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70年も前の記憶

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極端な暖冬のせいで雪のない正月を過ごしたが、やはり雪国なものだ、ここ数日の雪はこの冬初めてのまとまった雪になった、倉庫の奥から小さな除雪機にエンジンをかけて引っ張り出して庭の新雪を飛ばした。
2016,1,21の2  小形の除雪機を引っ張り出して庭の除雪をした、見事に雪が飛ぶとストレスの解消になる、寒さも疲れも感じないうちに1時間が過ぎている 。

見事に10mも吹き飛ぶ雪は結構様になる、ストレスも一緒に飛ばしてくれるほど爽快な気持ちになれた、降る雪の中で寒さも感じることなく黙々と続けているうちに、思い出したのは何と70年も前に体験した映画の一こまを見るような光景だった。

何であんなに昔の出来事が甦ったのかは分からないが、一面の銀世界と76歳と言う年齢がそうさせたことは確かだろう。

思い出したのは帰り道の場面だった、鶴岡市内を抜けて羽黒橋、、、昔は「すがわら橋」と呼ばれた木造の橋でもう少し下流に有ったと思う、そのあたりから我が家に向かう雪の道だった。

人一人が歩けるだけの1本の狭いふみ跡になっていた、周りは一面の雪で人影はなくどんよりとした曇り空の下にはるか遠くまで点々と集落が見とおせていた。

記憶はもう定かではないがあの日もちょうど1月の今頃のような気がする、市内の家々もみな雪に埋まる様にどこを見ても真っ白だった。

細い雪道を小学1年生の私を前してすぐ後ろを母が歩いて家路についていた、私の首には「白木の箱が白い布」に包まれて下げられて胸の前で揺れていた、話をするでもなし黙ったまま歩いていると向こうから人が来るのが見えた、すれ違うだけの幅が無いのでどちらかが道を譲らないと進むことが出来ない。
DSCN0826 市内を背に赤川に架かる羽黒橋から我が家の方向、昔は人一人が通るだけの細い雪道しかなかったが70年と言う月日はすべてを変えてしまった。

私と同じように「だるま」と呼ばれていた黒いマントを着た男の人だった、近ずいて来たがまだ50mはあったろう「道を譲るのはまだだな」と思って居たら、マントの男は早々と雪を踏み固めて場所を作り道を譲ってくれた、しかも深く頭を下げて私と母が前を通り過ぎるのを待っていてくれた。

私にはそのしぐさが理解できなかった、なぜ私と母に道を譲りしかも頭を下げてくれるのか、、、、そのようにして我が家まで約8kmの道で、出会った人は皆同じように深く頭を下げて道を譲ってくれた。

あの日の朝当然の様に学校を休まされて雪道を歩いて鶴岡に向かった、今とは違って雪も多かったし鶴岡に向かう県道はたまに、「トテ馬車」と呼ばれた「箱型の客席」を乗せた馬橇が通ることも有った。

馬橇に対してトテ馬車とは変な呼び方だが雪のない季節も「馬車に客席」を乗せて、鶴岡市内と往復をして人を乗せていくばくかの代金を取っていた、それが「来たよー」と言う合図にラッパを吹いて家々に知らせていた、ラッパの音が「トテトテ」と聞こえたからトテ馬車、、、と呼んだのだ。

だからだろう橇に変わっても先に名前が付いた馬車と言う呼び名のままだったのではないかと想像している、子供心に1度は乗ってみたいと思ったが、思いは実現しないでいつのまにか「トテ馬車」は姿を消した。

あの日はトテ馬車が通った跡もなく、細い雪道を長い時間をかけて歩いて着いたのは何処かは思い出すことが出来ないが大きなお寺さんだった、すでに300人かあるいは500人ぐらいだったろうか大勢の大人が集まっていた、境内の一角に有る広い部屋に案内され座ると、戸が開け放たれ中庭を挟んで木々の向こうに本堂が見えていた。

坊さんの大きな声の読経と大勢の人が座っているのがよく見えていた、そして一角には白い木の箱が何百となく積み重ねられていた、ずいぶん長い時間を待たされた、ついに自分の番が来て本堂に案内され読経が終わると白い木箱と真っ白な布を受け取った。
2016,1,21の3 雪国の1月は暗い、雲が低くどんよりとして黒い集落と集落を細い雪道がつないでいた、寒さと暗さは良いものではない76歳になっても慣れることはない。

自分は何をしにこのお寺に来たのか知らされていなかったと思う、知っていたら雪道を譲り頭を下げてくれたダルマを着た男の心を理解できたはずだった、何も知らぬままに首から木箱をぶら下げられて前を歩かされた。

大人になって理解できたのは、あの光景は市内だけではなく近隣を含めた合同の「戦没者の慰霊祭」だったと思う、もらった「木箱]は振るとカランカランと木片が躍る音がしたのでお骨ではなく名札でも入っていたものだろう。
DSCN0828 現在の鶴岡市役所付近、あの日もこれ以上の深い雪に覆われていた、子供心に暗い印象がある。

大人は皆があの日慰霊祭が行われることを知っていたから戦死者に敬意を表して、はるか向こうから近かずいて来る「白い布に包まれた箱を首に下げた子と母」に道を譲ってくれたのだろう、父がフィリピンで戦死したとの公報は終戦の前の年の12月に有ったのだが、戦地からお骨が届いたわけでもなし、知らせだけではどの遺族としても信じられない思いが続いていたものと思う。

県内でも戦死したとの公報が入った人が、引き揚げ船で帰ってきたと言うニュースも珍しいものではなかったので、国としてもけじめをつけるために戦後になってまとめて慰霊祭を行ったのだろう。

一応のけじめは着いたのだが、しかしその後10年も母は父の戦死を信じなかった、毎日必ず「影膳」を据えて戦地で食べ物に不自由しない様に祈っていたし、千日の願をかけて近くの神社にお参りしていたのも記憶に有る。

戦争で壊された家庭は我が家だけではない、この庄内にも身近に普通に、しかも多く存在したのだ、国にとっても大きな教訓として今に生きているのだと思うが、2度と同じ思いはしたくない、今日の雪は思いがけない昔の出来事を思い出させてくれた、今の平和を子供や孫にもそのまま伝えてゆきたいと願うばかりだ。

 

平成28年1月16日

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