全く世の中何が起きるか分からない、昨日14日に起きた震度7の熊本県の地震は知れば知るほど恐ろしいものだった、そんな日本中が心配している中を秋田市に行ってきました。
※画像は花曇りの鳥海山、、吹浦の近くで。
庄内は地震とは無縁で平和そのもの穏やかな花曇りの中、満開の桜を右に左にと見渡しながら庄内平野を縦断し、新しくなった道を北上して秋田市まで約2時間半のドライブをした。
全く世の中何が起きるか分からない、昨日14日に起きた震度7の熊本県の地震は知れば知るほど恐ろしいものだった、そんな日本中が心配している中を秋田市に行ってきました。
※画像は花曇りの鳥海山、、吹浦の近くで。
庄内は地震とは無縁で平和そのもの穏やかな花曇りの中、満開の桜を右に左にと見渡しながら庄内平野を縦断し、新しくなった道を北上して秋田市まで約2時間半のドライブをした。
春が来たようだ。結構積もっていた庭の雪も8割がた融けて水仙の芽が少し伸びてきた。
この冬もブドウつるの籠を1つほぼ完成させた、あとは持ち手を付ければ完成なので本当はいつでも取り掛かれるのだが、しかしこの度編んだのは女性用ではなく自分で使ってみたいと思ったので、男用だからここからが工夫のいるところだ。
籠に男用も、女性用もないようなものだがしかし、何処かに変化を持たせて男が持っても様になる様に作りたいのだ。
いつも使っている木型に幅だけを5cm増して、厚みは増さずにスマートな感じを出して編んでみた、完成はしたがこれだけではどう見ても女性用と差が出ない、
結局持ち手で差をつけるほかないと思い至った、ビニールではせっかくの籠の味わいが死んでしまう、何か木の皮でも使って縄状の長い紐を体裁よく付ければ、ブドウの皮とマッチして違和感がなく持ち歩けるのではないか。
木の皮で縄を、、、、と言っても材料は手元にないから、山に行って採取してこなければならない、適した木は「ウリハダカエデ」か「シナノキ」が良い、子供の頃に我が家で蓑(みの)や荷(に)縄(なわ)の材料として使われていたのを思い出したのだ。
6月ごろに皮を剥いできて「赤さびの出ている湧水に浸ける」こうすることで色が茶に変わり強さが増す、それまで3~4か月あるが思いを巡らせながら待つほかない。
私の籠編みの歴史は結構長くなった、多分昭和45年ごろが始まりだったと思う、イワナ釣りを覚えて夢中になり寝ても覚めても頭はイワナ釣りのことばかり、自分はイワナ釣りをするためにこの世に生を受けたのではないか、、、、と思うほども釣りにのめりこんでいた。
山に入るたびに思ったのは釣具屋で買った出来合いの魚(び)籠(く)ではなく、アケビの蔓で編んだ自分だけの格好いい腰魚(こしび)籠(く)が欲しかった、やはり趣味と言うものは思いが膨らめば止めどもなくそれこそ願いが適うまで突き進んでしまうものらしい、近くにアケビ籠を上手に編む老人がいたのでさっそく山から蔓を取ってきて腰魚籠の製作を依頼した。
できたと言うので「あら嬉しや」と吹っ飛んで行ってみたら、これが思いとはかけ離れたただの手(て)籠(んご)であった、私が夢に描いた魚籠とは似つかぬ代物だった、釣りをしない方だったから仕方がないと言えばそうだががっかりさせられた。
こうなれば自分で編むほかなかった、教えてくれる人も教科書もなくいきなり編み始めたが旨くゆくはずがなく、籠とは言えないようなものが出来上がった。
しかし自分にも籠が編めたと言うことがうれしかった、でこぼこにゆがんだ小さな籠を腰に縛り付けてイワナ釣りをした、これが始まりだった少しずつ編み方が分かっていって、腰にぴったりくる魚籠が編めるようになった。
アケビの蔓は11月以降に山に入って取ってくる、木に絡んだものは使えないので、地上を這って直線的に長く伸びたものだけが材料になる、2~3か月伸ばしたまま乾燥させてその後太さを3段階ぐらいに分けて枝や細かい根を取り去る。
これを気が向いたときに取り出して水に浸けて柔らかくして編んでいた、大きいのは幅が60cmもあるのも作ったし、皮をむいて中の芯だけで編んだ逸品もある、腰魚籠だけではない今ではどんな物でも思いのままに編むことが出来るようになった。
アケビの籠作りが上手になるにつけていつか編んでみたいと思うようになったのが、今やっている山ブドウの木の皮で編む籠であった、もう30年も前になるが大井沢に上手な人が居ると聞いて編むさまを見に行ったことも有った。
70歳はとうに過ぎたかと思えるお爺さんとお婆さんが囲炉裏のそばで編んでいた、見ていると実に簡単にきれいに編み上げていた、しかし自分でやってみると難しいことこの上ない、やればやるほど難しさが見えてきた。
まず材料のぶどうの木の皮が手に入らない、売ってもいないし自分で山に入って取るほかないのだ、見事にするすると皮が剥がれるのは6月から7月にかけてのわずかな期間だけで、山に入ればいつでも、、、、という訳にはゆかない。
また木に絡んで成長しているのでほとんどが曲がりくねっていて、真っ直ぐな良い材料が取れるのはほんのわずかな部分だけだった、こぶや穴もあるし捻じれてもいる、えらいものに手を出してしまったようだと気が付いたが、しかし難しいからのめりこんだと言えるかもしれない。
物産館などで販売しているのを見ると「同じ人間がなぜこんなに上手に完璧に編むことが出来るのか」、ただ見とれて感心するほかない、3万円だの5万円だのと良い根が付いているが、私に言わせれば倍の値段でもまだ安く思える、それほど手がかかっているし芸術と言っていいほどの見事な技術が込められているのだ。
今年はこの一つで終わるが、また蔓とりから始めて挑戦してみよう、あの日に見た物産館の作品に引けを取らないような、自分でもいいなーと思える籠を編みたいものと願っている。
極端な暖冬のせいで雪のない正月を過ごしたが、やはり雪国なものだ、ここ数日の雪はこの冬初めてのまとまった雪になった、倉庫の奥から小さな除雪機にエンジンをかけて引っ張り出して庭の新雪を飛ばした。
小形の除雪機を引っ張り出して庭の除雪をした、見事に雪が飛ぶとストレスの解消になる、寒さも疲れも感じないうちに1時間が過ぎている 。
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また竿伸しを始めるとは思わなかった、もう2度とすることはないと思っていたのだ、おととしの今頃新しい水族館に引っ越すときにそのように決めて、竿を伸す「ため木」や節をくりぬいて中通しにするピアノ線などを知人に全て上げてしまっていた。
・写真上 加茂南防波堤先端で40㎝のアイナメを釣る筆者
・写真左下 浜中海岸でイサダをとる ・写真右下 針にかけたイサダ。これでアイナメやメバルが大釣れする。 |
今年仕事を離れて初めての気楽な正月を迎えて、特に決まってする事も無く少々時間を持て余す毎日を過ごしていたのだが、結局思いついたのは春になってまた釣りをしよう、それも長く止めていた、、、と言うよりは忙しくて出来なかったと言った方が的を得ているが、海の釣りをしてみたいと言う思いが強く湧いてきたのだ。
もう後期高齢者の今になっては磯の先に出て、荒波をかぶりながら竹の4間竿を振りまわして尺3寸の黒鯛を狙うのはやりたくても出来やしない、せいぜい加茂の北防波堤の先で平らなコンクリートの上から2歳ものを釣るのが性に合っている、もう無理は出来ない年になったのだ。
あそこはいつも釣り人の絶えないいわば素人の場所だが、右角に構えればテトラポットに近くなる、じっくりと時間をかけて生きた「イサダ」の撒き餌をすれば奥の方からメバルや、アイナメが出てきて食いついてくれる、5月から6月にかけては良い形のタナゴやアブラコも釣れるから、細い竿で釣れば結構な手ごたえを感じることが出来る。
イサダで釣れたメバル |
大きさも数も狙ってはいない、どうせ楽しみのために竿を出すのだから、、と思ったら、ごく細に仕上げた自作の見事な庄内竿が有るのを思い出したのだ、もう10年以上にもなるが加茂の沖の離岸堤で立て続けに黒鯛の2歳物を9枚も釣ったことが有った。
5、6月は25㎝以上のタナゴが釣れると、細い庄内竿が手元から弓なりに曲がる |
細身のカーボン竿だったから面白かったのだが、其のとき釣れた2歳は決して大きくはないせいぜい25cmだった、竿がもっともっと見事に手元から曲がり、立てようと思っても起きてこないような「特性の庄内竿」を作って、ここで使ったらさぞかし面白かろうな、誰かがその様を見ていたらとんでもない大物を釣ったと羨むに違いない、しばしののちに浮いてきたのは大した奴ではなかった、、、とびっくりさせてみたいと思った。
どこかにそんな思いを満たしてくれる竹が生えているはずだ、、、探せば見つかるだろう、、そして思い付いたのが、前に行ったときに見た記憶に有った酒田市内に有る本間美術館の竹藪だった、あそこの竹は「ニガ竹」ではなく、弓の矢を作る「ヤ竹」だった。
矢竹は節から節の間に一気に割れが入ることで嫌われて、昔から殆ど庄内竿には使われてこなかったが、割れることさえ気にしなければ材質的にははるかにニガ竹をしのいでいる。
材質が固く締っていてしかも肉薄だから、いくら見事に曲がっても魚を外せばすぐに元のすらりとした姿に戻る、そして何よりも有り難いのは軽いと言う事だ、年を取った手には何よりもこの軽さがいちばんだった。
ストーブの上に底を抜いたアルミの鍋を乗せて、正月3日から竿の伸しをしてみた |
思い出してみれば平成16年の1月だったと思う、本間美術館の知人にお願いして5~6本の竹を切らせて頂いた、長いもので3間(5,4m)短いものは10尺(3m)まで思い描いた細竿を作ることが出来た、今取り出してみると確かに握りの部分に「平成16年 村上」と銘が入っている。
竹竿の性質上作ってすぐに使えるわけではなく、3年は待たねばならないのが辛いところだ、火にかけて曲りを伸して竿にしても本来の強さが出るまでには3年、大事を取れば5年も待たねばならない、竹と言うものはそうした性質を持っている。
使いたいのを我慢しながら年に2度取り出して火にかけて蝋を塗り、癖の強いところを直してゆく、それだけ手をかけた竿をなぜこれまで使わなかったのかは大した理由が有るわけではない、3年後の平成19年から新水族館の建設計画が動き出して時間が無くなったからだった。
作ってからもう12年が経過していた、ほこりを払って継いで見ると知らぬ 間にまた曲り癖が出ていた、このままでは使えない、もう一度火にかけて伸しを入れないとしなやかに曲線を描く美しさは出てこない。
戸袋の奥の方を探ったら火伸しを掛ける「大小のため木」、底を抜いたアルミの鍋,蝋の塊、軍手やマッチなど一式が出てきた、記憶にはなかったが万一にと我が家に少し残しておいたらしい、ストーブに火をつけて穂先から伸して行った、特にする事も無い身にはこの作業がなんとも楽しいことか。
酒田市の本間美術館から採ってきたきた矢竹で作った庄内竿 |
我を忘れて没頭した、10数年の歳月も竿伸しの腕を鈍らせてはいなかった、まず2間半(4,5m)の3本継竿を伸してみた、やはり12年の時間は竹を鋼の様に固く締りのあるものに変えていた。
竹の節をくり抜く作業 |
伸し上がった姿はいい具合だった、細身だが竹の硬さが張りを持たせしっとりと手になじんできた、この竿は節をくりぬいて中通しにして手元に小型のリールをつけよう、釣り場に合わせて糸の調節をする手間が省けるし、思いがけない大物が喰い付いたらリールを緩めて糸を出すことも出来る。
手がもう一本欲しいところだが足を使って間に合わせる |
これに8寸の(24cm)メバルか尺2寸の(36cm)アイナメが食いつけば手元から大きく曲げてくれるだろう、少々無理してもいいからリールの糸を出さずにこらえて遣り取りすれば、私の心を「夢に漂う」ようないい気分にしてくれるはずだ。
もしも黒鯛の尺上でもつれたらどのようにして遣り取りすればいいのか,リ ールを緩めて糸を出すか、、、しかしこの細身ではの、、、、駄目な時は諦めるほかない、一気の突っ込みで恐らくは竿を伸されて糸切れするだろう、際限なく夢が広がっていった。
見事、節をくり抜いて竿先から出たワイヤー |
穂先を継ぎなおして節をくりぬいて中通しにした、継いだところにカシューを塗り手元に小型のリールを付けた、これで完成だった。磯タモも、イサダを捕る「三ケ月網」も作ってあった、後は春を待つのみだ。
しかし焦っちゃいけない、、、まだまだこれからが冬本番で春はずいぶん先だったな、、、、。
このところ講演が続いた、9月の30日の尾花沢市から始まり今日で4日、毎日日帰りで車の運転をして片道1時間とか2時間とか走っていたのだから、75にもなって我ながら結構丈夫なもんだと思う。
4日目が新潟県に招かれての講演だったから無理して車で行く事は無い、羽越線で楽をしながら向かった、めったに汽車に乗る事が無いからそう感じたのだろうか、引退したと言う心の持ち方が感傷的になったのだろうか。
久しぶりに汽車の窓から見る風景はなんだか夢を見ているような、新鮮でいつもと違う異国の情緒を感じた。
※ グリーン車の手配までしてもらい、新潟市に向かった車窓の風景は夢見るような異国の情緒を感じた、、、俺も本当に退職したんだなー
田園風景の向こうに高館山が見えてテレビ塔が立っていた、変哲もない山並みだがこれまでこうして1歩離れて眺めると言う事はあまり無い、自分が運転する車から50年近くも見慣れた景色が広がっていた、しかし今日は何だかジンと胸に来るものがあった。
※ 汽車の窓からはこんな庄内浜の光景が広がっていた、、、ただしこれは水族館そばの今泉集落です
「ああ俺の仕事人生も終わったのだなー、出勤をする代わりに講演のために新潟に向かっている」毎日色々な思いを抱いて庄内平野を横断し、海のそばの職場に人生を重ねて頑張ったが悲喜こもごも結構長い年月が有った、ガッタンガッタンと揺れながら走る汽車の中から自分の今が見えた。
今日の講演目的は新潟県の「新潟県連携公開講座」が招いてくれたものだ、、、かなり早めに会場に着いたせいで、打ち合わせが済んで時間を持て余し外に出てみた、隣接していた公園内を散歩でもしながら時間をつぶそうと考えたのだ。
桜並木の下を、しばらく進んだあたりで後ろから声がした「村上館長さーん、、、」、振りかえるといい年頃の男女が速足で近ずいてきた、「さっき外に出てゆく姿が見えたので追いかけてきました」そう云われても見覚えのない顔だった。
定年はとっくに過ぎた二人に見えたが、奥様と思しき方がほとんど一人で早口でしゃべっていた「実は私たち夫婦は村上館長のファンです、NHKのラジオ深夜便を聞いてから加茂水族館のどん底からの回復物語が感動的で、もう何度聞いたか分かりません」
※ 汽車の窓から高館山がみえた、50年通勤の車から見た山並がまるで初めて見る風景に感じた。
「録音して家事をしながらいつも聞いていました、時々庄内弁が混じる話しぶりが聞きやすく、いつかお会いしたいと思っていました」
「今年の春に加茂水族館に行ってクラゲを見てきました、本当に素晴らしかったです、その時に買った本にサインをしてください」、、と頼まれた。
私が退職間際に出した「無法掟破りと言われた男の1代記」を持っていた、「私は勉強が嫌いでお蔭で字が下手です、、、」とか何とか云いながら、丸太つくりのテーブルを囲むように座り、渡された太いマジックで名前と日付けを書いた。
旦那さんは高校の教師をして退職したとか、奥さんも郵便局を退職されて二人とも仕事から解放されて自由の身らしかった。
私如きの話したことをこんなに喜んで聞いてくれている方がいた,感動したのは私の方だった「これはハナガサクラゲのネクタイピンです、ネクタイはまだ必要ですがこれが無くても良いでしょう」と言って嬉しい思いをさせて頂いたお礼にさし上げた。
今日の講演は、始まる前から大きな力を貰ってしまった、ストーリーに気持ちが載ってうまく行きそうな気がした。
いつも講演する時間は大体が1時間、長くても1時間30分だが今日は2時間与えられていた、こんなに長く話した事は無いが、何せ私の水族館歴は50年に近い歴史が有る。
語る内容には事欠かなかった、いつもは語る事のないよもやま話にまで及んだ、最後にはおまけの様にして民営時代に別れを告げて鶴岡市に買い取られた時のいきさつを話した。
※ こうしてスライドを写しながら話を進めてゆく、2時間も話したのは初めてだった
、、、、、平成14年3月31日の夕方、乗り込んできた本社の副社長が明日から鶴岡市に移る引継ぎの書類や帳簿を見ていた「おい!残せと言ったはずの金が無いぞどうした」と私に聞いた。
何もせずただ黙って4か月を過ごせば2000万円余るはずだったが、だが1円も残っていなかった「あなたは良いだろう、市に売って東京に帰ればそれまでだ、しかしここの職員はぼろぼろになった建物と共に見られるのだ、少しでもみんなが胸を張って市に移れるようにあの金は皆使った」
ここから先はただの男と男が口角泡を飛ばしての争いになった、そして
長い民営時代に別れを告げて翌日、朝目がさめて見ると肩のあたりが軽く爽やかで、、、、「極楽浄土にたどり着いたかと思った、、、、、、」「これからは自分の仕事だけを考えて頑張る事が出来る」そう思ったのだ。
しかし市には頑張ろうとする現場には大きな壁となって立ちふさがる法令や条例が有った、頑張ろうとすればするほど大きな悪代官となって立ちはだかって来た、振り返って思えば民にも,官にも極楽浄土は無いな、、、と思う、だがそんな中にも挑戦すればいいことも有る、、、、、こんな話をおまけに付け足した。
2時間と10分話が終わり会場を去る私に、拍手が鳴りやまなかった廊下を曲がり聞こえなくなるまで続いていた「あんなに温かい拍手を今まで受けた事は無かった」忘れられない思い出になった。
8月の7日京都に招かれて講演をしてきた、思いもかけない遠くから依頼があるのだから、小さな貧乏水族館の館長がずいぶん名前を知られるようになったものだ。
引退してから始まった土曜日の出勤もすっかり慣れてしまった、現役だったら8時15分の朝礼に合わせて家を出るのが7時20分、仕事のことを考えながら40分も車を走らせていた自分は3月までで終わった。
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寒さが来たので冬の味覚フグの話でもしようと思う、と言うのもこの度京都の観光をしてきたからで、観光タクシーに乗ってあちこち回る途中に「あそこが歌舞伎の南座です」と告げられて、その言葉で思い出したことが有ったのだ。
※ 雨の夜に通った南座の前でタクシーを止めて写真を撮った、東京の東銀座の歌舞伎座とたたずまいはほぼ同じに見える
私に歌舞伎を見るという趣味は無い、ここを見て別のエピソードを思い出した、昭和50年11月16日南座で出演中の人間国宝坂東三津五郎さんが、フグの中毒で死亡すると言う日本中のファンを驚かすニュースがながれた。
三津五郎さんはフグが好きだったという、いわば「フグ通」と言っていいだろう、いつも食べなれたフグを恐らく何のためらいもなく食べたのだと思うが、なぜかその日は死に至る中毒を起こしてしまった。
巷に流れていた話ではトラフグの肝臓を4人前食べたと伝えられていた、そんなに食べれば危ないとは誰でも思うことだが、通としてフグを知る三津五郎さんとなると余計になぜだろうと疑問に思ってしまう。
フグの怖さは同じ網に入った同じ種だとしても、個体ごとに毒の強さに大きな差があることで、調理する者がそれを知る術は無いと言うところだろう。
この話にはまだ続きがあって、同席して同じものを食べた3人が中毒をしなかったと言うおまけが付いていたからややこしくなった、フグを出した寿司屋に責任があるとされたのだが、4人のうち一人だけが中毒したのだから原因は他に有ると訴訟になったらしい。
※ これがフグの王様トラフグ、全長80cmにも達する大物もいる,庄内沖にも多数生息しており専門に獲るはえ縄の漁師もい
ここまでは噂として知っていたが有る時車を運転中に、ラジオでまさにその事件について話していた、4人前の肝臓とされていたのは1,6cm角の肝臓4個というのが本当のところだった。
※ 紅葉の京都は観光客であふれている、一番人気はこの清水寺と聞いた、平日でもごった返していた
というと親指の先ほどの塊を4個食べたということになる、今ではフグの肝臓は食べてはいけないと食品衛生法で決められているが、当時はまだ危ないとは心配しつつも普通に食べられていたのだ。
フグの調理に精通した職人が作ったトラフグの肝臓は、毒抜きがされて中毒はしないと信じられていた時代だった、どんなに洗っても血抜きをしても煮ても焼いても毒は減らず変化する事も無いことは今では良く理解されているが、昔はのんびりしていたというか大らかだったなーと思う。
訴訟になって困った国が大学に依頼して調べた結果、同じ肝臓でも部位によって毒の強さが「著しく差がある場合が有る」ということが分かって、やはり寿司屋の責任だと言うことになった。
今は種類ごとにフグの毒の強さが分かっていて、細かく血液や、皮膚、肝臓、卵巣、精巣など、どこにどれだけの毒があるのか知ることが出来る、不安を持たずに冬の味覚を堪能することが出来る。
釣り好きな素人にお勧めしたいのは頭も、皮膚も内臓も取り去り肉のみ食べると言う事だ、此れなら腹が破れるほど食べても中毒する心配はない。
この事件を知ってから京都の南座とはいったいどんなところか気になっていたのだが、思いがけなく目の当たりにする事が出来た、金閣寺も、清水寺(きよみずでら)も、嵐山もみな良かった良い旅だった。
※ 昔ながらの狭い路地には人力車が行き交っていた、祇園に行く途中に有った昔ながらの風情をたたえた町屋
私は山形県がフグの調理師講習をするようになった昭和61年以来25年も講師を務めた、難しい話はしたことが無い種類ごとに面白くも可笑しいエピソードを語り、時間が来たらおしまいにしていた、どんな話にも言えることだが楽しくなければ聞く者の記憶として残らないと言うことだ。
幸いフグには毒というキーワードが有って、昔から多くの迷信やらでき事がいくらでも有った、半分こじつけの様にして種類ごとに語って聞かせた、坂東三津五郎さんの話はその中の一つだった。
ここまで書くともっと多くの面白おかしい出来事を書き足したい気も起きるが、この辺でお仕舞にするのが切りが良いようだ、、、、別の機会に続きを書くチャンスもあるだろう。
2015,11,28