74にもなった老館長が最後の大仕事として、何とかクラゲの水族館を誕生させる事が出来たのだから幸せという他ない。やはりこれ以下ないと言われた小さな水族館だとしても、この道に入ったからには何か新しいものに挑戦してみたかった。
しかしだからと言ってそう簡単に願いが叶うものでもない。27歳で館長になって48年と言う長い年月がかかったが最後の最後に何とかなったのだから不思議なことだ。人様よりも能力が優れていたわけでもない。恥を忍んで言えば落ちこぼれ人生だった。
お金も、人も場所もすべてが不足していた中で、少しずつにじり寄るようにしてクラゲの水族館に近づいて行けたのだから、この世もまんざら悪くないじゃないかと思っている。私は実に付いている。
クラゲの展示が日本で本格的に開始されたのはもう47年も前の事になる。アクアマリンふくしまの安倍館長が昭和42年に浅虫水族館からミズクラゲの繁殖の指導を受けて、上野動物園水族館で8月から展示を開始したのが繁殖通年展示の始まりだと解釈している。
そうなると、この間多くの水族館でクラゲの展示を取り入れ結構な人気を博していたのだが、なぜ他では脇役に押しやられていたのだろうか。
水槽のガラス越しに泳ぐクラゲを見たらどなたでも美しさに見とれたはずだ。クラゲ担当者はもっともっと多くの種類を展示して訪れるお客様を感動させてやりたいと願っただろうと思う。
多くのお客様がクラゲを見に来てくれる。
寿命が短いクラゲを通年展示するには難しい繁殖に取り組まなければならないという厄介な仕事が有る。他に魅力のある生き物が展示されていたら無理をする事は無いのだろう。
加茂には他にめぼしい展示がなかったのが他と決定的に違う点かも知れない。クラゲの展示にたどり着いたのは平成9年の事だから、今18年目に入ったことになる。あの時経営を任されていた私は暗い毎日を送っていた。いつも倒産と言う文字から逃れる事が出来なかったからだ。
1万円のものさえ買うのに躊躇していた貧乏のどん底で、クラゲの魅力に憑りつかれたと言っても必要な機材の購入は殆ど不可能だった。何もしてやる事が出来なかった私を尻目に若い職員が創意工夫で立ち向かってくれた。
あるもので何とか工夫をして飼育、繁殖を試みた。
クラゲの餌になるアルテミアさえ倹約してくれと指示した。真っ暗闇の向こうに見えた小さな光に向かってしゃにむに突き進んだが、すべてが難しくまた初めての経験で何もわからなかった。しかしそれがまた面白かった。
開館まであとひと月と迫った日、館内を一巡り歩いて回った。魚はまだ入っていない。ゴマフアザラシも半分はまだ旧館に居る。
クラゲだけが50ほどの水槽にすべて運び込まれている。見回りの最後の水槽が目玉の5m水槽で毎日ここにきて見るたびに感動を新にしている。
初めてここに来たのは去年の10月ごろだったと思う。コンクリート打ちが終わって型枠が外されてクラゲ大水槽の形が現れたと聞いた。工事用の鉄製の狭い梯子段を上り詰めた向うに5m水槽が口を開けていた。
照明もない工事現場の暗闇に落とし穴の様にして静まり返っていた。「これは巨大だ」と思った。こんな巨大な水槽にミズクラゲをいっぱいにして泳がそうなんて飛んでもない。挑戦すると言えば聞こえがいいが俺はとんでもないものに挑んでいたのではないか。人の書いた数字と文字と出来上がった実物の差がこれほど大きかったとは、計画書を作った自分が震えていた。
足場のパイプや天井を支えるポールの間をくぐりながら何度見に来たことか。そのたびに震えていた。ガラスが取り付けられてまた震え、初めて海水が注入されてまた震えた。
開口部が直径5mだが内部が少し広い作りになっている。奥行きが狭いので水量は40トンしかない。これが新加茂水族館での最大の水槽だった。
上から見た5m水槽。目の前にするとこれほど巨大だとは・・・
たった40トンで全国にある多くの水族館の巨大な水槽と競い合ってゆかねばならないことになる。何としてもミズクラゲをいっぱいにして訪れるお客様を感動させねばならなかった。
それにしても高がミズクラゲの繁殖ではないか、何ほどの事も有るまい、今やっている延長線の先に有るだろうと思っていた。今やっている繁殖を規模に合わせて拡大すれば済むと思っていた。
実際やってみるとまるで別次元の仕事だと気が付いた。何度挫折したことか、何千匹と展示していたミズクラゲが一夜にして全滅という事が何度かおこった。
原因不明の繁殖失敗が長く続いたら、やっと1年後に別のクラゲのポリプが悪戯していたという初歩の失敗もあった。「まるで賽の河原の石済みだな」と思った。
新水族館の設計変更が出来ないぎりぎりの所でもまだ失敗を繰り返していた。追いつめられていたが現場の者はあきらめなかった。そしてどうやら日に1,000匹の生産をできるというやり方を見つける事が出来た。
新水族館をクラゲで・・・と、当時の市長に提案したのが平成19年の6月の事だから、あれから7年が経過したことになる。あの案にはミズクラゲ大水槽として100トンを記載していた。勢いだけは今よりも大きなものを持っていた事になる。
最初から万と言う数のミズクラゲをどのように移動して、どのように掃除をするか。これと言う解決策もないままに計画を進めていた。何としてもやりたいという勢いだけが先に立っていたからだろう。
他のクラゲではなく、ミズクラゲだからこそわが手で最初に巨大水槽をどうしても遣りたかったのだ。
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これまでの努力は全て新水族館をスタートさせるための準備だったと思っている。むしろ目的の地点に到達したこれからが難しい経営を迫られるのではないか。
しかしここの職員はクラゲの水族館が出来たからと言ってこれがゴールだとは考えていない。やっとスタート地点に立てたのである。ここからの働きが本当の評価につながるのだと思う。
日本がクラゲの展示の元祖だとは先に述べたが、その後の展開を見てみるとすでに世界中でクラゲの魅力を素晴らしいと認め水族館の展示に取り入れている。展示の手法や情熱はむしろ学びに来たアメリカやヨーロッパ、カナダ、香港などが先に行っていると見て良いのではないか。
加茂水族館にも多くの国から見学に訪れてくれた。
しかしそのどこも面倒な多くの種類を展示する方向には行っていなく、その点でも加茂のような50種を超える展示は新境地を開いたと言えるのではないかと思う。
今後はその手法と技術の素晴らしさを武器に世界の水族館仲間に存在を示したいものだ。来年にでもここでクラゲの世界会議でも開催したい。世界中からクラゲの飼育展示を学ぶ者を受け入れたい。そしてクラゲのメッカと言われる存在になりたいものだ。
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クラゲの展示で入館者が回復したのは事実だが、急激な伸びを見せたのは平成14年4月鶴岡市に買い取られてからだった。普通なら民間から市に移れば難しい制度が壁となって業績は落ちるはずだった。
加茂が逆になったのはなぜだろう。それを一言で言い表せば無法者館長が難しい制度と真っ向勝負したからだと思っている。館長とは言っても与えられている決済権は50万円まで(のちに60万)だった。
それをこえる工事や設備は市がするという約束だったが、実際はどこも同じだと思うがお役所には金がないのである。ぼろぼろの水族館を市が買い取ってくれたのは嬉しかったが、それを補修したり設備投資をしたり魅力をアップするお金を出す事は無かったのである。
ならばどうしたかと言うと、職員に号令をかけて「皆で一生懸命努力して稼ごう。その金で自分たちのやりたいと思う事を実現しよう」と呼びかけた。皆が必死の努力をしてくれた。
人間の喜びは給料だけではないようだ。自分の思いを実現できるのは何にも勝る喜びとなり、指示されなくても自分から力を発揮してくれる様になる。
稼いだお金を冬の間に投入して春休みのシーズンまでに、クラゲなりアシカショーなり、魚類なりの魅力を少しでも上げようとした。
ここ数年は冬の間どこかを工事していたものだった。
しかし稼いだお金が権限をはるかに越えていたのである。このお金を使うには制度に従わねばならなかったが。時間のかかる面倒な制度に従えば春になっても手続きさえ終わらないのは目に見えていた。
そこで手続きはせずに直接工事を発注して仕事をやりとおした。制度を守る側との軋轢は当然あったが、このやり方を無理やり12年間続けたから大きな実績を上げることが出来たのだと思っている。
この辺が館長が無法者と言われるゆえんだった。経営の中で大事なのは決断力ではないかと思う。頭が良くて利口でまじめでいい男でもダメなようだ。ドン・キホーテでも結構先に立つものが立ち向かう事で道が開けるのである。どんな制度の中であろうとも実績こそが命ではないかと思う。
(「どうぶつのくに」Vol.64に掲載したものを改編)