた仲たっだ、夢だって似たようなものを見るのも当然かもしれない。
※ 解体の作業ははかどっていた、コンクリートがこんなにもろいとは、よくぞ50年ももったものだと思う。
今日は日本晴れと言ってもいいくらいな良い天気だ,大山に向かうあたりで鳥海山の白い冠雪が見えた、空気が澄んでいるから東風が吹いて海は凪いでいるだろう、、、と見慣れた加茂の海を思い描いた。
やはり海は鏡のごとく静まり返っていた、今泉の港を見ながら裏に回って車を止める、若いころだったら必ず採集の船を出す日和だな、、、、と思って見ると、もう早々と水族館の職員が船を出す準備をしていた。
展示のアオリイカの餌には生きた小アジが無くてはならない、さては思いは同じで久々のこのチャンスを生かすつもりなのだろう。
裏口から中に入るとクラゲの繁殖室に直接つながっている、そこの奥に一見壁のように見えるが部屋が有って、引退した元館長の通称「隠居部屋」がある、狭くすべて周りはコンクリートの壁で窓もない。
※ 発光中のオワンクラゲ、傘のふちが見事に緑色に発光する、これを純粋な形で取り出すと言っても、一体どうすれば良いのか凡人には分からない。
こんな所に居たら気が滅入ってしまうようなものだが、私には天国の様に落ち着ける男の「隠れ部屋」だ、引退するその日までの忙しさがあまりにひどかったせいで、仕事とは縁の切れる場所は堪らなく嬉しかった。
電話も手紙も来ず、人も訪ねてこず、職員の声や客の立てる歓声さえ聞こえない、これは嬉しかったし安住の地を得たような安らぎを覚えた、ここに入ってしまえば全てが自分の時間だった。
今日はおもむろに使い慣れたカメラを取り出した、「キャノン50」にはかなりの量のここ1年の写真が収められていた、それをもう一度見たかったのだ。
パソコンにつないで画面を出した、見てゆくと昨年10月にふたたび来てくれた下村修先生の写真があった、言わずと知れたオワンクラゲの発光物質を取り出したことでノーベル化学賞を受賞された方だ。
本当は6月1日のオープンに来て下さる事になっていたのだが、アメリカに滞在する許可(グリーンカード)の更新が手間取ったとかで来ることが出来ず、律儀にもご自分の言葉を守るためにアメリカから来てくれたのだ。
※ 新茶屋で昼食後に求めに応じて書いてくれたクラゲ。髪の乱れも似てこの二人がまるで親子のようです。
※ 榎本市長より名誉館長の辞令を受ける下村先生ご夫妻。
庄内空港までお迎えに行きお昼は市内の新茶屋さんで日本料理を食べて頂いた、先生ご夫妻がことのほかご機嫌がよく疲れたと言いながらもよく食べ、中庭の風情を楽しみ笑顔で話しサインや写真にも応じてくれた。
自分が先生の立場だったら85歳にもなって果たして、長旅を押して外国までも出かける気になるものだろうか、、、とてもそうは思えない、一切の費用は先生持ちだし来たからと言ってそれほど良い事があるとも思えない、何が先生を動かしているのか分からないが感謝あるのみだ。
さらに見てゆくと今年の冬の間に解体中の、今は駐車場に変わった古い水族館の写真があった、撮る時は記録を残すことしか考えなかったが、今もう一度見返すと全く違う思いが胸をよぎった。
建物が建っているときには感じなかったが、本当に狭い小さな一角にあったのだ、重機がアームを伸ばしてちょっと押すとガラガラと大きく崩れていた、あそこは3階の淡水魚を展示しているあたりだ、あの一角はオープン当初磯の生物を展示していた場所で、60cmの水槽が6つ並んでいた。
海水の給排水設備がなく水槽の掃除のたびに泣かされたものだった、50年後の閉館時にはナマズと、カムルチーのプールに改装してあった、しかしあんなに弱くてはもし大きな地震が来たら持たなかったろうな。
※ 昭和39年にオープンした当時の旧加茂水族館。これは絵葉書として売られていた、よく見ると手前にブランコがあり、アシカショー,オタリアプールが無い。
毎日少しずつ私が心血を注いだ小さな水族館がしぼんでいった、ほとんど平地になり最後に壊されたのはアザラシプールだった、あの辺りは50年前砂利が敷いてあって、シーソーやブランコが有った所になる。
長い間にいたるところが改装され、何度も壊しては作り壊しては作り直した、他館より依頼されてアザラシプールにトドを預かったことも有った、何せ相手は馬のように大きい、半年後引き取りに来たとき捕まえるのに一苦労した。
鶴岡建設の本間さんに頼んで、クレーン車で来てもらいトドを「敷いた網」に追い込んで包みクレーンで吊りあげようとした、しかしこちらの気持ちが分かるように網には近かずかなかった。
手が足りないと見たのだろう、手伝うと言って中に入った本間さんと私目掛けて、トドがウオー、、という奇声を発して迫ってきた、若く元気なはずの本間さんが「竹のほうき」を持ったまま血の気が引いた顔で逃げ去った。
※ 解体が予想以上に早く進んだ
トドは大きかった頭の高さが2m以上もあった、はらわたを絞るような奇声を発し地響きを立てて迫るトドはものすごい迫力だった、にわか仕立ての飼育掛りでは逃げざるを得なかったかも知れない。
しかしトドは案外気が小さい、顔面をデッキブラシで叩くとひるんで引き返してくれる、私には分かっていたからそうしたが、その後本間さんと顔を合わせればあの時の話になった「お前の顔色は無かったぞ、みなビデオに収められている見せようか」そう言ってからかっていた。
※ クラゲ館長の苦労の歴史は、全てアスファルトの下に消えた。
あの本間さんは今いい年で会社の幹部になっているはずだ、ついに山ほどある思い出はすべて駐車場となってアスファルトの下の消えてしまった。 2015,10,23