冬になり、雪が積もると、土曜日に親父さんから便りが届く。新股の集落から通っている生徒が紙切れに1行か2行、簡単に書かれたメッセージを持って来るのである。
それにはただ、「明日兎とりに行くからこい」とか、「今晩から泊まれ」とか書かれてある。
日曜日に山に入るとなると、土曜の夜から親父さんの家に泊まって翌朝早くから兎撃ちに行く事になる。
まだ、暗いうちに起き、奥さんのつくってくれる大きな握り飯を風呂敷に包み腰にしばりつける。あのころは長靴に代わるムレなくて履きやすい靴などなく、ゴムの長ぐつの上を縄で2回くらい巻いてしばり雪が入らないようにし、カンジキをはくだけだった。
いつの間にか長靴に融けた雪が浸みこんで必ず中はぐちゃぐちゃし、足はふやけて白くなっていた。
出始めたばかりの防水の効かないアノラックが有ればいい方で、だいたいは雨合羽を上に着て身じたくは終わる。
おやじさんは長ぐつではなく木綿のタビに、稲ワラで作った「ジンベ」という、スリッパ状のものをはいていた。
ズボンを足首の所でしばっていたが、後ろを行く私の眼には歩く度にカカトの所が丸見えとなり、いかにも寒そうだった。しかしあとで私も同じスタイルで山に入った事があるがタビの上にワラの「ジンベ」はむしろ、ゴム長よりずっと暖かく軽くしかも濡れた感じがしなく、快適なものであった。
兎うちは私と親父さんの他に、同じ集落の友達を誘って1人か2人位同行するのが普通であった。
山に入る日は天気の良い日だった記憶は殆どなく、吹雪の事が多かったし、時々ゴウゴウという風鳴りの音と大木が大揺れに揺れ狂う中を行く事もあった。
それでも、皆兎撃ちというと楽しみで、出発するときには、声がはずみ興奮気味であった。
今アスファルトの小倉林道が親父さんの集落から小国町に通じているが、あの頃は細々とした山道が曲がりくねって途切れ途切れに続いているだけで、雪がなくとも小倉迄行く人は殆どいなかった。
その林道の入り口の沢伝いに山に入って行くのである。沢伝いに入って間もなく、植林して20年程のそれ程まだ育っていない広い杉林に出る。ここは昔熊が出た事があるとかで、「熊林(くまばやし)」と呼んでいた。
兎の「巻狩り」はまず、最初はこの林で行うのである。
杉は枝が大きく横に張り出して繁って、枝の上の雪が地面に積もった雪に垂れてつながり、すこぶる見通しが悪かった。兎は外敵から身を守る為に、そんな場所で日中を寝て過ごすのである。
杉林の手前で親父さんが皆を集め、雪の上に枝で熊林の図を描きそれぞれの配置を割り振りをする。
そして、撃ち手が林の向こう側に先回りする。
撃ち手が持ち場についた合図は空の「薬きょう」を強く吹くピーッと言う音であった。
現在、ハンターが使用している薬きょうは紙で作られた使い捨てのだが、当時は真鍮製で、同じものを何回も繰り返し使ったものだった。
明日、猟に出るという前の晩に、囲炉裏を囲んで、空の「薬きょう」にまず新しい雷管を付け、火薬を目盛りのついたシャク状のもので、測って入れ、ボール紙を丸く打ち抜いた仕切りを入れ、次に、鉛の小さいタマを測って入れ、又、ボール紙の仕切りを入れ、さらに、雪が入っても火薬が濡れない様に、ロウソクを溶かして目張りをして出来上がりであった。
この一連の作業もいつものことなのでお互いがする手順が分かっていて、明日の猟の期待と気持ちの高ぶりとが交じる過去の自慢話を賑やかにしながら、私がタマ作りをしたり、親父さんが猟の支度したりしながら20発程を作るのである。
弾帯の一番端に空の薬きょうが一本さしてあり、それが合図の笛となる。兎や野生のケモノは人の声や物音には敏感だが、笛の音には警戒心が無く何の反応も示さない様であった。
耳を澄ませて待っていると、吹雪の日であっても、少々遠くからでもピーという音は聞こえてきた。その音で追い手の者が声を挙げて追い始める。
「ホーイ」とか、「ホラ、ホラ、ホラ!」とか「ホーホー」とか、大体、そんな声であった。
カンジキをはいていても、太モモ迄雪にぬかり歩くのは骨が折れる。一人でも歩いた後なら、大変楽なのだが、新雪のラッセルはこたえる。
数十メートル歩いては立ち止まり、又、声を出して追う。林の3分の1か半分位入った所で、運が良ければ鉄砲の音が聞こえるが、しかし熊林といえど必ず兎が入っている訳ではなく、入っているのは三度に一度位であった。
林の間から親父さんの姿が見えれば、もう兎は飛び出す事はない、そこの「巻き狩り」は終わりとなる。
一年生の頃は、私が鉄砲を持つ撃ち手(ブッパと呼んだ)になる事は殆ど無かったが、二年生になると、撃つのも少し上手になっていたので時々撃つ方に回る事があった。
この熊林で一度だけ、私の前に兎が飛び出した事がある。親父さんの指示通りの所に待っていればよかったのだが、間違えて少し離れた所に立っていたものだから、追われた兎は私の方に向って走ってきたのではなく、前を横切るように数十メートル先を左に走り、雑木林の急斜面を駆け上ったのである。
ぬかる雪の中を走って追い、急斜面を見上げた時、兎は登り切って見えなくなる寸前であった。
よく狙って撃ったが、兎はそのまま登って見えなくなってしまった。
逃がした、残念!!と思っていると、その兎が斜面を転がり落ちてきた。野性の獣は良くそんなことが有る。心臓が止まるまで走り続けるのである。
逃がしたと思った兎が捕れたので、嬉しくなり、兎を手に持って声を出して人を呼んだ。すると思いがけなくさらに追われた兎が一匹飛び出して来たが、私の声に驚きあわてて又杉林に戻って行ってしまった。
それで、親父さんに褒められると思ったら、「逃げたもう一匹の方が残念だ」と私の失態をしかられた。
兎は臆病な生き物だが、ただ追われて一目散に奥え走るのではない。この辺は猟を知らない人は間違える所だが、少し逃げては立ち止まって耳を澄まし周りの様子をうかがう。少し逃げてはまた耳を澄ましてどの方角が安全か探っている。
逃げる事しか身を守るすべのない兎にとって、どの方角に逃げるかを判断するのは命に係わる一大事である。高等なアンテナと判断力で見事に勢子と勢子の間をすり抜けるのである。弱いことは確かだが決してバカな生き物ではない。
私が親父さんの家に泊まる事も、学園の日曜日に礼拝にも出ず鉄砲撃ちする事も、学園の先生には何の連絡もしなかったし、それが特に問題になる事もなかった。
あの頃の学園に規則らしいものは、いくら思い出そうとしても出て来ない。全てが自由だった。
猟から帰ると、捕れた兎が皮をはがれてナタでぶつ切りにされて大鍋で煮られる。肉は大ざっぱにしか取らない。骨付き肉はあとで「骨かじり」と称して、歯で肉をむしりとって食べるので、わざと残しておくのである。
それに必ず入れるのは、大豆を一粒、一粒「金槌」でつぶしたものと、大根、人参、ゴボウである。
味噌で味を付けるだけの兎汁は、何にも替えがたいうまさであった、山から帰った疲れでぼんやり囲炉裏側に座っていると、奥さんが自在鉤に掛けた「鍋」でご飯を炊き、お汁を作り、私の前で次から次に夕飯をこしらえた。
しかし鍋でたくご飯は、ここでしか見たことが無くいつも奇妙な感じをさせられるものだった。
私は親父さんの家に行くのが楽しみで、呼ばれなくとも良く行ったし、奥さんやおばあさんの温かい人柄に甘えた。