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館長思い出語り 2

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加茂水族館の46年間にはいろいろな節目があって、折に触れて思い出されるが、昭和57年も大きな出来事があった。

すでに昭和46年12月の倒産を経て、東京の商事会社が1億4千万円の負債諸共経営を引き受けていた…。というよりも実質、鶴岡市が頼み込んで強引に押し付ける形で引き受けて戴いたというのが真相であるが、とにかく経営は寄り合い所帯の第3セクターから、全くの民間企業として運営されていた。

日帰りのヘルスセンターだった施設も、ホテルに生まれ変わり以前よりは経営状態がよくなっていた。しかしにわか商売が旨く行くはずも無く、水族館からの利益は全てそちらに流れ続けていた。(この構図は昭和42年に市から売られて以来変わる事がなかった。)

昭和57年の3月頃と思うが東京本社から山本と云う責任者が、ホテルをこれ以上営業を続けるのは無理だから、廃業したいと乗り込んできた事があった。それ程幾ら頑張っても利益が出ず、いつも難しい綱渡りのような経営を余儀なくされていたのである。

しかし旨く行っていない会社を閉鎖するのもそう簡単なことではない。負債を全て清算し職員に2か月分の給料と退職金を支払わねばならない。市や県も僅かではあるが出資しているので色々な方面に影響が出る。

けっきょく閉鎖は出来ないでしまい、代わりにホテルの借金を水族館に1億1千200万円を背負わせたのである。16年間一方的に流れ続けた金を、きちんと清算すれば借金どころか貰い分が相当の金額で有ったはずだが、それはせずじまいに、結論だけの言い渡しがあった。

私はその話し合いに参加しないでしまったし、不満はあったが使われている身分では従う他無かった。オープンして19年経っていて入館者の減っている中で、以後借金の返済を迫られ奈落のそこに落ちてゆくような日々がはじまった。

このような中で何とか入館者を増加させねばならない。前から考えていた「アシカショー」を実行する事にした。

一時はどこか他の館からアシカも調教師も借りてきて夏休みの期間だけやろうかと考えたが、どっち道シショーを行う施設は必要だ。そこまで金を掛けるならいっそ自前でやってみようと考えたのである。

翌昭和58年に一人の男をアシカショーの担当ということで採用して、鴨川シーワールドに3ヶ月間の研修に出して翌年からアシカショーが始まった。

素人が一人前にアシカのトレーナーとして芸を教えるには少なくても5年から7年を要する。研修先の水族館で自分のこともやっとなのに、アシカに達者な芸を教える事はどだい無理であった。

やはりアシカのショーは見るとやるとでは大違いで、翌年3月鳴り物入りで「加茂水族館のアシカショー」として始めてみたが、とてもショーとはいえる代物ではなかった。

しかしやはり何ごとも1歩踏み出す事が大切だ。あそこで躊躇していたら「今クラゲで頑張っている男」に出合うことも無かったであろう。アシカショーで入館者を増やす事は出来なかったが、一歩前に出たことで後に芽を吹く大きな種を播いたことになる。

借金を背負わされた事も分析してみれば、回りまわってクラゲにたどり着く一里塚であった

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