仕事から解放されるということは思ったより悪いものではない、48年も水族館の 続きを読む
村上龍男のブログ
サルは丈夫なもんだ
ついこの間右目の手術をした。目の玉の表面に脂肪のようなものが溜まって次第に厚くなり、いつもゴロゴロと瞼の裏を刺激して痛かった。翼状片というのが正式な病名になる。
なぜそんな厄介なものが目の表面に溜まるのかは聞いてみたがはっきりした返事はなかった。陽にあたることの多い人に出やすいのだとか。そう言われれば磯にイワナにと釣りばかりしていた自分にはそのまま当てはまることになる。
白く目立ってもみっともないし、早いところ削り取ればその後楽になるのは分かっていたが、ついつい延ばし延ばしして今になってしまった。
翼状片を削ったのは今度が初めてではない。市内の滝沢眼科で反対側の左の眼を削り取ってもらったのが20年以上も前になる。
其のときすでに右の眼にも結構広がっていたのだから、もう20年以上も延ばしたことになる。その理由はとにかく目の玉に注射されるのが怖かったからだ。目がとじない様に枠をはめられて麻酔のための注射器が、鋭い針を先につけて迫ってくるのだから恐ろしいことこの上ない。
20年前も決心がつくまで15分も待合室の椅子に座って考えていた。やめて帰ろうかとも思ったがここまで来て引き返したら男が廃ると思い腹に力を入れて削ってもらった。
情けないがその時の思いが強く残っていたから、延ばしに延ばしてしまったのだ。これも引退が迫った今身辺整理の一つと思い決着をつける決心がついたのだ。
眼帯は翌日だけだった。仕事を休んだのは3日だけでその後は運転も許可が出て目薬を持参して出勤した。その後4~5日は鈍痛と、涙に悩まされた。頭が重く首筋が張って体調が悪かった。目の玉ひとつ具合が悪いだけで世の中が暗く沈んで見える。やはり健康はありがたい。
7日目の昼ごろだった館長の机に座ったまま、目薬を注した。「オッと失敗した。反対の左の眼に注してしまった。」我ながら可笑しくなって「ボケた訳でもないただ単純ミスだ」と大きな声を出した。
ここで遠い昔の似たような出来事が甦ったのだから、このミスには感謝せねばなるまい。昭和の45年ごろだと思う。加茂水族館には「サルが島」があり20頭のアカゲザルが放し飼いにされていた。群れの中に1頭だけ「ブタオザル」の雄が混じっていた。
人によく慣れていて面白かったのだが、いつのことだったか飼育員の出入りする扉に右腕を挟んで骨折したことが有った。ブランとぶら下がった手が痛々しく添え木をして少しでも早く直してやろうとした。
2人がかりで右手に添え木をして包帯で縛り上げた。終わって様子を見ていたら縛られた手で餌を食い、何事もなかったようにその手を使って岩山に登っていった。「サルは大したもんだノー、縛ったとたんにもう治ったようだ。」人間なら2~3か月も使えぬはずの手だった。見ていた者は皆がびっくりした。
いくらサルとは言えそんなはずは無かったのだ。よくよく見たら「間違えて反対の手を縛っていた」どうしようもないへまだった。サルだったから笑い話で済んだがこれが人間で、間違えたのがお医者さんだったらとんでもない騒動になっただろう。
目薬ひとつで遠い昔の面白かった出来事が甦ったのだから、これも良しとしたい。
間違えてくれて良かったとは・・・
もう10数年は経ったであろうが定かではない。まだボケが始まったとは思わないが、この頃は自分でも賞味期限が切れたなーと思うことが多いのだ。物忘れや意欲の欠乏は如何ともしがたいので確かな記憶でないことはご勘弁いただきたい。
南の方の水族館からなじみの飼育係が訪ねてきたことが有った。事務室でコーヒーをご馳走しながらよもやま話になったのであるが、なんでも新しい水族館に建て替える計画が進行中であるとのこと。
そこは私のところよりも後で建てられた立派な水族館で、行くたびに羨ましい思いをしていたのであるが、古い小さな建物にしがみついていつ建て替えの時が来るのか希望のない我が加茂水族館をしり目にもう壊されて生まれ変わるらしい。
やはり東北の片田舎にある民間の水族館と違い、県立ともなればやること考えることは全く違うものだと感心させられた。「どんな内容になるもんです?」という質問に「1000トンほどの大型の水槽を備えて、サンゴ礁の水槽や色とりどりの熱帯の海水魚なども展示します」「県の魚に指定された海水魚も展示します」・・・「んだばそこの特徴になるメインの展示は何なもんです?」
すると「シロクマが展示されます、これが呼び物です」と答えたのである。それを聞いたとたんに私の口から飛び出したのは「方向を間違えてくれて良かった」という自分でも予期しない失礼な言葉だった。
思わず本音が出てしまった。出たからにはもう取り返しがきかなかった。「あなたのところも地方の水族館だからそこの色を強く出さないと客は来ないのではないか?」「今更シロクマではノー、だいじょうぶだがー?」
目の前の人のよさそうな男は私の言葉にいやな顔をした。自分でも感じてはいたことのようだったが同業に念を押されては内心穏やかではなくなったのだろう。役所の上の方からシロクマが出た以上はもう変えることが出来ないのだ・・・など懸命の言い訳をしていた。
水族館が少ない時代だったらそれでも通用しただろうが、協会に加盟している水族館だけでも小さな日本列島に70近く存在している。今や日本中に立派な水族館があふれていると言ってもいいような状態になっているのである。
オープンして2年は近郷近在からどっと新しくなった水族館を一目見ようと押しかけてくる。しかし3年目からはもう底を打つのだ。一度来た客は10年15年と来てくれない。それでは人口の少ない地方の水族館は成り立たない。
3年目から先は遠くからその地方を訪れた人が、行ってみたいと思うかどうかに掛かってくる。当然どなたもどこかで立派な水族館を何度か見ていると判断しなければならない。
いかに地方色を出すか、そしてほかにない特徴を持つかが今の水族館に求められた課題だったのであるが、その辺のことは現場に長くいた水族館職員なら心得ているのだが、お役人さんには全く分からないので平気でシロクマが登場してくるということになる。
あのころここははまだ民間の古くなった小さな水族館だったから、どこかの誰かがお金を出してくれる訳でもなく自力経営の辛さに辛酸をなめていたころだった。思わず前述のような言葉が勝手に口から出てしまったという次第だ。
私の口から出た失礼な言葉を、今度は私が体験する羽目になろうとは神ならぬ我が身には知る由もなかったが、ついこの間そんなことが起きた。関東とだけ言っておくことにするが結構知られた水族館の館長が訪ねてきたことが有った。
同業であろうが無かろうがこのクラゲをメインにした水族館は気になる存在で、一度見てみたいという思いに駆られるようだ。レストランの一角で海を見ながらクラゲ展示の話に花を咲かせている中で「私は今年度で退職するのです」といったとき「それは良かったこれで加茂水族館が衰退する万歳」・・・そう言ったのだ。
私如きの進退が影響してクラゲ水族館が衰退するとは思われないが、聞いた一瞬ハートをゆすぶられた。そして言われた私は10数年前のあの男とのことを思いだした。
それにしてもこいつは思い切ったことを本人の前でよくぞ言ったものだ。思えば何処の館長も苦労の経営をしているのだろう。「嬉しそうににこにこしながら語る」あの言葉は、ついほとばしり出た本音だっただろう。完全に脱帽だ、やられました。
停電てーものも昔は辛いものだった
電気と言うものは有難いものだ、これが有るから加茂水族館も快適にスピーデイな仕事が出来る。
この建物に移って来てから9月末まで半年間停電は1度も無かった。初めて経験するオール電化は冷房も暖房も快適で、夏は暖房、冬は冷房の古い建物が懐かしくなるほど違ってしまった。
事務室に居ながらにして監視カメラの映像を見ながら、細かく区分けされた館内の通路や、施設ごとに温度管理が出来るようになっている。私の様なコンピューターに弱い年寄りはどこをどういじれば調整が出来るのか幾ら見てもさっぱり分からない。何かあるたびになれた若い職員を呼んでやってもらう他ない。
夏休みの混雑はすごかった。特にお盆休みに入ったら出勤するのが怖くなる程に多くのお客様が来てくれた。連日1万人を超える入館者が有ったのだから、もうどうにもこうにも捌ききれるものでは無かった。
入館を一時止めて館内が少し落ち着いてから再び入ってもらったことも何度も有った。こんな日は館内の温度設定が難しい。身動きが取れないほども入った人の熱気で室温が上昇して、うっかりしていると酸欠になりかねない状態になる。
毎日冷や冷やものだったが館内を時々回っては身をもって体感し調整を繰り返すのが日課になっていた。8月は3000人以下の日がたったの2日間しかなく18万人に近い入館者が有ったのだからご想像頂けるかと思う。
しかしオール電化だったので、もしも停電が有っても発電機が自動的に稼働して、クラゲや魚などに必要な電気を賄うようにコンピューターに全てがインプットされているはずだった。
それを確かめる事故が10月14日に起きた。
下村脩先生がアメリカからこの加茂の地まで来てくださった日だった。あの日は台風が通過していて、羽田からの飛行機が飛ぶか皆が心配したくらいに大荒れの日だった。館内を私が案内してクラゲの新しい展示を見て頂き湯野浜温泉の宿までお送りした直後に停電が起きた。
台風は予定よりも早めに通過してもう風も雨も収まっていた。何で今頃にと思ったが館内は真っ暗闇になってしまった。たが昔とは違いオール電化だったから驚かなかった。
自動で発電機に切り替わり生き物には十分な配慮がされているはずだ。皆が落ち着いて事務室でお茶を飲みながら回復するのを待っていた。
やっと復旧したのが1時間後で明かりがついてみたら、何と自慢の「クラゲ大水槽」の水流が止まって見事にクラゲが底に淀んで折り重なっていた。クラゲは自力で泳ぐ力が弱いので海流に乗っている。
水槽では無限の流れの代わりになるのが、ゆったりとした回転だった。
これが止まればクラゲは水槽の底に沈んでしまう。そして時間がたてば全滅してしまう事になる。この度は1時間で復旧したからダメージは少なかったが結局3分の1ほどは傘に痛みが出て取り上げざるを得なかった。
本来動かすべきところに電気が行かずに、要らないところのポンプを動かしていた。設計者が勘違いして設定を間違えたことから起きた事故だった。クラゲの展示は常に危険をはらんでいると言える。
発電機と言えばまた頭に浮かんだ遠い昔の出来事が有った。おぼろげな記憶をたどってみると昭和50年頃ではなかったろうか。旧水族館には発電機らしきものが無かったのである。
館内の水槽がすべて底面ろ過方式で循環のポンプが無いのだから、発電機はいらないと判断したのだろう。可動式の小さな発電機が有って停電時には圧力送風機のポンプだけが動けば魚を殺す事が無いと見たのだろう。
その小さな発電機が故障していたところに停電が起きた。雪の舞う荒れた寒い日だったから12月か1月だったと思う。夜中の2時ごろ依頼していた警備保障会社から電話が有った。
停電の際には私にまず連絡が入る仕組みになっていた。吹っ飛んでいって回復を待ったがなかなか電気は来ない。何もせずに持たせるのは1時間が限度だった。
仕方なしに海水魚の水槽の裏に回った。バケツで水を掬い上げては水面めがけてザザーっとぶちまけて少しでも酸素の補給をしようとした。13ある水槽をただ黙々と水を掬ってはぶちまけて回った。
こうするほか魚を生かす方法が無かったのだ。なかなか電気は来なかった。ついに夜が明けてきた。思えば私も若かった。今の私にはそんな力はもうない。体力が良く持ったなーと思う。
その事故が有ってから中古の発電機を買った。しかし全館を賄うだけの容量を持つ高性能の発電機は買えず、3つに区分けをして30分ずつ切り替えることでとにかく魚を殺さずに生かす事が出来るようになった。
あのどん底が有ったからオール電化の今が有るのは本当だが、思えばあそこはひどい作りだった。あの小さな水族館には泣かされたものだった。
世の中ってのは~面白いじゃないか
この間アクアマリンふくしまからマイクロバスを仕立てて、外国の水族館館長の一行がやってきた。みなその国を代表するような巨大施設で歴史があって世界的な高い評価を受けているところである。
無脊椎動物の飼育展示では憧れのモナコ水族館の女性館長、大金持ちの父親が娘のために世界一の水族館を作ったと伝説があるアメリカを代表するモントレー水族館の女性館長、カナダやスペインの水族館館長、北京水族館館長もいた。
いずれもどんな巨大な水族館を目の当たりにしても動じないこの業界を知り尽くした方々ばかりだった。なぜそんな方々が出来たばかりとは言え小さな田舎の水族館に来てくれたのか、なかなか理解に苦しむところである。
それはアクアマリンふくしまの安部館長の粋な計らいによるものだった。氏と加茂水族館とは少なからぬ結びつきがある。最初はもう25年も前に二人で渓流釣りを楽しんだのが始まりだった。
どれほど釣れたのか記憶に乏しいがそれほどのことはなかったように思う。2度目は思い切ってちょっとした尾根を越えて人が入らない隠れ沢に行ってみた。やはり人が手を付けていないとなればポイントごとに良いやつが陣取っていた。
安部さんは少々腹が出ていてあれでは沢を歩くにも、身をかがめてポイントに仕掛けを振り込むにも旨くないんじゃないかと思ったのだが、以外にも沢に入ると素早い動きを見せてイワナを釣っていた。
かなりの数になったから50以上60ほどの良い型を釣ったと思う。再び尾根に這い上がり車に戻った時には二人ともかなりの満足感と疲労が気持ちよかった。
あれから10年近い時間がたったがあの沢に入っていない。その後まもなく下手に結構大きなダムが出来て水が溜まりさらに入り難くなった。山に慣れた目で見ればダムで育った大きいやつがあの沢に遡上しておそらくイワナの天国が出来ているであろう。
また二人で行こうかと話すことはあるが、もういい年になってしまった。口はまだ達者だが足も目もいうことを聞いてくれない。
釣りの場面ばかり思い出すが本当に紹介したい「クラゲの縁」を忘れていた。安倍さんが48年前に上野動物園水族館でミズクラゲの繁殖展示を始めたのが、今に伝わる世界中でクラゲを展示する始まりになった。
いつも感謝しているのだが加茂のクラゲ展示の流れを遡ってゆけば、安部さんが源にいるのである。このたびモントレーをはじめ世界各地から来てくれた水族館でもクラゲの展示をしているが、40年以上も前に皆さんが安部さんのところに学びに来て展示や繁殖の仕方を教わったまあ云わば加茂とは兄弟弟子ともいうべき仲間にあたる。
安部さんは4年に一度開かれる世界水族館会議の次の開催館として手を挙げていた。その中間会議が行われたのを機会にわざわざ自前のマイクロバスで加茂まで案内してきてくれたのである。持つべきは友であると感謝している。
迎える我が方の緊張をよそに皆さんがクラゲの展示を見て喜んでくれた。それは想像を超えた姿で歓声を上げて心からの笑顔を見せてくれた。100m続くクラゲ展示の水槽は曲がりくねっていて先が見通せない作りになっている。行く先々の水槽で50種を超すクラゲを熱心に見入っていた。まるで子供に還ったようだった。
見たことのないクラゲが15種いたと数えていた人もいた。11日間のミズクラゲの成長過程を並べたカウンターでも意表を突かれたような驚きようだった。傘の径が60cmにも育ったサムクラゲにも肝をつぶしていた。
2万匹は入っていたであろう「ミズクラゲの赤ちゃん水槽」は、高い繁殖技術を理解してくれた。
きらきらと光を反射して輝く「櫛クラゲ」は飼育が難しいことで知られている。開館以来8種も展示を続けていた。
最後にたどり着いた「5mのミズクラゲ大水槽」では、皆がうわっという声にならない声を発していた。
中東にあるという水族館の1万トンの水槽を見てもこれほど喜んだものか。大きさで競ったとしてもだれも感心はしなかったであろう。目の前のたった40トンのミズクラゲ水槽を見て心を奪われたのである。
色々な展示で世界をリードして来た方々の心を捉えたこの小さな水族館の価値は、人の真似でも延長線上でもない新しい価値をこの世に生み出したところにあると思っていたが、この業界を知り尽くした方々だから分かってくれたのだろう。
平成14年に今副館長をしている奥泉を、アメリカのモントレー水族館に視察に行かせたことが有った。向こうのクラゲ展示の素晴らしさに打ちのめされてからもう13年になる。あのショックが目を覚ましてくれた。向こうが「帝国ホテル」だとすれば加茂は「我が家の犬小屋」にすぎないみすぼらしさだと思った。
その巨大な相手からいつの日か「村上館長、よくここまでやったな」と言われたかった。奥泉と同じ話を何度したことか。その憧れの館長が私に近かずいてきた。「素晴らしいものを見た。また二年後に今度は職員を連れてきます。それまで良い展示を続けてください」と言ってくれた。
「あの日から奥泉と二人で、貴女のところを目標にこれまで努力をしてきました」と伝えた。
努力と多いなる挑戦は願いを叶えてくれたようだ。
返す言葉がないとはこのことか
いやこの4か月実にあわただしい思いをした。水族館の開館がこんなに大きな反響を呼ぶとは思わなかった。新しい水族館に寄せる思いは地域の人々のみならず、日本中の人が加茂水族館の開館を待っていてくれたような繁盛ぶりが出現した。
予想をはるかに超えた客が来れば苦情も増える。駐車場も足りず、売店もレストランも対応しきれなかった。すべての面が後手後手に回り混雑して館内が渋滞し、入館のゲートまでも渋滞が続いた。
館長自らハンドマイクを片手に「今日は今年一番の込みようです。入館できない人が300mも繋がっています。止まらずにお進みください」と声をかけた。
おそらくはろくに魚もクラゲも見れずに帰られた方が相当数いたと思われる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。
この異常な人気はオープンする前からすでに予想されていた様なもので、クラゲ水族館として何度も何度もテレビなどで報道がされたことによるものだったと思う。それも全国的な報道が多かったから効果があったのだろう。
どこの報道も必ず取り上げたのは目玉の5mクラゲ大水槽だった。これは確かに絵になるし取り上げたくなるような魅力がある。これまで世界中のどこにも無かった大きさと中に8,000匹のミズクラゲを泳がせたのが大きな感動になった。
朝開館と同時に魚の水槽の前を250m走って他のクラゲは一切見ずに通り過ぎて、クラゲ大水槽にたどり着いて見入っていた若い女性もいた。「どこから来たのですか?」「東京からです。この水槽を見たくて来ました」と言っていた。
この水槽は巨大だといっても水量的には大したことはない。40トンのむしろ小型の水槽にすぎない。お隣の秋田県と新潟県の水族館には最大700トンの水槽がある。福島県には1,500トンがあるし加茂の40トンは比較できないほどの小ささにすぎない。
しかしこの水槽の価値はちょっと違うところにあると思っている。これまでクラゲ、しかもミズクラゲをこれほど大きな水槽に群泳させるという発想は、どこのどなたからも出ていないものだった。
世界中を見回しても同じである。これまでと違う価値の展示を生み出したところが5mクラゲ水槽の値打ちなのである。大いなる挑戦だったがやって良かった。お客様も報道陣も同業者も皆が認めてくれ大きな反響につながった。
まだ目の前に残されている旧水族館にも大水槽があった。深さが3m水量が30トンだった。大きさだけだとクラゲ大水槽とさして変わらない。当時としては深さ3mは日本で最も深いもので、上野動物園の中にあった水族館にある水槽が大きさは比較できないが深さ3mで1番だったのでそれに倣ったものだった。
この水槽には理解できない不思議な作りがしてあった。なるべく大きなガラスをはめて見やすくして感動していただきたいとは、どなたも願うところだが丁度目の高さに「目隠しのコンクリートの帯」がつくられていた。
中を見るためには伸び上って上から覗くか、しゃがんで下から見上げるほかなかったのである。なんで目線を封じるような作りをしたのかいくら考えてもその理由は思いつかなかった。
昭和41年はまだ鶴岡市立加茂水族館だったので、館長は観光課長井上行雄さんだった。聞いてみたらこの返事もまた理解できない不思議なものだった。何処の出来事かは忘れてしまったが「ある女性が水槽を叩いたところ、指輪のダイヤモンドで硝子が割れてけがをした。ここは深さも水量も大きい。大事になっては困るので目の高さを隠したのだ。」真顔での返事だった。
「そんな馬鹿な、水族館を建てているのではないか。目線を封じるとは、見せることを封じたということではないか」と思ったが採用されたばかりの26歳の若僧では言葉にできずぐっと飲み込むほかなかった。
翌年水族館は民間の会社に売却されて27歳で館長をやらされる羽目になったが、その15年後に、「観覧俯瞰大水槽」を取り壊しガラスを大きな物に取り換える工事をした。
工事を地元の渡部工務店に依頼して、酒田市の三浦ガラスさんにあつさ11mmの強化ガラスを発注して行った。
深さを1m下げて2mとして冬の間の工事が何とか完成した。3月中ごろに庄内一円に「大水槽が完成しました」と書いた捨て看板を60本立てた。すべては客を呼ぶためだった。
何月ごろだったろう、どこかの親父さんが大水槽の前にいた。丁度通りかかった私に「大水槽が完成したと聞いたのだがどこに有るのですか」と聞いた。「いや目の前にある」とも言えず、「うーんまずまず・・・」とか言ってごまかす他なかった。
水量的にはそう変わらない40トンと、30トンだが価値は天と地の差がある。あのころが夢だったのか、今が夢なのか体験した自分としては落差がありすぎて夢の続きを見ているようなあやふやさが有る。
真夏は50度にもなった
新しい水族館はオール電化方式が採用されている。立派なレストランが有るが調理のために火は一切使っていない。大きなラーメンの釜も、煮物も焼き物も揚げ物もすべてが電気の力で料理が出来てゆく。
火の無い台所なんてまるで魔法のような感じだが、実際ボタンの操作一つで温度や調理の時間が変えられて料理が出来てゆく。これまでレストランの台所と言えばガスの火が燃え上がるコンロに鍋やスンドウが置かれて、白衣の男たちが忙しく動き回るイメージだった。
世の中がここまで変わるとは只々びっくりである。なぜ知りもしないオール電化に飛びついたのかこれを紹介するのも館長である私の務めと言うものだろう。
おととしの事だから平成24年の5月ごろだったと思うが定かではない。「館長、東北電力の方が来ました」と言われた。予定もないのに何の用かと思ったが、多分電気料金の事でも説明に来たものだろうと会ってみた。
何だか元気のない印象の薄い二人の男がいた。何事かと思っていると鞄からパンフレットを取り出して「オール電化の営業に来た」と言った。なんだか胡散臭い話だなと思った。
いいかげんに帰ってもらいたかったので、気のない返事をして説明を聞いてお帰り頂いた・・・これが始まりだった。
意外にもその二人の男は粘り強かった。何度か会っているうちに実際稼働している現場を見てくれと酒田市にあるホテルに案内された。ここで目にしたものが信じられないものだった。
整然とした大学の実験室の様なたたずまいで、調理器具らしからぬものが並んでいた。
引き出しがいくつも付いた箪笥のようなもの、ステンレスの本棚のようなものも有った。台所特有のむんむんするような熱気と湯気、コンロから上がる炎とは無縁の実に静かな場所だった。
「火を使わないから台所は暑くならない。」この言葉に感動した。振り返ってわがクラゲレストランの台所はと言えば夏の盛りには50度にもなる大変な職場だった。
色々工夫をしてみたが温度を下げる事が出来なかった。ここで働くお母さん方はみんな60歳を超すいい年になっている。「みじょけねなー」と思ったし、いい環境で仕事をさせてあげたかった。
「新しい水族館では夏でもセーターを着て料理を作らせるぞー」とこの時に決心した。オール電化と言えば聞こえはいいが調理の設備には結構なお金が必要になる。それも軽食コーナーの分と2か所の設備になる。
金はみんなで稼げば何とかなるだろう。もうそこから先は心配するのをやめにした。
今外に見える小さな古ぼけた建物のレストラン、あそこの思い出は山ほども有る。
平成7年頃だったと思う。売店を拡張する工事をしたことが有った。東京の本社の指示で売店は商売になるがレストランは難しい、レストランを狭くしてその分売店を広げろと言われた。
売り上げから念出する工事の資金は不足していた。工事をしたらレストランのイスとテーブルを買う金がほとんど残っていなかった。思いついたのはリサイクルの業者から買えばうんと安くできる。
ダイ・・・何とかと言う業者の倉庫が赤川の土手のそばにあった。事務の田沢さんとガラクタが山積にしてある倉庫に入り散乱した家具を乗り越え乗り越え探したら、どこかの蕎麦屋からでも引き取ったのかそれらしいテーブルが見つかった。それを6つと合いそうな椅子を24買った、皆で35,000円で買えた。
これを並べて商売したがとても話にならなかった年間の売り上げが600万円にしかならなかったから、誠に恥ずかしい次第だった。
貧乏が極まってくるともう何でもありだった。それから10年後の平成18年に、クラゲレストランに改造し倍に拡大したら売り上げが3,000万円を超えたのだからどん底の5倍になって大いに利益を上げた。
ここでクラゲを食べる会をし、クラゲラーメンを発明し、エチゼンクラゲ定食も売り出した。クラゲアイスは年間1,000万円を超す空前の大ヒットになった。
クラゲのジャムも作ったし、クラゲウインナーコーヒーも売り出した。皆バカバカしいアイデアだったが実行したらマスコミさんが飛びついて来た。
勢いがつくと何をやってもヒットするものと教えられた。アイデア料理を出せばテレビ局がきて全国放送してくれ日本中の客を呼び、売り上げを増やしてクラゲ展示の拡大資金にした。
夏には50度にもなったあの台所も新しい水族館建設に向けて力を発揮してくれたのだが、外の建物と共にあと数か月で取り壊される。
浪曲 無法者館長一代記
74にもなった老館長が最後の大仕事として、何とかクラゲの水族館を誕生させる事が出来たのだから幸せという他ない。やはりこれ以下ないと言われた小さな水族館だとしても、この道に入ったからには何か新しいものに挑戦してみたかった。
しかしだからと言ってそう簡単に願いが叶うものでもない。27歳で館長になって48年と言う長い年月がかかったが最後の最後に何とかなったのだから不思議なことだ。人様よりも能力が優れていたわけでもない。恥を忍んで言えば落ちこぼれ人生だった。
お金も、人も場所もすべてが不足していた中で、少しずつにじり寄るようにしてクラゲの水族館に近づいて行けたのだから、この世もまんざら悪くないじゃないかと思っている。私は実に付いている。
クラゲの展示が日本で本格的に開始されたのはもう47年も前の事になる。アクアマリンふくしまの安倍館長が昭和42年に浅虫水族館からミズクラゲの繁殖の指導を受けて、上野動物園水族館で8月から展示を開始したのが繁殖通年展示の始まりだと解釈している。
そうなると、この間多くの水族館でクラゲの展示を取り入れ結構な人気を博していたのだが、なぜ他では脇役に押しやられていたのだろうか。
水槽のガラス越しに泳ぐクラゲを見たらどなたでも美しさに見とれたはずだ。クラゲ担当者はもっともっと多くの種類を展示して訪れるお客様を感動させてやりたいと願っただろうと思う。
寿命が短いクラゲを通年展示するには難しい繁殖に取り組まなければならないという厄介な仕事が有る。他に魅力のある生き物が展示されていたら無理をする事は無いのだろう。
加茂には他にめぼしい展示がなかったのが他と決定的に違う点かも知れない。クラゲの展示にたどり着いたのは平成9年の事だから、今18年目に入ったことになる。あの時経営を任されていた私は暗い毎日を送っていた。いつも倒産と言う文字から逃れる事が出来なかったからだ。
1万円のものさえ買うのに躊躇していた貧乏のどん底で、クラゲの魅力に憑りつかれたと言っても必要な機材の購入は殆ど不可能だった。何もしてやる事が出来なかった私を尻目に若い職員が創意工夫で立ち向かってくれた。
クラゲの餌になるアルテミアさえ倹約してくれと指示した。真っ暗闇の向こうに見えた小さな光に向かってしゃにむに突き進んだが、すべてが難しくまた初めての経験で何もわからなかった。しかしそれがまた面白かった。
開館まであとひと月と迫った日、館内を一巡り歩いて回った。魚はまだ入っていない。ゴマフアザラシも半分はまだ旧館に居る。
クラゲだけが50ほどの水槽にすべて運び込まれている。見回りの最後の水槽が目玉の5m水槽で毎日ここにきて見るたびに感動を新にしている。
初めてここに来たのは去年の10月ごろだったと思う。コンクリート打ちが終わって型枠が外されてクラゲ大水槽の形が現れたと聞いた。工事用の鉄製の狭い梯子段を上り詰めた向うに5m水槽が口を開けていた。
照明もない工事現場の暗闇に落とし穴の様にして静まり返っていた。「これは巨大だ」と思った。こんな巨大な水槽にミズクラゲをいっぱいにして泳がそうなんて飛んでもない。挑戦すると言えば聞こえがいいが俺はとんでもないものに挑んでいたのではないか。人の書いた数字と文字と出来上がった実物の差がこれほど大きかったとは、計画書を作った自分が震えていた。
足場のパイプや天井を支えるポールの間をくぐりながら何度見に来たことか。そのたびに震えていた。ガラスが取り付けられてまた震え、初めて海水が注入されてまた震えた。
開口部が直径5mだが内部が少し広い作りになっている。奥行きが狭いので水量は40トンしかない。これが新加茂水族館での最大の水槽だった。
たった40トンで全国にある多くの水族館の巨大な水槽と競い合ってゆかねばならないことになる。何としてもミズクラゲをいっぱいにして訪れるお客様を感動させねばならなかった。
それにしても高がミズクラゲの繁殖ではないか、何ほどの事も有るまい、今やっている延長線の先に有るだろうと思っていた。今やっている繁殖を規模に合わせて拡大すれば済むと思っていた。
実際やってみるとまるで別次元の仕事だと気が付いた。何度挫折したことか、何千匹と展示していたミズクラゲが一夜にして全滅という事が何度かおこった。
原因不明の繁殖失敗が長く続いたら、やっと1年後に別のクラゲのポリプが悪戯していたという初歩の失敗もあった。「まるで賽の河原の石済みだな」と思った。
新水族館の設計変更が出来ないぎりぎりの所でもまだ失敗を繰り返していた。追いつめられていたが現場の者はあきらめなかった。そしてどうやら日に1,000匹の生産をできるというやり方を見つける事が出来た。
新水族館をクラゲで・・・と、当時の市長に提案したのが平成19年の6月の事だから、あれから7年が経過したことになる。あの案にはミズクラゲ大水槽として100トンを記載していた。勢いだけは今よりも大きなものを持っていた事になる。
最初から万と言う数のミズクラゲをどのように移動して、どのように掃除をするか。これと言う解決策もないままに計画を進めていた。何としてもやりたいという勢いだけが先に立っていたからだろう。
他のクラゲではなく、ミズクラゲだからこそわが手で最初に巨大水槽をどうしても遣りたかったのだ。
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これまでの努力は全て新水族館をスタートさせるための準備だったと思っている。むしろ目的の地点に到達したこれからが難しい経営を迫られるのではないか。
しかしここの職員はクラゲの水族館が出来たからと言ってこれがゴールだとは考えていない。やっとスタート地点に立てたのである。ここからの働きが本当の評価につながるのだと思う。
日本がクラゲの展示の元祖だとは先に述べたが、その後の展開を見てみるとすでに世界中でクラゲの魅力を素晴らしいと認め水族館の展示に取り入れている。展示の手法や情熱はむしろ学びに来たアメリカやヨーロッパ、カナダ、香港などが先に行っていると見て良いのではないか。
しかしそのどこも面倒な多くの種類を展示する方向には行っていなく、その点でも加茂のような50種を超える展示は新境地を開いたと言えるのではないかと思う。
今後はその手法と技術の素晴らしさを武器に世界の水族館仲間に存在を示したいものだ。来年にでもここでクラゲの世界会議でも開催したい。世界中からクラゲの飼育展示を学ぶ者を受け入れたい。そしてクラゲのメッカと言われる存在になりたいものだ。
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クラゲの展示で入館者が回復したのは事実だが、急激な伸びを見せたのは平成14年4月鶴岡市に買い取られてからだった。普通なら民間から市に移れば難しい制度が壁となって業績は落ちるはずだった。
加茂が逆になったのはなぜだろう。それを一言で言い表せば無法者館長が難しい制度と真っ向勝負したからだと思っている。館長とは言っても与えられている決済権は50万円まで(のちに60万)だった。
それをこえる工事や設備は市がするという約束だったが、実際はどこも同じだと思うがお役所には金がないのである。ぼろぼろの水族館を市が買い取ってくれたのは嬉しかったが、それを補修したり設備投資をしたり魅力をアップするお金を出す事は無かったのである。
ならばどうしたかと言うと、職員に号令をかけて「皆で一生懸命努力して稼ごう。その金で自分たちのやりたいと思う事を実現しよう」と呼びかけた。皆が必死の努力をしてくれた。
人間の喜びは給料だけではないようだ。自分の思いを実現できるのは何にも勝る喜びとなり、指示されなくても自分から力を発揮してくれる様になる。
稼いだお金を冬の間に投入して春休みのシーズンまでに、クラゲなりアシカショーなり、魚類なりの魅力を少しでも上げようとした。
しかし稼いだお金が権限をはるかに越えていたのである。このお金を使うには制度に従わねばならなかったが。時間のかかる面倒な制度に従えば春になっても手続きさえ終わらないのは目に見えていた。
そこで手続きはせずに直接工事を発注して仕事をやりとおした。制度を守る側との軋轢は当然あったが、このやり方を無理やり12年間続けたから大きな実績を上げることが出来たのだと思っている。
この辺が館長が無法者と言われるゆえんだった。経営の中で大事なのは決断力ではないかと思う。頭が良くて利口でまじめでいい男でもダメなようだ。ドン・キホーテでも結構先に立つものが立ち向かう事で道が開けるのである。どんな制度の中であろうとも実績こそが命ではないかと思う。
(「どうぶつのくに」Vol.64に掲載したものを改編)
庄内弁が最高
ついこの間の出来事のように感じるが、思い出してみれば平成17年の5月だったから早いもので9年になろうとしている。遠い昔ではないがこれも思い出の一つとなってしまった。
あれは150億円かけてオープンした大洗水族館で行われた日動水協の総会の場だった。総会には会員がおよそ150名参加してそして毎年必ず総裁であられる秋篠宮さまも出席される最高の場面である。
日本全体の各ブロックから一人ずつ6名が登場して居並ぶ園館長に自分のところの取り組みを発表するという企画だったと思う。
毎回行われていた講演会が多少飽きが来ていたこともあって、たまには変わったことをするもの良いのではないか、それぞれの園館が業績を上げるためにどんな取り組みをしているのか、これを聞くのも大いに参考になるだろうとの思惑から出た企画だった。
一番大所帯だった関東東北ブロックからはどこを出したらいいのか多少の議論があったようだったが、規模が大きくて新しく誰が見ても立派だと思える水族館ではなく、苦労の経営を少し建て直しクラゲで世界一の展示を始めた加茂水族館が面白そうだあそこが良いだろうと私が選ばれた。
「夕陽を見続けた館長」というタイトルも、秋田市の大森山動物園の小松園長より授けられて、俺でいいのかと思いながらも出かけて行ったという次第だった。
規模も内容も協会で一番小さくおまけに築41年とすっかり古くなったわが加茂水族館はどのように見ても存在感は薄く、居並ぶ150名の園館長の中ではどこに在るのかさえ知らない人が多くいたほどで、1番さえない存在だという事は疑いなかった。
私にだって恥を知る思いが有る。居並ぶ園館長の前に立つにはどうにもやりきれない劣等感があった。老朽、弱小、貧乏水族館が聞く人に強い印象を与えるためにはどんな話がいいのか思い悩んだ末に、私が採ったのはバカバカしいほども浮世離れした語りかけだった。
聞く人が理解不明でもいいから堂々と庄内弁で語りかけること、、恥ずかしいなんて言っていないで波乱の運命を余さず聞かせ、ドン底から這いあがる物語を展開する、それもなるべく聞いて楽しくなる内容をふんだんに盛り込む、出来れば大いに笑わせるという作戦だった。
私の前に語った3人の話はいい内容だったがすごくまじめだった。聞いている150名もあまり盛り上がらず反応はそれほど芳しくなかったように見えた。
存在さえも知られていなかった私の話はどなたも期待していなかったと思う。そこに平成9年にどん底を迎えたこと、日本海に沈む夕日が加茂水族館の運命と重なって見えたこと、背負わされた億を超える借金、また本社の借入のために家屋敷を担保にしたこと。
借入れ金を自分の責任で返済すると念書を書かされた事、倒産を覚悟し16代続いた家屋敷を競売にかけられる窮地に立ったこと、夫婦別れか親子の縁を切るかの瀬戸際まで落ちたこと、などを手短に語った。
それからおもむろにクラゲに出会って奇跡の復活を成して行く過程を語った。しかし坂道を転げ落ちていた歯車は簡単には逆転してくれない。何とかするために使った手段は聞いた相手が呆れて笑い出すほどユーモアに富んだアイデアだった。そのまま語って聞かせた。
これが大当たりした。私がズーズー弁で「まんずジェニがねえと言うのは困ったもんだ、クラゲの卵を見る顕微鏡も買われねがったんだ」「クラゲ担当からは顕微鏡がねえと卵が見えねがら繁殖させられねーと言ってきたが、ジェニネーナや、ちぶれそうなんだという他ねがった」
「日本一の展示をしたが誰も評価してくれねがった、どもなねがらクラゲしめで来てクラゲを食う会をやったんだ」このあたりからもう会場は笑いの渦に包まれた。
私はうんと真面目な顔をして続けていった。「皆さん笑ってっけんども、わだしはイッショケンメー真面目にしゃべってんです」と言ったらもう爆笑だった。そこに間髪を入れずに「クラゲ入り饅頭、クラゲ入り羊羹」と続けたら、総会という場所も忘れて笑い転げて一気にこの場の関心は私に集まった。
会場を埋めた園館長は沖縄から北海道まで日本中から来ていた。私の庄内弁はどこまで理解できたものか分からなかったが、意表を突いた堂々の発表は、間違いなくハートが破裂するほども揺さぶられたと見えた。
壇を降りて席に戻る私に皆が笑顔を見せて立ち上がり握手を求めてきた。私は「やったようだな」と感じた。無くてもいいと評された小さな水族館が、まずは全国の園館長に強く印象づけてその存在を知らせる事が出来た。
私の次に登壇した旭山動物園の園長小菅さんが、開口一番に「加茂水族館の村上館長には足元にも及びませんが」と言いながら、旭山動物園は職員が「アイデア集団」だと言う紹介をしていた。
あの小菅さんに評価されたこの言葉がたまらなく嬉しかった。業績では彼の足元にも及ばないが、この日の人気は私に軍配が挙げられたと思っている。
男にとって勲章とは
タイトルにあるように今日は少し骨っぽい話をしよう。去年の5月だった。秋田県横手市の村岡さんと言う動物病院の方が訪ねて来て、ここの取り組みを自分のところで話してくれないかと頼まれた。本当はこの頃遠出が億劫になっていてまずは県内、遠くても車で2時間圏内に限定して引き受けようと決めていたのだが。
しかし世の中決めたからと言ってそのまま押し通せないことも有る。それが浮世の習いと言うべきかもしれない。この時も先立つこと2か月前に断りきれないような有名人からメールが届いていた。
それは今をときめく旭山動物園の前の園長小菅正夫氏からのメールだった。村岡さんは小菅さんの友人であるらしく頼りにされたのであろう。夏休み公開講座「どうぶつのお医者さん」と言うタイトルで、内容は任せる釣りの話でも鉄砲うちの話でもいいから頼む、、、と書いてあった。
小菅さんはもう国民的な有名人である。ゴリラが死におおくの困難な出来事が入園者の減少につながり、閉園を覚悟するまでになった所から職員のアイデアを実現させて、年間307万人もの入園者を呼び上野動物園を抜いて日本一繁盛する旭山動物園を築き上げたいい男だった。
彼には一度お願いして鶴岡市で講演して頂いたことがあった。この時の頼みは今でもよく覚えている電話での私のお願いを聞くや「あなたの頼みだったら行くよ、2月は忙しいから私の日程に合わせてくれよ」とこれだけが返事だった。
人様から何か頼まれたら勿体などつけずに「わかった日程が合えば行きます」と答えるのが礼儀だとその時の対応から教えられた。
義理のある方からの頼みと有れば、新しい水族館が建設中であろうが無かろうが「わかった行きましょう」と答える以外に道はない。そして5月に動物病院の村岡さんが訪ねて来てくれたと言うわけである。
そして7月29日小菅さんと二人で1時間半ずつ講演をした。話題の二人が首を並べて講演をするというのはそう簡単にはできないことだ。村岡さんの計らいで実に面白い企画が実現した。
私も興味があったが小菅さんの講演は彼らしい素晴らしいものだった。勝てなくとも絶対に負けない修業をした、、、、と言う北海道大学時に熱中した柔道の話が中心だった。面白かったしさすがだなと思って聞いたが、うーんと考えさせられたのは別の場面での出来事だった、
ここで横手市での話はひとまず横に置くとして、男の勲章とはいったいどんな事を言うのかに移ることにする。長い間気になっていたし自分なりにはやはり実績だろう、大きな納得ゆく業績が男の勲章ではないかと思っていた。
振り返ってそれらしいものを拾い上げればいくつかは見える。昭和47年の年末に倒産して金がまったくない中で春まで生き物を面倒見たこともその一つにあげられるだろう。
大きな借金や上司からの無理難題ともいえるプレッシャーに耐えて無事鶴岡市に経営を引き継いで頂いたことも業績に上げられる。その後の見事な入館者の増加は日本中に認められるまでに広まった。
ノーベル化学賞を受賞された下村修先生を加茂水族館にお迎えできたことや、ギネスにクラゲの展示種数が世界一だと認定されたことだってこの業界では初の快挙だった。
引退がまじかに迫ったこの時に鶴岡市には新しい水族館まで建設して頂いた。幸せ者だなーと思わずには居れなかった。皆業績だと言えば言えるものだと思う。
しかし本当に男の勲章とはこんなに恰好いいものなのか、もっとドロドロとした生臭いものでは無いのか、人知れず影のように目立たないものではないか、そんな思いを抱いていたことも事実である。
話は秋田県横手市での講演に戻るが、小菅さんと立ち話をしているときに彼の口から出たたった一言が、私の考えの甘さを気付かせてくれた。それは「私は2度始末書を書かされた」と言う意外な言葉だった。
国民的な英雄と評される程に大きな実績を上げた男の中の男が、旭山市役所では表彰されるどころか評価されないか大きくはみ出した部分があったという事を意味している。何が始末書に結び付いたのかは聞かないでしまった。
しかし思うに業績を上げようとすればする程に市の制度が大きく立ちはだかったのだろう、彼だって市の職員だったから制度に従うのが務めなのはよく承知していたはずである。
多くの人がそうするように、「分かりました面倒で時間のかかる制度に従って手続きをして、会議を開いてハンコをもらって進めます、、、」と言えば身は安全だが、あれだけの業績を残すことは不可能なはずだ。この辺の事情は今市の一角に居て似たような環境にある私にも良く理解できる。
閉園寸前の、まさに風前の灯だった旭山動物園を生き返らせるためには、利口で言われたことを実行する真面目な男ではだめなのである。不可能を可能にするために彼は体を張って、絶対に負けない仕事を進めたのだろうと想像できる。多くの上司と衝突したり条例や規則を承知で破ったのであろう、「本当の男の勲章とはこの始末書」の事を言うのではないか。
俺はまだまだだなと思い知らされた。