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ノーベル賞学者の下村脩先生のメール

東北の片隅にある小さな水族館のおやじが、ノーベル賞を受賞した大先生と時々メールのやり取りをしていると言ったって、聞いた人はにわかに信じがたい事だが、なぜかそれが本当にあるから世の中面白いと言える。

この冬は強い寒波が何度も日本列島を襲ったが、最後の寒波が吹き荒れている2月の18日13時ごろだった。仕事もせずにぼんやりと眺めていたパソコンの画面に突然Shimomuraという着信が届いた。あっと思い開いてみると、下村先生からの「豪雪のお見舞い」とあった。

【村上館長 様  豪雪のお見舞い申し上げます。今年は世界中で異常な天候が起きているようで、TVジャパンで何回も鶴岡の雪景色を見ました。今日のテレビによると日本海側にはまた降るそうで、いつまで続くのでしょうか。お宅は山の方に有るとのことで、大変でしょう。
こちらは異常暖冬で、20センチの雪が一度降っただけです。どうぞ風邪を引かないようにして頑張ってください。 下村 修】とあった。

何度かやり取りしている間に私が羽黒山の近くに住んでいることもご存じである様子が文面にある。

アメリカのボストンから近いところにお住まいになり、今なお発光生物の研究を続けておられるそうだが、やはり日本の事が気になると見え時々TVジャパンを見ては故郷に思いを馳せて居られるのであろう。そこに一度訪れたことのある鶴岡市の大雪の様子が何度か登場したようである。

そしてわが加茂水族館のことを心配になり、メールをしてくださったという事になる、

私は先生の親戚でも同級生でも教え子でもなくてただの他人である。確かに平成20年10月以来オワンクラゲが縁となって交流が始まり、一度このちっぽけな水族館にお出でいただいたという経緯は有るが、心配して頂くほど目立った存在でもない。

あれきりで忘れ去られても当たり前の所であるが、なぜ下村先生はこんなにもこの小さな水族館にやさしいのだろう。おそらくだがこの山形県にノーベル賞学者とこうしてメールのやり取りをしている人はそう居ないはずである。まして鶴岡市となるとまずいないと言っていいのではないか。

一度お出でいただいた時もそうであった。「何でこんなちっぽけな我が水族館にきてくれた物ですか?」とお聞きしたら「田舎が好きですから、興味が有りましたから」と返事が来た。

田舎が好きだからと言ってここを選ぶ理由にはちょっと弱い。他の何かが先生の心を動かして興味を持たせたことになる。それはよく分からない。しかし想像するに先生の生き方は「人の役に立ちたい」という思いに人生をささげた方である。オワンクラゲから取り出した「緑色蛍光タンパク質」も特許を取っていない。

世界中誰でも好きに使えたことで、医療水準が飛躍的に高まったと言われている。この生き様が私の所にも光となって射してきたのではないか。ここが貧乏で老朽化して、一番小さかったからこそ来てくれ、そして時々心配のメールもくれるのではないだろうか。

昨年の3月15日には大震災と、原発事故のお見舞いが届いている。4月5日には加茂水族館の入館者が激減したことへのお気使いがあった。7月26日には新水族館建設に及び、「もちろんオープンには参列させていただきたい」と有った。

現在確か82歳になられたはずであるが、あと2年半お元気でいて頂きたい。そして何としても新水族館のオープンにはお出でいただきたいと思う。

時々のメールにはここで働く者が皆多くの力を戴いた。“先生これからもお元気で”

狐に騙された

実に奇妙な出来事だった。昨日の帰宅途中で起きたことだが今なお何が起きたのかいくら考えても理解できない。こんなことを狐に騙されたというのだろう。

そもそも発端は、このところの路面凍結で朝夕の市内の渋滞ぶりはひどい事から始まった。今日の帰宅にはそれを避けて田圃道を通れば、混むこともなくスムースに短時間で我が家に帰れると思ったのである。ただ注意しなければならないのはこれだけひどい吹雪だと、主要な道路から外れた分除雪が後回しにされて、時々吹き溜まりに行く手を阻まれることがある。

途中は行き交う車も思ったより多かったし何事も起きかった。市内を通るよりも渋滞もなく吹き溜まりも出来ていなかったし、順調に走ってスーパー農道を右に曲がって、あと数百mで我が家にたどり着くはずであった。

しかしゆけども走れども、すぐそこにあるはずの見慣れた我が家は現れなかった。深い雪の中に杉の木に囲まれた見覚えのない農家が散在するだけであった。しばらくは何事が起きたのか分からなかったが、雪で交差点を見落としてしまい間違えて次の道路を曲がってしまったのだろうと考えた。

ならばここは市野山という集落のはず、この先は見当がつく。ちょっと間違えたがこれは雪だったから仕方がない、まあいいだろう・・・と思いつつ先に進めども思い描いた家並みは現れなかった。

突然こんなところにあるはずのない綺麗に除雪された幅の広い道が表れた。そこを右に曲がってみた。思った通りなら一つ先の道路からは幼稚園の窓明かりが見えるはずであった。向こうにそれらしい大きな建物がひっそりと建っていた。

しかしそこまで行くと違う家が立ち並んでいる。奇妙な事に行きかう車は1台もない。どこまで行っても自分の車だけだった。もう完全にあせっていた。消防ポンプの小屋が有ったが、これも見覚えがない。

半径5k~10kmの、このあたりのことは隅から隅まで知っていたつもりだった。狐につままれた気がした。

吹雪の中に突然信号機のある交差点が表れて、右に行けば鶴岡市、左に行けば藤島と出ていた。

しかし方向を失ったままではどちらに我が家があるのか見当もつかない。左に曲がってみたが、行けども行けども白い雪の壁と見知らぬ集落が続いている。人家を外れてしばらく走るとかなり大きな川を渡った。

こんなところに知らぬ川が流れている。橋を通り過ぎながら暗い川面を見下ろしたが矢張り見覚えはなかった。そしてまた集落に入って通り過ぎた頭上に道路標識が見えた。柳久瀬(やなくせ)と書いてあった。

これは知っている。中学の頃ここまで魚取りをしながら笹川を下って約2km、ここが最も遠い引き返し地点だった。やっと我に返って見回すとはるか前方に行き来するかなりの数の車のライトが見えた。アー助かったあそこを左に曲がれば我が家に帰れる。時計を見たらあれから20分が経過していた。

こんなに長い時間どこを走り回っていたのだろう、そう思ったら思い出した出来事が有った。私が小学校の2~3年生のころ近所の若い衆が、どこかで酒を飲んで折箱片手に帰宅する途中で狐に騙されて、幾ら歩いても家に着けず一晩中我が集落を歩き回っていたと話しが伝わってきた。雪の降る中を歩き回った足跡の周りには狐の足跡が付いていた。そして折箱は狐にとられて失っていた・・・とまあこんな話だった。

3軒隣の若い衆だったので、すぐに足跡を見に行ったおぼえがある。確かに大人の長靴の跡に獣の足跡が続いていたのを見た。65年も前の話だが同じキツネとは思えない。孫かひ孫かも知れないが、いまだに悪さをする狐がいると見える。

ギネス記録登録の事

ギネス記録に申請してみようかなと考えるようになったのは、平成16年ごろからだった。初めは「館長歴が世界一長い」ことを申請しようと考えていた。それが常設している「クラゲの展示種類数」も、となったのは、平成17年の3月から始まった世界一の展示のせいだったと思う。

私が加茂水族館の館長に就任したのは弱冠27歳の若さの時だった。昭和の42年6月1日から突然「明日からお前が館長をやれ」と言われ、飛び上がるほどびっくりしたあの日がつい昨日のように思い出される。

鶴岡市が湯野浜温泉の裏山一帯を観光開発するという目的で、資本を募って会社を作ったが当面仕事もお金もない。ならば当時20万人以上の入館者があって繁盛していた加茂水族館を与え両方を満たす、という目的で水族館は簡単に売られてしまったのである。

買った会社が経営できないから飼育係もついて行けと言われ、込みで売られて、気が付けば館長以下主だった人は市に戻ってしまい私がいちばん年上だった。そのせいで若造に館長をやれと言うお鉢が回ってきたのだろう。

長い間に幾多の変遷があったが、館長だけはそのまま現在まで代わり映えしないままに続いている。聞くところによればアメリカのボストンの水族館の何とかという館長が37年間という記録を持っていて、それが世界一だとのこと。ならば私の方が8年も更新したことになる。

世間体を考える前に宣伝に使えるネタは何でも出し惜しみしないのが私の方針だ。ギネスに問い合わせてみたら「あなたの提案は少々専門的すぎる」との理由で館長歴の方は門前払いされた。そして残ったのが展示種類数の方だった。

手続きは結構厳格なもので、専門家二名による確認と書類にサインが必要となる、うまくしたもので12月27日にエチゼンクラゲの調査で下関水産大学校の上野先生と、京都大学の久保田先生が来てくれた。これをチャンスに、30種の確認をして申請の書類にサインをして頂いた。

手続きはこれで整った。あとは登録できたとの返事を待つだけである。おそらくは4月中には届くだろう。果報は寝て待てだ。桜の季節を待つことにする。

2年半後に新水族館がオープンする

震災が起きた年だからだろうか。一喜一憂しながら過ぎた今年の時間は、これまでに経験したことのない速さだった。ガソリン不足と流通が止まったあの暗闇がつい昨日のように思い出される。

「イワナ釣りの友」でもあるアクアマリンふくしまの安部館長は、復旧に1年はかかるだろうと見られていた震災後の開館を、わずか4か月ほどで成し遂げて仲間たちをあっと驚かせていたが、原発事故の影響を受けていまだに入館者が減少したままだと聞いている。

震災、原発事故と太平洋側の多くの人の受けた被害は、これからまだどれ位続くのか。それを思うと、自分の今を喜んでばかりはおれないが、少し近況報告をしたい。

この10月30日に加茂水族館が新しく建て替えられるための「本設計」が、鶴岡市より東京の設計業者に契約されて正式に着工に向けて動き始めた。そして記者発表が11月2日にされ、日々地元の新聞をにぎわしている。

予定通りに進めば来年の10月には、目の前の駐車場で工事が始まることになる。これで3年前から始まった新水族館着工に向けた取り組みは、いよいよ最終章を迎えることになる。「館長、今の心境は・・・?」と聞かれるが、とても一言では気持ちを表すことが出来ない。

私はこの小さな水族館で46年を過ごしてきた。この間の出来事は多すぎてまた波乱に満ちていて簡単に語ることは出来ない。この点について、実績ではとても及ばないが、苦労話だけならどん底から立ち直って日本一繁盛動物園になった「旭山動物園」に負けないほどある。

ここで一つ後世のために書き残しておきたい思いがある。それはこの新しい水族館計画のほとんどすべて「規模から内容」まで、加茂水族館のスタッフの考えをそのまま鶴岡市が受け入れて、大金をかけて実現しようとしてくれていることである。

民営の水族館ならいざ知らず、公立の水族館となると大部分は現場の考えは一部に取り入れられるだけということが多い。それはどうしても市民や議会、マスコミなどの批判にさらされる立場にある関係上、見通しのはっきりとした説明のしやすいものに偏らざるを得ないという事情がある。

加茂水族館のような世界にまだ一つも存在しない「クラゲを見せる水族館」を建設するとなると、他に前例や参考になる施設はないことになる。これを提案した私どもスタッフを信じるかどうかの判断に掛かってくるわけで、市としても真に大きなチャレンジをしてくれたことになる。

旭山動物園に例があるが、ここまで現場を信用して仕事をさせてくれる例はめったにない。成行き上責任のすべては館長が背負うことになるが、その緊張感よりも信じてもらえたという感謝の気持ちのほうが大きい。男冥利に尽きるな・・・と思う。

開館まであと2年半ある。クラゲという厄介な相手は、なかなかこれでもう新水族館は安心だ、というお墨付きを与えてくれない。感謝と緊張が入り混じった今の気持ちは開館しても続くことになるだろう。鶴岡市の他にも、ここまで支えてくれた多くの人に感謝したいと思う。

大震災にあう

もうあれから70日が過ぎた。当時は受けたショックの大きさから、此れが元に戻るには数年は掛かるだろうと思っていたが、直接の被害を受けなかった地の利が幸いしたのか、意外に早い回復を見せたのは正直言って驚いている。

あの日3月の11日は小学校の春休みを1週間後に控え準備万端整えて、いざ今年もいよいよ始まるぞ、はたして今年も多くの来館者で賑わうことができるか、クラゲ人気に陰を射して思ったよりもお客様が来なかったという結果にならないだろうか、とか緊張をしていた時期である。

ここは殆ど大きな揺れは感じないでしまった。少しいつもより長いなと思っただけである。誰も騒がなかったし物も落ちてこなかった。

ただ事ではない事に気がついたのは、テレビを付けてからである。宮城県の沖で巨大な地震があった、30分後には津波が来るだろうと報じていた。しかしテレビに映る宮城の海は穏やかに波が寄せ、陽が射していた。

その後に来た津波の恐ろしさは、私が今更語る事もないであろう。現実のものとは思えないほどの力で何もかも押し潰しながら、何処までも遡っていった。

巨大な津波に襲われた太平洋側に比較すれば、直接の被害のなかった加茂水族館は恵まれていたというほかないが、流通とガソリンが止まったことで客が来なくなるという被害は、希望の全てをなくするに十分だった。

ここは補助金に頼らない独立した経営をしている関係上入館者がないということはそのまま経営の危機となる。

いつもどおりの営業が出来たなら、過去最高の入館者を3月で更新するはずであった。思いの全てを込めて冬の間中思い切った改装をしたクラゲの展示室も、見る人とてないのでは報われない。

いつもならこれから今年の観光シーズンが始まるという明るく勢いが膨らむはずの春休みであった。

流通が止まったことはすぐにクラゲの展示に影響が出た。春が来て日本各地にいろいろなクラゲが出現し、一斉に加茂水族館目指して送られ始めたが、其れが届かず送り主に帰っていった。

お陰で当てにして改修した「新クラネタリウム」は淋しい展示のままだった。ガソリンが買えなくなったことも大きかった。仙台市の八木山動物園から震災直後に「水道が止まった水を送ってくれ」と依頼が来たが、これも応ずる事が出来なかった。

水を運ぶ車のガソリンが手に入らないだけではなく、帰りの分は補給できない事は見えていた。

向こうの窮状が分かるだけに辛かったがどうしようもなかった。

3月の24日頃からやっとガソリンが普通に手に入るようになった。此れが最初の明るい兆しだった。

其れと共に少しずつ客が戻り始め、平日は3割程度だったがまずその傾向が土日に現れて、8割程度に戻ったのである。

しかしまだまだ経営が安定するには程遠い状態であったが、その暗い気持ちを一気に吹き飛ばしてくれたのが4月の29日、連休初日の入館者であった。

昨年の倍の人が来てくれたのである。此の1日がどれほど私共に大きな希望を与えてくれた事か。「あの安堵感」は忘れる事ができない。

大きな借金を覚悟していた今年の経営だったが、たった1日が自力でやってゆけるという希望と確信を与えてくれた。

過去最高の入館者と同じであった昨年比で、4月が80%、5月が91%、6月が108%に戻った。此れで叉新しい水族館建設に向けて希望を持って進む事ができる。感謝あるのみだ。

酒田大火の日、高波の大被害

ここの歴史を何となく振り返ることがある。特に力が入っての思い出しではない。仕事の合間や一日を終えて眠りに着く布団の中だったり、イワナ釣りの手を休めた山奥の谷底だったりと、場面は様々だがゆったりとその場面が思い浮かび鮮明に目の前に展開し始める。これも自分が年を取った証といえる。

今日はついさっきその一つ大きな出来事を思い出した。

昭和53年の10月だった。会社の慰安旅行のかえり道だった。目的地の十和田湖から会社のマイクロバスに乗って酒を飲んだりカラオケを歌ったりし雑談に花を咲かせながら賑やかにかえってきた。

夕方の5時ごろになっていただろうか、酒田市内に入ってきたら途中で交通規制が行なわれていて、あっちへゆけこっちを回れとかなり遠回りに迂回させられた。

外から「火事が起きたから」と、云っている声も聞こえてきたが、煙も無いし火の手も見えない。あちこちと回されているうちに煙が漂ってきた。やはり火事は本当だった。

市内を抜けてやっと出羽大橋まで来て、土手で振り返ると市内からどっと火の手が上がるのが見えた。海からの風は強いというより激しかった。これではあの火は消えそうに無い。マイクロバスの中はお祭り騒ぎも吹っ飛び、皆緊張した顔で「延焼は免れないだろう」と話し合った。

黒松の林に沿って走る道も風が強かったが、湯の浜温泉から海岸に出たら走っているマイクロバスが時々止められるほどの強風が吹いてきた。

加茂を回って羽黒の我家についたのが7時ごろ。何とか無事に我家についてあーゆっくりしたとのんびりしている所に電話が来た。水族館の飼育係田中の声だった。「ものすごい高波が水族館を襲っている、とに角すぐ来てくれ。」

そげすごい波だが、すぐ行く・・・と駆けつけたが、水族館の僅か手前で高波が道路を襲っていて足止めされた。

今は水産高校から先も公園と駐車場で水族館まで繋がっているが、当時は角にある「亀茶屋」という釣りの餌屋サンより先は「潮溜まり」が道路まで入り込んでいた。

そこより先は道路に丸太や岩石が散乱していて車が行けない車を止めて様子をみていると、突如大浪がドカンと押し寄せ道を越して対岸の山すそまで達して渦巻いていた。

ここは通れない、危ないとは思ったが水族館は目の前だった。度胸を決めて波と波の合間に丸太と岩を避けて車を走らせ、やっと水族館にたどり着いた。

1階は全て水浸しになっていた。

今クラゲの展示をしているところが1階で、当時はピロテーで吹き抜けだった。クラゲを見に階段を下りて突き当たった所が当時の事務室の入り口で、左に曲がれば熱帯魚室だった。

階段下はそこいらじゅうに大小の岩や木切れ、ビニールなどが散乱している。飛んでもないことが起きていた。

事務室に入ると主だったものが集まっていた。「今し方から特に波が大きくなった。時々事務室にも入ってくる。」「帳簿類や大事なものは机に上げたがあとはどうしようもない。」

「飛んでもないことになったもんだ。なしてこげな大浪が来るようになったんだろ。」「まんずどうもなんねーのー、てのだしようがねーのー。」

事務室のガラスが波で破られていた。もっともっと大波が来るかもしれなかった。窓を守るために板を打ち付けることにした。

管理人の富塚さんが、外側から板を釘で打ち付けているところに「ガラガラドカーン」という大音響と共に海から上がった大浪がきた。

富塚さんが波に呑み込まれ、20mさきのペンギンプールまで流されて危うく溺れ死にそうになった。遊具のお化けのQ太郎も熱帯魚室に流されてきて出口から浮いて出て行った。

じきにアシカプールを囲っていた金網の柵が波の力で倒れてアシカが外に出た。辺り一体がプールと化した水溜りを泳いでいた。「何とかしねばねのー」とはいってみても200kgもある野生の動物相手ではどうにもならなかった。

田中と二人でペンギンプールの倒れた柵を直している所に叉ドカンと大波が来て、あっという間に反対側の柵に叩きつけられた。1mほどの深さのプールに沈むことなく流されたのだから、強い波だった。

どうにもならないままに時々2階のベランダから酒田の火事を見た、いつまでも空を赤く染めて燃えていた。「あっちも飛んでもない大火事だ」と話しながら朝を迎えた。

逃げたアシカは波が収まると自分でプールに入ってくれた。しかし後にこのアシカは胃袋の出口に小石を詰まらせて死亡した。石は今でも机の引き出しに入っているが、海から上がったつるっとした丸いものだった。

そのときに呑んだのか、さもなくばあの日打ち上げられたものを後に飲み込んだと思われた。あの大波がなければもう少し長生きさせてやれたであろう、かわいそうな事をした。

水族館の被害は甚大なものだった。まずアシカプールの脇にあった休憩室と倉庫が全壊、ペンギンとアシカ両方のプールの柵が半壊、事務室の窓とコンセントなど、猿ヶ島のコンクリート壁が全壊していた。

後に死亡したアシカを加えれば1千万円近い損害であった。

この被害は水族館だけではなく、隣接する今泉の漁村にも大きな被害を与えていた。一帯は前にも後にもこれほどの激しい被害を受けたことは無かったであろう。しかし全て酒田大火が大きすぎて陰に隠れて報道される事が無く、誰にも知られる事なく今日を迎えている。

あれほどの大きな波が押し寄せてきたのには原因があった。加茂港の南防波堤が延長されて、港に入っていた波が返し波となって外側を襲ったためであった。

その後テトラポットが入れられて、返し波が来なくなった。そして私の記憶も薄らいで酒田大火の高波も遠い出来事になった。

被害の翌日にいち早く駆けつけて、散乱した「壊れた防波堤のコンクリート塊」やおびただしいごみや砂に小石を人海戦術で片づけてくれ、すぐに開館できるまでにきれいにしてくれた「山形クラッチ」の田淵社長や職員の皆様には当時殆どお礼らしい事もしないでしまった。改めて御礼を申し上げたい。

館長思い出語り 2

加茂水族館の46年間にはいろいろな節目があって、折に触れて思い出されるが、昭和57年も大きな出来事があった。

すでに昭和46年12月の倒産を経て、東京の商事会社が1億4千万円の負債諸共経営を引き受けていた…。というよりも実質、鶴岡市が頼み込んで強引に押し付ける形で引き受けて戴いたというのが真相であるが、とにかく経営は寄り合い所帯の第3セクターから、全くの民間企業として運営されていた。

日帰りのヘルスセンターだった施設も、ホテルに生まれ変わり以前よりは経営状態がよくなっていた。しかしにわか商売が旨く行くはずも無く、水族館からの利益は全てそちらに流れ続けていた。(この構図は昭和42年に市から売られて以来変わる事がなかった。)

昭和57年の3月頃と思うが東京本社から山本と云う責任者が、ホテルをこれ以上営業を続けるのは無理だから、廃業したいと乗り込んできた事があった。それ程幾ら頑張っても利益が出ず、いつも難しい綱渡りのような経営を余儀なくされていたのである。

しかし旨く行っていない会社を閉鎖するのもそう簡単なことではない。負債を全て清算し職員に2か月分の給料と退職金を支払わねばならない。市や県も僅かではあるが出資しているので色々な方面に影響が出る。

けっきょく閉鎖は出来ないでしまい、代わりにホテルの借金を水族館に1億1千200万円を背負わせたのである。16年間一方的に流れ続けた金を、きちんと清算すれば借金どころか貰い分が相当の金額で有ったはずだが、それはせずじまいに、結論だけの言い渡しがあった。

私はその話し合いに参加しないでしまったし、不満はあったが使われている身分では従う他無かった。オープンして19年経っていて入館者の減っている中で、以後借金の返済を迫られ奈落のそこに落ちてゆくような日々がはじまった。

このような中で何とか入館者を増加させねばならない。前から考えていた「アシカショー」を実行する事にした。

一時はどこか他の館からアシカも調教師も借りてきて夏休みの期間だけやろうかと考えたが、どっち道シショーを行う施設は必要だ。そこまで金を掛けるならいっそ自前でやってみようと考えたのである。

翌昭和58年に一人の男をアシカショーの担当ということで採用して、鴨川シーワールドに3ヶ月間の研修に出して翌年からアシカショーが始まった。

素人が一人前にアシカのトレーナーとして芸を教えるには少なくても5年から7年を要する。研修先の水族館で自分のこともやっとなのに、アシカに達者な芸を教える事はどだい無理であった。

やはりアシカのショーは見るとやるとでは大違いで、翌年3月鳴り物入りで「加茂水族館のアシカショー」として始めてみたが、とてもショーとはいえる代物ではなかった。

しかしやはり何ごとも1歩踏み出す事が大切だ。あそこで躊躇していたら「今クラゲで頑張っている男」に出合うことも無かったであろう。アシカショーで入館者を増やす事は出来なかったが、一歩前に出たことで後に芽を吹く大きな種を播いたことになる。

借金を背負わされた事も分析してみれば、回りまわってクラゲにたどり着く一里塚であった

館長思い出語り 1

もう記憶のかなたに忘れ去られようとしているが、かつて加茂水族館が倒産の危機に面し職員全員が解雇されたことがあった。

入館者の減少で追い詰められた平成の10年ごろの事ではなく、まだ20万人近い入館者で賑わっていた昭和46年の暮れのことであった。

そもそもの成り行きは、武士の商法ではないが役人の商法が破綻した結果であったと言える。時の市長が発案した「湯の浜温泉一帯の観光開発」を目的とした会社は、加茂水族館を買収するなど、鳴り物入りで発足したが旨くいったのは最初の1年だけだった。

あの頃流行して歌まで作られた「船橋ヘルスセンター」を真似て、宴会場と風呂そしてプールを備えた日帰りの施設「満光園」を作ったのであるが、とりわけ魅力的なものが有る訳ではなかったので、一度来た客が満足していなければ次に繋がらない。たちまち翌年から経営の危機に直面することになる。

何とか客を増やそうとの努力はあったがオープンして四年目の昭和46年12月31日、全職員が大広間に集められた。暮れも押し迫った今、何事が起きたのかと思ったら、社長だった郷守重右衛門氏より「経営が行き詰まった、これ以上の経営は出来ないので全社員を解雇する」と言い渡された。事実上の倒産であった。

職員は皆、市長が発案して鳴り物入りで発足した会社がそう簡単に潰れるわけがないと思っていた。が、しかし職員20名がいとも簡単に4年を経ずにして職を失うという事態を迎えてしまった。(このときのことは庄内日報の昭和47年1月26日紙に詳しく記載されている。)

湯の浜の施設は閉鎖したが水族館には生き物が居る。簡単に首になったから放ったらかすと言う訳には行かない。誰かが面倒を見ないことには皆死んでしまう事になる。

魚だけではない。ゴマフアザラシにフンボルトペンギン、カリフォルニアアシカ3頭のほかにもオットセイも1頭、そして水族館にはそぐわないと言われたアカゲザル20頭、海水魚、淡水魚から熱帯魚などの魚まで餌を与え、温度管理をして、汚れた濾過槽の掃除や、不慮の停電などの事故に備えなければならない。

私のほかに飼育課長だった田中巳知雄、湯の浜温泉の施設からは営業課長の石川新一、バンドリーダーだった伊藤英三の3人が交代で寝泊りをし、閉鎖した水族館の面倒を見ることになった。

金庫は空でしかも先がどうなるとの目処はなし、収入の道を閉ざされて、お先真っ暗な中でどうにも気持ちのやり場が無かった。

解雇された誰もが奥さんの実家からお金を借りたり、生命保険を解約したりやり繰りに苦労していた。

あの頃は失業保険を申請しても、お金がもらえるまでには時間が掛かっていた。結局3月の12日まで2ヶ月と11日間失業保険はもらえず仕舞いだった。

暗い気持ちの中で思い付いて山形大学農学部の恩師阿部襄先生に相談に行った。

先生は水族館の閉鎖は知らず私の話に驚いていたが、庄内日報に投書して窮状を市民に訴えてくれた。八方塞がっていた中で恩師の温かい思いやりには嬉しかった。

この新聞を見た市民が一人また一人と水族館を訪れて、黙ってお金を置いていってくれた。自分の明日も知れない境遇の中でどこの誰とも聞かないでしまったが、今思い出すたびに返す返すも残念でならない。

生みの親の鶴岡市が、路頭に迷った職員に一切の救いの手を差しのべることも無かった中で、どこの誰とも知れない市民が、水族館の生き物を救うために寄付をしてくれたのである。今改めてあの時のお礼を述べさせていただきたい。

私達が暗い気持ちで動物の世話をしていたあの昭和47年の冬とは一帯どんな世相だったのか、結構強い印象となって残っているのでちょっと述べたい。

日本で初めて冬季オリンピックが札幌で行われた年である。わが越冬隊の4人は、することも無く宿直室のコタツでテレビに映る、笠谷、青地、金野の3選手が70m級のジャンプで表彰台を独占すると云う快挙を見ていた。

それともう一つ、浅間山荘事件である。山荘を取り巻く警官と中で抵抗する日本赤軍のメンバーの攻防を、やはりはらはらしながらテレビで見ていた。

そして春3月12日(日)、会社として経営難の問題が解決したわけではなかったが、市民の寄付に支えられてなんとか無事生き物も越冬し再び開館することができた。

そのときのメンバーは館長の私のほかに、飼育課長の田中巳知雄と飼育係の三船喜雄、岡田孝それに管理人の冨塚十吉、事務の佐藤美愛の6人が常勤の職員であった。

他には季節的に売店と食堂、受付に5人ほど臨時職員として採用していた。

色々な経緯があって6月頃、東京の株式会社佐藤商事が負債1億4000万円を含めて経営を引き継ぐ事になり、事実上再建された。

あのとき佐藤商事の秋元社長が経営を引き継がなかったら、結末は一体どうなっていたろう。寄せ集めの第3セクターの株主構成の中で、他に火中の栗を拾う奇特な方が居たとは思えない。恐らくは市の議会でも大きな問題として取り上げられて、すでに引退していたとは言っても、発案者である足達市長は責任を追及されただろうと思う。

その後満光園は経営安定のためにホテル化してゆくことになるが、経営が軌道に乗ることはなく、長く水族館の利益は流れ続けた。

竿洗いの年だった

今年は海は勿論渓流も含めて殆ど釣りをした記憶がない。

この小さな水族館にノーベル賞を受賞された下村脩先生をお迎えしたり、身動きが出来ないほどお客様が来てくれた5月の連休が忙しかったり、寿命の短いクラゲの展示を心配したから出来なかったのでもない。

別に何かのために決心しての中止ではなく、気がついたらそうなっていたと云うだけの話である。

海のクロダイ釣りだけではない。一時は渓流釣りだけを取ってみても実に年に60回以上もやっていたのである。「かかあを質屋に入れても釣りをするぞ」とうそぶいていた自分からすると、釣りをやめるときが来るなんて考えられない出来事である。

年を取れば体力が落ちるがそうなればそうなったで身に合った釣り方だってある。港の岸壁に腰を下ろして昔作った「削り竿」で小物を釣ってもいい。

しなしなと曲がる「孟宗竹を削った竿」に10cmのクロコが掛かったって竿は見事に曲がる。竿尻を持った手には結構な感動がつたわってくる。何もクロダイの大物ばかりが釣りではないのだ。釣ってみれば小あじだってメダカだってそれなりの深い味がある。

実の所いまだに自分では釣りをやめたという感覚がないのだ。実際は行っていないが止めたという気がしていない。毎日チャンスを密かに狙っているような気がしている。

釣りをしたと云うほどの記憶ではないが、本当は2度だけあった。一度目は7月の初めだった。出勤はしてみたものの昨夜から降った結構強い雨が気になってしょうがなかった。

あの降りかただとかなりの増水をしたはずだ。今頃になれば雨を待って上流に向かうイワナが、一斉に隠れ家から出て動いたろう。場荒れしていた川が一変していい条件のはずだ。警戒心の強いイワナやヤマメも安心して濁り水の中で荒喰いしている。「餌は何でもいい。ミミズだって、ゴキブリだって流せば飛びついてくるだろう。」

久し振りに渓流釣りの夢が膨らんで抑えが効かなくなってきた。「午後からほんの2時間でいい、近くの沢に入ってみよう」密かに決心した。市営の施設の館長だというのにこんなことを本気でやってしまうところが70を過ぎても、子供のままだと言われる所以だろう。

釣り具はここの倉庫奥に人知れず置いてある。履くものから餌捕り用のタモ、迷彩色の帽子、ビク代わりに作った発泡スチロールの手ごろな箱まで、一式箱に収まっているからひょいと持てば足りる。

昼飯もそこそこに「昼から俺に2時間ほど休みをくれ、ちょっと用はある」と言い残して踏み出した。

水沢から石山を通って国道345号に出た。川沿いにしばらく行くと関根の辺りから川が見えてくる。やはり思った通りに増水の笹濁りだった。願っても無い水具合だ、これなら釣れるだろう。

新しい橋を渡って対岸に移り枝沢に入って川虫を採った。砂虫が50ほど捕れた。今日ならミミズでも釣れそうだがやはり少しでも効果が有る餌がいい。いざ川に来るといっぱい釣りたいという欲が先に出る。

坂ノ下の集落に車を止めた。このあたりは以前に何度も来た馴染みの沢で、石一つまで頭に入っている。

早く釣りがしたい、今年初めてとなると気がせいて仕方が無い。竿は5.4mに、増水を計算に入れて、仕掛けはちょっと長めの1.5mにした。錘は今日は渓流釣りにしては大きめに大の噛み潰しを1個つけた。

川沿いの人家の裏から竿を出してみた。対岸の護岸の下が深くなっていた、いつも釣れたところだった。砂虫を針に2匹付けて足を踏ん張り身を構えて流してみた。

頭の中から暑さも、クラゲも、客も、仕事も70歳の年のことも消えた。流れる仕掛けの小さな赤い目印に集中した。

竿は水平に保って糸は垂直に垂らす・・・これが岩魚釣りの極意だ。とかく素人は遠くに流したくて仕掛けが長い。それじゃー変化の多い渓流で自由自在な操作ができないのだ。今日は重めの錘のせいで急な流れの中でもコントロールが効く。
3つ目のポイントだった。大きな石の下側がゆっくりと渦を巻いてよどんでいた。沈めて流した糸が止まったと思ったら、送った仕掛けが流れに押されて目印まで沈んだ。

針掛かりか?それとも当たりか・・・。静かに竿を立てると細かな振動が伝わってくる。今日の初物が食いついたようだ。

この水具合なら一度食いついたらめったな事で離さない。一呼吸置いて竿を立てるとガツンと針掛りした。結構いい奴が掛かったようだ。竿が曲がったまま起きてこない。細いハエ(オイカワ)竿が引き回されている。

ハリスは1号だった。よもや切れはしないだろう。浮いてこない相手を思うように泳がせて、感触を楽しんだ。幾らイワナ釣りは引き抜くのが定石だと云われようと、ひき味を楽しまないで何が釣りだといいたい。そのために用意した細いハエ竿だった。

引かれるままに下手に回り川虫とり用のタモに納めた。遣り取りしているときに尺物と見えたが計れば28cmぐらいだろう。それに丸太のように太っている。この沢のイワナは味がいい。黙って食べたらヤマメと間違うくらいだ。

夏のつり用に作った特製の発泡スチロールのビクに納めた。

少し行くと右手が孟宗竹の藪になっている。この先にいいポイントがある。左手にある崖にぶち当たった流れが深い淵を作っていた。

ここのポイントは二つに分かれている。深くはないが頭の白泡の消えぎわと、中ほどの一番の深みから浅くなる下手にかけて旨くすればいいのが2つは釣れる。

身を低めて中ほどに仕掛けを沈めてみた。強い流れに押されながら目印を水中に入れて流していった。居ないのかなと思ったときに当たりがきた。

奴は流れに逆らうように上手に仕掛けを引き込んでゆく。これは大きい、「よし来た!」針も糸も丈夫なものだし・・・心配ない、ガツンと合わせをくれると濁りの中の深い所で手ごたえがある。重くて曲がった竿が起きない。これは結構いい奴だ。

散々走られて下手に回りやっと取り込んで一息ついた。慣れた目で目測するとこのイワナは35cmはある。あーやっぱり来て良かった。

何もかもが新鮮に見える。草薮の緑が光っている。さっきまで確かにあった肩の凝りがない。

心が爽やかだ。結構手間の掛かるクラゲの展示も心配が消えた。全てがうまく行きそうに思える。俺にはたまの釣りは無くっちゃーならない元気の元だな。

下村先生をお迎えして

下村先生ご夫妻を庄内空港からお送りして、しばらくの間はある種の放心状態が取れなかった。

さもありなん、私にとってこんな大きな仕事はこれまでに無かったし、ノーベル賞受賞者をお迎えするという、現実に起こり得ないことがおきて、体が硬くなるほどの緊張感の中でその日が来て、全てが終って無事に開放されたのである。

年度が始まったばかりであったが、気の緩みからもう今年の全てをやり終えたようだった。この感覚は1ヶ月ほども続いて取れることがなかった。

それにしても下村先生はなぜよりに寄って、こんな小さなしかも46年も経過してすっかり古びてしまった水族館に来てくれたのだろう。

日本には70近い立派な水族館が有るというのに、何が先生の気持ちを動かしたのだろう。誰が見てもミスマッチである。

何度かお聞きしてみたが「興味があった」とか、「田舎が好きだから」という抽象的な答えしか返ってこなかった。

後は想像する他無いが、原点はやはり最初に出したお祝いの手紙に有るような気がする。

先生にしてみれば全くどこの何者かも知らない水族館の館長が突然の手紙でお祝いを述べ、更に「日本で一番小さく古く、倒産の危機を迎えたがクラゲの展示で持ち直した。顕微鏡も買えず繁殖に苦労した。何とか40種のクラゲを展示している」などなどと書き連ね、「オワンクラゲは4~5年前から繁殖させて通年展示をしている。苦労の展示を一度見にお出でいただきたい」と臆面も無く続けたのである。

老朽、弱小、貧乏と3拍子そろった水族館は他に無い。ここは先生の日常の生活とはかけ離れた存在であり、そこがむしろ先生の興味を引いたのではないか。大きくて立派で、大都会の新しい水族館だったら果たして来てくれたものだろうか。

先生は東京での講演のときに思いがけない事を述べておられた。「わたしはノーベル賞の受賞は嬉しくない。むしろこのことで時間が割かれて好きな光る生物の研究が出来なくなったのが残念だ。」「しかし日本に行くと皆が喜んでくれる、それがうれしいのだ」と確かにお聞きした。

あの時は、「まさかノーベル賞が嬉しくないとは冗談を言っているのだろう」と、勝手に想像したが、意外に本音だったのかもしれない。

研究に全てを捧げた生き様や、「特許をとらなかった」という発言、人のために役に立ちたいという言葉と行動から察するに、どうも先生の価値観は常人とは異なっていて、お金とか、地位とか、世間体などとは別の事に価値を見、また興味や関心が湧く方なのではないか。

ホテルにお送りした車の中で、奥様が先生に語りかけるように「きてよかったわねー」と言われたとき先生が「想像以上だった」と答えられた。この言葉の中には、加茂水族館に行こうか行くまいかと迷った心が含まれている。

最後の決心をされるまでにかなり迷いながらも、興味の方が勝り「行ってみようか」とお二人で決められたのであろう。

あの手紙の中のどこかが先生の心の糸に触れて、加茂にやってくるという行動になったのではないか。時間がたつにしたがってそんな事を想像するようになった。

本当は先生のお答えの、もう一つ先をお聞きしたかったのだが、それも今となっては謎のままである。

もう一つ書きたいことが有る、先生はクラゲの繁殖室で記者団に囲まれて質問を受けたときに「よくここまで努力をしましたね」と答えて居られた。いつも頑張れ、努力を惜しむなと話される方で、これが信条なのである。

その方から誉められたのだから嬉しかった。あの時は44年の時間が一気にこみあげて胸がつまり、白髪頭の目から涙がこぼれそうになった。

これまでのクラゲの展示は、困難の連続で有ったと言える。一つ一つ賽の河原の石積みの如く、小さな発見と大きな失敗の中にあった。

去年(平成20年7月ごろから1年間)経験した理由不明の繁殖のつまずきは、全ての自信を根こそぎ無くするものだった。

これからも30年50年と若い職員達が、多くの困難に直面しながらも、クラゲの展示繁殖に高いレベルを目指して努力を続けてくれるだろう。

下村脩先生の来館は、小さな水族館にとってこれ以上ない大きな支えになった。この事実は加茂水族館の歴史が続く限り、いつも守護神のように見守ってくれるに違いない。

70歳になった老館長がここの職員に、最後の大きな贈り物をやってのけたような気がする、下村先生には何と言ってお礼を述べたら良いか言葉が見付からない。

(「’08ノーベル化学賞受賞 下村脩博士が加茂水族館の一日館長になった日」(東北出版企画)―あとがきより抜粋)

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