村上龍男のブログ

下村先生をお迎えして

下村先生ご夫妻を庄内空港からお送りして、しばらくの間はある種の放心状態が取れなかった。

さもありなん、私にとってこんな大きな仕事はこれまでに無かったし、ノーベル賞受賞者をお迎えするという、現実に起こり得ないことがおきて、体が硬くなるほどの緊張感の中でその日が来て、全てが終って無事に開放されたのである。

年度が始まったばかりであったが、気の緩みからもう今年の全てをやり終えたようだった。この感覚は1ヶ月ほども続いて取れることがなかった。

それにしても下村先生はなぜよりに寄って、こんな小さなしかも46年も経過してすっかり古びてしまった水族館に来てくれたのだろう。

日本には70近い立派な水族館が有るというのに、何が先生の気持ちを動かしたのだろう。誰が見てもミスマッチである。

何度かお聞きしてみたが「興味があった」とか、「田舎が好きだから」という抽象的な答えしか返ってこなかった。

後は想像する他無いが、原点はやはり最初に出したお祝いの手紙に有るような気がする。

先生にしてみれば全くどこの何者かも知らない水族館の館長が突然の手紙でお祝いを述べ、更に「日本で一番小さく古く、倒産の危機を迎えたがクラゲの展示で持ち直した。顕微鏡も買えず繁殖に苦労した。何とか40種のクラゲを展示している」などなどと書き連ね、「オワンクラゲは4~5年前から繁殖させて通年展示をしている。苦労の展示を一度見にお出でいただきたい」と臆面も無く続けたのである。

老朽、弱小、貧乏と3拍子そろった水族館は他に無い。ここは先生の日常の生活とはかけ離れた存在であり、そこがむしろ先生の興味を引いたのではないか。大きくて立派で、大都会の新しい水族館だったら果たして来てくれたものだろうか。

先生は東京での講演のときに思いがけない事を述べておられた。「わたしはノーベル賞の受賞は嬉しくない。むしろこのことで時間が割かれて好きな光る生物の研究が出来なくなったのが残念だ。」「しかし日本に行くと皆が喜んでくれる、それがうれしいのだ」と確かにお聞きした。

あの時は、「まさかノーベル賞が嬉しくないとは冗談を言っているのだろう」と、勝手に想像したが、意外に本音だったのかもしれない。

研究に全てを捧げた生き様や、「特許をとらなかった」という発言、人のために役に立ちたいという言葉と行動から察するに、どうも先生の価値観は常人とは異なっていて、お金とか、地位とか、世間体などとは別の事に価値を見、また興味や関心が湧く方なのではないか。

ホテルにお送りした車の中で、奥様が先生に語りかけるように「きてよかったわねー」と言われたとき先生が「想像以上だった」と答えられた。この言葉の中には、加茂水族館に行こうか行くまいかと迷った心が含まれている。

最後の決心をされるまでにかなり迷いながらも、興味の方が勝り「行ってみようか」とお二人で決められたのであろう。

あの手紙の中のどこかが先生の心の糸に触れて、加茂にやってくるという行動になったのではないか。時間がたつにしたがってそんな事を想像するようになった。

本当は先生のお答えの、もう一つ先をお聞きしたかったのだが、それも今となっては謎のままである。

もう一つ書きたいことが有る、先生はクラゲの繁殖室で記者団に囲まれて質問を受けたときに「よくここまで努力をしましたね」と答えて居られた。いつも頑張れ、努力を惜しむなと話される方で、これが信条なのである。

その方から誉められたのだから嬉しかった。あの時は44年の時間が一気にこみあげて胸がつまり、白髪頭の目から涙がこぼれそうになった。

これまでのクラゲの展示は、困難の連続で有ったと言える。一つ一つ賽の河原の石積みの如く、小さな発見と大きな失敗の中にあった。

去年(平成20年7月ごろから1年間)経験した理由不明の繁殖のつまずきは、全ての自信を根こそぎ無くするものだった。

これからも30年50年と若い職員達が、多くの困難に直面しながらも、クラゲの展示繁殖に高いレベルを目指して努力を続けてくれるだろう。

下村脩先生の来館は、小さな水族館にとってこれ以上ない大きな支えになった。この事実は加茂水族館の歴史が続く限り、いつも守護神のように見守ってくれるに違いない。

70歳になった老館長がここの職員に、最後の大きな贈り物をやってのけたような気がする、下村先生には何と言ってお礼を述べたら良いか言葉が見付からない。

(「’08ノーベル化学賞受賞 下村脩博士が加茂水族館の一日館長になった日」(東北出版企画)―あとがきより抜粋)

20万人目の入館者

長かったといえば長い気もするが、わたしの感じでは43年はたしかにあっという間だった。昼寝をして目が覚めたら今になっていたと思うほど短く感じられる。27歳で館長に就任して今70歳になったのだから確かにここでの日々は43年がたっている。

独身かと間違えられたあのころは頭も黒くふさふさとしていたし、体力もあって元気がよかったが、今、鏡に映ったわが身を見れば確かにその年にふさわしい白い頭と痩せて皺がよった顔がある。

思い出してみれば長かった月日の間に様々な事があった。口から出るのは恨みつらみ、愚痴と言い訳ばかりという暗い時期も結構長かった。しかし今クラゲでどん底から立ち直った水族館として、話題を呼んで人気を回復したが同時に館長としての評価も高まっている。

しかし浮かれているわけには行かない。どん底に落ちて倒産を覚悟したあの時も私が経営の責任者だったのである。そして見事何とか経営を立て直すことが出来たのも私が館長をしている今である。

算数ではないが業績を足し引きしてみれば、まあプラスとマイナスでゼロ…これが本当の私の業績ということだろう。

今から8年前に鶴岡市が加茂水族館を買い取ってくれて、36年ぶりに再び市営の水族館になった時、入館者は回復していたとはいえ116,000人だった。

あれがピークで後は多少の上下は有っても大体そんなものと思っていた。何をやっても駄目で落ちるところまで落ちると、情けないが負け犬根性がしみこんでいるもので先を明るく見ることは出来なかった。

市に移ってすぐの5月「5万人会議」なるものを立ち上げた。実現は無理でも高い目標に向かって頑張ろう…という気持ちだった。

無我夢中でクラゲの展示を増やして行く中で、手の届かない夢が実現したのが平成17年の「クラゲ世界一の展示」、そして今年1月3日とうとう20万人目のお客様が入館した。

20万人はオープン当時の入館者である、これで本当にプラスマイナスがゼロになった。

クラゲネクタイがくれた大きな贈り物

9月20日ごろに水族館にとってめったに無い嬉しいニュースが続いて舞込んだ。一つは鶴岡市の「市政功労者」に館長が内定したというものであり、数日置いた23日「斉藤茂吉文化賞」に加茂水族館が決まったというものだった。

斉藤茂吉文化賞といえば県最高の賞である。この老朽、弱小、貧乏水族館にとっては寝耳に水、夢じゃないかと思うほどの嬉しい出来事であった。その余韻がまださめない

24日朝出勤するとファックスが届いていた。

何げ無く手に取るとアメリカの下村脩先生からのものであった。送ったクラゲをデザインしたネクタイのお礼とその後には、「来春何とかして加茂水族館にうかがいたい」と続いていた。

思わず「やったー、万歳」と歓声を上げてしまった。叶わぬ夢とも思いながらこの一年間折に触れて手紙であったり、直接であったり、電話であったり先生にお願いしてきたが、何と本当に来てくれる運びとなったのである。

最後の決め手となったのは、ここで初めて作った「クラゲをデザインしたネクタイ」であった。

オリジナルの商品も、今年はたいしたアイデアが浮かばなかったが、アクアマリンふくしまの安部館長がヒントをくれた。

5月末に訪れたとき、私にて土産としてくれたのが「サンマを正面から見た顔」をデザインしたネクタイだった。

「うん!これはいける、サンマをクラゲに変えればいいものが出来そうだ」とピントきた。

しかしたかがネクタイと思ったが、意外とこれが難しい。

安部さんは秋刀魚の顔も自分で描いてデザインしたそうだが、こっちにはそんな器用な者はいない。結構苦労した。

出来上がったらアメリカの下村先生にも送ろう。確か今年で81歳になられるはずだ。9月21日の敬老の日に合わせて届けることが出来れば喜んでいただけそうだ。

それなら「死なない生き物」として知られている「ベニクラゲ」が一番縁起がいいしぴったりだ。やっとデザインが決まって、ここ庄内地方に今尚伝わる絹の技術全てを結集していい物を作ることになった。

繭の生産から絹織物、そして染色は浮世絵の技術をそのまま使った「手捺染」という他では見られなくなった特別の技術が残っている。

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混ざりけなしの「純庄内産のクラゲネクタイ」の誕生であった。「ベニクラゲとは行かないまでも、長生きしてしてください、その願いをこめて送ります」との手紙を添えて発送した。

その返事が24日のファックスであった。その全文は次のようなものだった。

「お手紙とネクタイ有難うございました。今度日本で使わせていただきます。
後10日で日本に出発します。今回は関西地方が主で、東京での滞在期間が短くて行くことが出来ません。来年春には何とかして加茂水族館を訪問したいと思っております。
場合によっては日帰りになるかもしれませんが、盛岡とは別に行くことを考えております。
加茂水族館の入場者が順調に増える事を祈ります。
下村 脩」

ビックリして腰が抜けそうだった

世の中色々在るといってしまえばそれまでだが、ついこの間、70歳近いこの年になって腰が抜けるほどにビックリさせられた出来事があった。

10月の24日だった。「ノーベル賞のオワンクラゲフィーバー」で、入館者が増加していた昼の事。電話がさっきから鳴って居るのに誰も出ない。皆忙しくて手が離せないのだ。仕方なしに走っていって受話器をとった。

静かな声だった。出だしの言葉は聞き取れないでしまった。「下村脩です」という声だけが聞こえた。聞いた事がある名だなと思って「あー」とか「うん」とか言って合わせていたらもう一度名乗ってくれた。

今度ははっきりと聞こえた。「お手紙と電報を戴いた下村脩です。」心臓が止まるほどビックリすると同時にあっと思った。確かにお祝いの電報と手紙を出した覚えがある。

アメリカのマサチューセッツ州に在住し、オワンクラゲから蛍光蛋白質を発見してノーベル賞受賞が決まった大先生だった。

しかし可笑しなもので一瞬の間に「まさかあのノーベル賞学者が私に電話をくれるなんてそんなはずが無い。」「いたずら電話ではないだろうな。」こんな考えがよぎったから私も情けない。

「ご本人でしょうか?」と聞いたらゆったりした声で「そうですよ」と返事が聞こえてきた。

これまでの人生で一番緊張した。後の遣り取りははっきりと覚えていない。穏やかで温かみがあって人をほっとさせるような声で、孫を相手に会話を楽しむかのようにいつまでも電話を切らなかった。

お祝いの手紙に書いた東北の片田舎、弱小、老朽、倒産という文字が先生の心を動かし、頭をもたげた母性本能が「少し助けてやろうか」という思いになって、オワンクラゲを光らせるやり方を伝授してくれたのだろう。

先生に言われたようにしたところ、展示しているオワンクラゲがボーっと蛍光色に発光した、感動だった。

これが新聞で全国に紹介されたから、おおきな話題となった。

その後の効果は絶大なもので、光るオワンクラゲを見たさに人が押しかけてきた。「時ならぬボーナスなのか、はたまた夢の中のまた夢なのか。」増加した入館者は築45年目にしてオープン当初の20万人に迫る勢いとなった。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、この度の下村先生の受賞で労せずにして得をしたのは、この小さな水族館だったかもしれない。

(財)日本動物園水族館協会「古賀賞」受賞して

この度日本動物園水族館協会で最高に栄誉ある「古賀賞」を戴くことができた。私にはこの賞の嬉しさは格別のものがある。

42年もここに居てこの頃つくずく加茂水族館の運命は「オセロゲーム」のように思えてならない。

今協会には70近い水族館が加盟しているが、これほど多くの変遷を辿った水族館も珍しいのではないか。現在の加茂水族館は、昭和5年に地元の人たちが金を出し合って民営の「山形県水族館」を建設したのが始まりである。

昭和19年には戦争に巻き込まれ「海軍に徴用」され、新兵の訓練場として使われたこともあった。

戦後の昭和21年には開館することなく「加茂水産高校の校舎」として利用された。そして昭和28年に加茂町に水族館を再開する事を条件として返還された。

合併で昭和30年より鶴岡市の所有となり、そして39年には隣接する水産高校と水産試験場の拡張のために「現在地に移転」させられている。

その後も昭和42年には市が加茂水族館を売却したり、昭和46年には買った会社の経営が不振で「全職員が解雇」されたり、借金を背負わさられたり、思い出せば切がないほど色々なことが在った。

その後の出来事については、とても紙面が足りなく紹介しかねるが、何度と無く厳しい状況が訪れている。

そして止まらない入館者の減少と共に迎えたのが平成9年のどん底であった。

何を展示しても、入館者の増加には結びつかなかった。最後のとどめが「ラッコの展示」だった。当時ラッコは神通力があって展示した水族館はどこも客が倍増したのである。

それにあやかるつもりで2頭のラッコを導入しそれなりの設備をして展示を始めたが、客が増えたのは4ヶ月だけだった。逆に5ヶ月目には前年よりも大きく落ち込んでしまった。

ラッコの神通力も通じないほどみすぼらしくなってしまっていた。館長の私の口からも「恐らく来年はもっと客が減るだろう、苦労の経営もこれまでだ」という言葉がついつい漏れていた。

追い詰められたところに突然登場したのがクラゲであった。苦し紛れに展示した「珊瑚の水槽」から3mmほどの小さいクラゲが湧いて出たのである。これを育てて展示したところ客は大喜びしてくれた。

そんなに喜ぶならと前海から捕まえてきたクラゲを隣の水槽に展示するとそこでまた大喜びしていた。その姿はこれまで取り組んできたいかなる展示のときよりもはっきりしていた。「すごい力を持った生き物だな」と直感した。

クラゲの展示を増やすと共に入館者も増加した。そして4年後の平成12年には「展示種類数が日本一」に成り、平成17年には「世界一」になって入館者もほぼ倍増し17万人を超えた。

経営の危機を脱し、そしてクラゲを展示して12年目の今年、古賀賞を戴くことになったのだから矢張り神様はいるということだろう。「神様は小さなクラゲの姿をしていた。」オセロの負けゲームを最後の石一つでひっくり返す為にきてくれたのだ。

これまでの幾多の変遷や倒産の危機があっての「業界最高の賞」に、他人には推し量る事の出来ない感動が私のハートを揺さぶった。今となって振り返れば、全ての出来事がクラゲに出会うための一里塚だったと感謝している。

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