村上龍男のブログ

悪い魚捕り-ダイナマイトに点火したら皆逃げた

何年生の時の事なのか、時期はいつ頃なのか思い出せないのだが、親父さんの家で夕食の後、二人で囲炉裏を囲んでバチバチ炎える焚き火にあたりながら、鉄砲のタマ作りをしていた時の事だった。

使った真鍮の「空やっきょう」から、つぶれた雷管を抜いて新しいのを詰め、黒色火薬を計って空薬きょうに入れて仕切りボール紙を入れる。そんな作業をしならが思い出すままに、一緒に山に入ったときの事を話し合うのが楽しかった。

同じ話を何度でもするのだが、その度に興奮して話がはずむ。それを聞いている奥さんに「同じ話をよくあきないもんだ」といつも笑われていた。

親父さんは世事にうとい私を驚かす為に、火薬を火に投げ入れたりしていた。火薬は雷管の小さな爆発がないと絶対に爆発しないのだそうで、本当に火の中で、ブスブス燃えるだけだった。

そのうち親父さんが奥の方から、ダイナマイトを2本持って来た。油紙に包まれた20cm程の長さのものだった。

手で触れてみると、土に脂を滲み込ませたように、表面はベタベタし意外に軟らかい。口に含むとちょっとびりびりするが食べられそうな味がした。

親父さんは端の方を1cm程むしり取って火に入れ「やはり爆発はしないんだ。映画のシーンなんかは皆うそなんだ」と言っていた。

やはりダイナマイトも焚き火の中で火薬と同じようにブスブスと燃えているだけだった。私はダイナマイトに火が付けば爆発するものと思っていたので、本当に意外だった。後に、この中の一本を爆発させる時がやって来た。

農繁期になると頼まれなくても、親父さんの家によく手伝いに行ったものだ。

秋の刈り入れの頃だったと思う。友達数人と刈り取った稲を運ぶのを手伝いに行った。稲の干し方は、地方によって色々な方法がある。

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

刈り入れの終わった田圃。この奥のあたりに「親父さん」の家がある。(昭和40年撮影)

 

あの地方では、刈り取った稲をすぐに家に運び、木を組んで造った「ハセ」に三段か四段にスダレ状に干していた。刈ったばかりの稲は水分を含んでいて重く、随分遠くからも運ぶので、なかなか骨の折れるものだった。

不思議に思うのだが、稲を運ぶのは全て人の背中で、荷車とかリヤカーを使う事は全くない。

何処の家でも人手が欲しいので、勝手に押し掛けても大歓迎で喜んでくれた。

その日、私達が行った時、すでに親父さんの家の取り入れは終わっていた。

他の家の稲が所々に残っていたが、最後の収穫の最中だった。

親父さんの家に上がり、何かごちそうになっている間に魚捕りに行こうという話になった。

親父さんは奥の方からダイナマイトを一本持ち出した。それと一緒に導火線と雷管も持ってきた。そして自分の家の田圃の下に大きくて深い淵があって、「ハヨ」がいっぱいいるから、あそこで「発破かけしよう」と言いだした。

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

山裾の手前に「発破かけ」した川がある。(昭和40年撮影)

 

正直なところここまでの記憶は誠にあいまいで朦朧とし、夢か幻のように頼りない。本当だったかそれとも長い年月の間に妄想が現実になったのか、もっと別のストーリが有ったような気もするが、まあそれはそれで良しとしよう。

今、上叶水から、親父さんの家がある新股に行く途中、横川に立派なコンクリート橋が架かっているが、あの頃の橋はもう少し上流にあって、魚のいる淵もさらに200m程上流にあった。

田圃から川に下る時、鉄砲を空に向けて二~三発撃った。ダイナマイトの音を鉄砲と紛らわす為だった。淵に行って見たら近所の子供二人が先の折れた3m程の釣り竿で何かを釣っていた。

何でも親父さんの説明に依るとダイナマイトの威力というのは、周囲全体に及ぶのではなく、水の厚い方に放射状に広がっていくので、川底の方に沈めてしまうと、水面の方に広く効果が出るので底を泳いでいる魚は死なない、と言って居た。

魚をいっぱい捕るためにはダイナマイトを深く沈めずに、水面下二尺程の所に止めて爆発させると川底に広く及ぶのだと言っていた。子供の釣竿を借りて先に紐を縛りつけ、二尺ほどの所にダイナマイトと重りの代わりに石を二~三ヶ結び付けた。

ダイナマイトに雷管を押し込み、10cm程の導火線を雷管に差した。10cmの導火線が一体何分保つのか何秒後に爆発するのか親父さんさえも、他のだれも分からなかった。

日頃強がりを言っている友達も皆、竿を持つのを嫌がって後ずさりし、親父さんさえ尻込みした。

「それでは俺がやる」と自分から言い、私が爆発役を引き受けた。一度練習した後、親父さんがマッチで導火線に火をつけた。それまで近くで見ていた友人も子供もみな遠くまで逃げてしまった。

火をつけた親父さんさえも導火線から火花が出始めたら逃げてしまった。だれもがダイナマイトの爆発を恐れていたのだ。

私が竿を持つ手を伸ばして水面下二尺程の所にダイナマイトを沈めた、その間にも爆発するのではないかと言う恐怖心が有った。この時の決断はこれまでの73年に及ぶ人生の中でも特別大きなものだったと思う。体をがちがちになり竿を持つ手が他人のように感じられて、頭がしびれそのまま倒れてしまうほどの緊張だった。
ダイナマイトと一緒に縛った小石が飛んできたら死ぬだろうとも思った。

思ったよりも待つ時間が長いと思ったのだが、どの位だったろう。20秒か30秒位だったと思う。あれっ爆発しないのかなと思っていたら、じきに下腹に響く「ズシン!!」という音と共に水柱が上がった。爆発音は鉄砲とは全く違う振動のような音だった。

しかし水柱は意外と小さく、やはり川底の方に向かって力が広がっていったようだった。

皆が寄ってきて深い淵の底をじっと見ていたが、なかなか魚は浮いて来ない。

しばらくの後、一匹のハヨが白い腹を時々見せながら流れてきた。

それを淵の下手で拾うと、後は次々と白い腹を見せて流れてきた。中には生き返るのか、力なく泳ぐハヨもいた。流れてくる魚はどんどん多くなっていった。

それと同時に元気が出て捕まえるのに苦労するハヨも現れた。

皆はしばらくの間、夢中になって魚を拾ったが、やはり「御禁制」のダイナマイトを使ったという引け目があり、魚はまだまだ流れてくる中を引き上げて来た。

イワナが二~三匹とあとはハヨと呼ばれるウグイのみで、全部で何匹ぐらい拾ったろう。20~25cm前後のが三十匹だったか五十匹だったか、その位と思う。誰かが長靴を脱いで、魚をその中に入れ、人目に付かないように帰ってきた。

しかし悪い事は出来ないもので、途中の田圃で仕事をしていた鉄砲撃ちの仲間に「鉄砲と違う音がしたぞ」「ハッパ掛けたろう」と言われ、悪い事はすぐにバレるもんだなと変な事で感心した覚えがある。

今の高校生がそんな事をしたなら、結果は退学か良くても停学だろう。お巡りさんに知れたら刑務所行きになりかねない事態だ。それに比べ何事もなく過ぎたあの頃はおおらかな良き時代と言えると思う。

逃げ出したいほどの緊張の中でとにかく乗り越えたこの事が、私の後の人生に大きく影響したと思う。社会に出て多くの難しい局面に出会ったが、運がいいのかたまたまだったのか解らないが、何とか度胸ひとつで乗り切ることが出来た。

男って奴は意地の塊だから、大事なところで「引いたら価値が地に落ちる」・・・しかし目をつぶってでも突っ込めばそこで道が開けるものだ。

16歳で身に着けたあの「命がけの決断」は、良くも悪くも私の生き方を決めた。

 

 

「くらげになりたい(仮)」に出演して

「庄内キネマ制作委員会」から、5月13日の夜6時までに撮影現場に来いと言う連絡が有った。私が映画「くらげになりたい(仮)」の主役のお兄ちゃんの父親役で、ほんのチョイの間無言で孫を抱いてあやしている場面に出るためである。

このところテレビには出ることが多いが、さすがに映画となると出た記憶がない。さてはてどんな事になるのか気になりながら指定された稲生町の民家に行って見た。

撮影の一場面。赤ちゃんを抱っこしたのはいつぶりだろうか。

撮影の一場面。赤ちゃんを抱っこしたのはいつぶりだろうか。

 

この庄内でも映画が作れる時代になったのである。月山のふもとには「庄内映画村」が有るし、市内には古い製糸工場を改造した「鶴岡まちなかキネマ」が有る。それにもう一つ次世代の映画人を発掘育成する「(株)映画24区」が加わって、世界にこの庄内の魅力を発信して行こうと言う面白い企画が実現した。

委員会では3社が金を出しあって毎年2つの映画を作るとのこと、その3作目にここが舞台として選ばれたと言う事になる。資金を出すと言っても大金持ちが居るわけではない。聞いた時にこれで本当に映画が出来るものだろうかとびっくりした記憶があるがまあ信じられない低額である。

子供のころから映画が好きだった。他に大した娯楽が有るでなし「ターザン」が街に来たと聞けば、羽黒の我が家から8km、歩いて市内の映画館まで来て夢中になって見たし、初めて見た総天然色の映画「小鹿物語」の奇麗な事には感動した記憶がある。

映画と云うものは実に面白いもので夢が有った。子供心に自分とは無縁のどこかの誰かが大掛かりに作っているものだと漠然と思っていた。

あれから65年もたったが身近なところで映画が作れるようになったのだから本当に世の中が大きく変わったのである。

この度の話は去年の今頃に打診が有って、加茂水族館を舞台にした映画を作りたいと、まちなかキネマの小林社長から連絡が有った。嬉しかったがいきなり飛びつくには難しい事情が有った。

その事情とは今、目の前で進んでいる新水族館の建設である。50年に一度の大仕事が去年の10月には着工される運びになっていた。幾ら映画の舞台になるのが嬉しいとは言っても新しい水族館が成功しない事には話にならない。

仕事は山積しているのに人手は不足している。他の用事に職員をまわすのは不可能だった。しかし監督やスタッフに何度か会って話を聞いているうちに、まずは場所を貸すのが仕事と言えば仕事で、職員が役者になる訳でもないあとは殆ど負担はなかった。

分かってみればお断りするような悩みは無くなった。喜んで引き受けさせて頂いた。

5月10日にはまちなかキネマで「くらげになりたい(仮)」の制作発表会が有った。

多くの記者が取材に来てくれた。そしてニュースとして流れて大きな話題になった。人気商売的な面が大きい水族館としては大変ありがたい事だ。

5月の17日からはいよいよ水族館を舞台にして撮影が始まった。私が行った鶴岡市の民家でも、スタッフが一丸となって取り組んでいたしここでも同じだった。あの姿はちょっと他では見ることのできない特別な雰囲気がある。

館長役のあがた森魚さんと、水族館の屋上で。(5月17日撮影)

館長役のあがた森魚さんと、水族館の屋上で。(5月17日撮影)

 

何に例えたらいいのか難しい所だが、私の眼には一番近いのは「フィールドに展開したサッカー選手」たちのように見えた。一人一人が自分の役目を果たしながらボールを追い、一丸となってゴールに向かう「戦う集団」と言う表現が一番近いと思うのだが。

撮影現場でそんな緊張した姿に出会ったように思う。

 

 

みのもんた、朝ズバに出たぞ

5月の8日「8時マタギ」だった。みのもんたさんがこの小さな水族館を取り上げてくれたのだ。「20分で3億円を集めた水族館」というタイトルにあちこち紙が貼ってあって字が隠してあった。

「クラゲドリーム債」と名前が付いた市債が4月18日に売り出されてあっという間に売り切れたことは、「館長人情ばなし」にも書いたがあまりに早い売り切れと、資金調達の対象が老朽化した小さな水族館建設だったと言う面白さが受けて全国的な話題になっていた。

その辺がみのもんたさんの番組でも注目したのであろう。みのさんが貼り紙をはがしながら読み上げてくれた。これまで何度も見慣れた光景だったがまさか自分の所があそこに登場するとは思わなかった。

あれは正にこの小さな水族館の50年の歴史の中でも、とっておきの晴れ姿と言って良いと思う。十数分の放送を見ていた主役の私でさえ何だかジンと来たのだから、日本中の多くの人に強い印象と共に加茂水族館の存在を知らしめることが出来たと思う。

何でもお金に換算するのはどうかと言う気もするが、あの時間をコマーシャルで使ったら、恐らくクラゲドリーム債の3億円どころではない宣伝費がかかるのではないか。

これで又今年の入館者は、そう大きな落ち込みもなく結構順調に来てくれそうな見通しになった。館長にとってはこれが一番有り難い。

放送に戻るが、前置きに説明が有って最初に登場したのは沖縄の美ら海水族館や、鴨川シーワールドだった。いずれも日本を代表するような巨大な水槽を持つとんでもない立派な水族館だ。そのあとに登場したのはクラゲの展示で世界一だとは言っても、みすぼらしさは隠しようのない我が加茂水族館と、少々くたびれが見える73歳になった老館長だった。

一番からビリへ・・・この大きな落差が良い。普通ではありようが無い事が起こったから、みのもんたさんが取り上げてくれたのだろう。ナレーターが語る小さな水族館がたどった苦労の歴史に合わせて映像が流れて行った。

倒産を覚悟した平成9年にクラゲに出会って奇跡的な復活を果たしたのだが、その頃にここを訪れた水族館のプロが加茂水族館にきて「なくても良い水族館だ」と評したことが有った。

これも前に「人情ばなし」に書いたがその本人が登場して感想を述べていた。テレビの中の彼は「館長が立ち直ったから加茂水族館が救われたのだ・・・」と、これには参った。そのものずばりだったからだ。このように加茂水族館を見たのは恐らく彼一人ではないか。私だってそれは感じていたんだ。しかし口に出して云えないでいた。

どん底を迎えたのもすべては私の器量が足りないところから起きた事だった。

いつもながら彼の視線の鋭さには脱帽だ。事業と云うものはそこのトップ以上にはなれないと云う事だ。私があのままクラゲに出会うことなく、世を恨んで暗いままで仕事をしていたらここは立ち直ることは出来なかったであろう。クラゲの展示に一筋の光を見て希望を持ったから次に繋がったのだ。

長く続いた低迷に気持ちを暗く落ち込ませ、理不尽なこの世を恨んで言い訳ばかりしていたあの地獄からまず救われたのは館長の私だった。

 

館長だって市債が買えなかったんだ

18日の朝9時半頃だったろうか。「市債を買いに行ったが長く並ばせられて待っていたが途中で打ち切られてしまった。どこに文句を言えばいいんだ」と云う電話ばかりがつづいた。

「いやーそれはここではなく鶴岡市の財政が担当です」と答えると「それなら電話番号を教えろ!」とどなたもかなりの剣幕だった。

そういえばこの日、鶴岡市で「クラゲドリーム債」を売り出したことをうっかりしていた。私が年のせいでぼけたのではない、朝から続く来客にまぎれて忘れていたのだ。その後市の担当から電話が有って知らされたが、たった20分で売り切れたとか。

電話対応に追われる館長

電話対応に追われる館長

 

20分でと言うのは市の公式発表で、本当は15分もかからずに売り切れたらしい。荘内銀行東京支店の窓口に取材に行った東京のテレビ局が教えてくれた。「お陰で取材が出来ないでしまった。とにかくすごい事になったものだ」とびっくりしていた。

ネットのヤフーニュースでも19日、20日とトップを飾っていた。この宣伝力は大きいものが有る。日本中の誰もがネットを開けばまず目に飛び込んでくるのがこのちっぽけな水族館の話題なのだから、お金に換算したら一体いくらになるのか。大きなプレゼントを戴いたことになる。

 

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

・ヤフーニュースより 産経新聞の記事

 

微かな記憶をたどると、この話が持ち上がったのはほぼ1年も前の今頃ではなかったろうか。どこからともなく誰の発想ともしれず「市債を発行して新水族館の建設資金に充てるらしい」と伝わってきた。

この話を聞いた時には特別の感情は湧かなかった、建設費用については「合併特例債」を当てると聞いていたから、現場の水族館職員にとっては別次元の話だった。

その後次第に具体的になってきて議会に提案されて本決まりになり、記者発表を市長と並んで行うにつれて、これは思い違いをしていたことに気が付いた。「こう言った形の市債」は山形県内でどこの自治体も経験したことが無く、全国的に見ても随分珍しい企画らしい。

そうなると売れるか残るかはすべてが現場のこれまでの仕事ぶりが問われることになる。若し売れ残れば46年も館長であった私の経営が悪かったからで、まさに腹切りものである。早々と売れてくれれば逆に現場の仕事ぶりが高い評価を受けることになる。

思い出しては気になっていたが、こんなに早く売れ切れるとは館長である私さえ予想の外だった。20分で売り切れたと知らせてくれた財政の担当の声も上ずっていた。どなたの発想かしれないが、15分で売り切れたこの話題は日本中多くの人の関心をクラゲの水族館に集めるに十分だった。

また市民に明るさと活気を与えてくれたし、新水族館を盛り上げる手段として「市債を発行すると言う手段」は、アイデア館長を自認している私も考えが及ばない素晴らしいものだった。

多くの知人に何とか特別に100万円分を分けてくれと頼まれたが、館長である私にさえも特別の枠は無かったし、買った方の何倍何十倍の方があぶれたわけである。

今しばらくは並んだが買えないでしまったとか、地元に配慮して枠を増やせとか話題は続くと思う。これも嬉しい悲鳴の一つだろう。

その最中の昨日の午後、「みのもんたさんの番組スタッフ」と名乗る電話が有って、「市債が15分で売り切れたニュースを見た。取材に応じてくれるか?」と聞かれた。こんな有り難い申しではない、いかようにも応じますからぜひお出でください、とお願いした。

「検討してあした電話します」と言って居たが、お昼の12時になってもまだ連絡が無い。もしかしてあの電話は昨日見た夢だったのではないか・・・いやまさか。

 

 

命がけのウサギ撃ち その2

独立学園は山奥の狭い谷間に建っていたものだから、遠くまで見通せていい眺めなのはサルッパナと呼んだ山の方角だけだった。

右も左も皆山に囲まれて人家も見えず、人の手が入ったことのない原生林が山並になって綺麗だったが、本当に狭い所にへばりつくようにして学園村は存在していた。

朝に夕に眺めたあのサルッパナの後ろ側はどんな山なのか、学園生だけではなく地元のひとさえ知っているのは、わずかしか居ないのではないかと思う。

私は真冬の厳寒期に三度、尾根を越し、陰のブナの原生林で兎追いをした事がある。今回はその時の事を書いてみようと思う。

 

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

雪の積もる原生林。ここ歩くのは本当に骨が折れる。

サルッパナの向こうの原生林を、親父さんは「ナベコ」と呼んでいた。行ってみると分かるのだが、広い原生林で、果てしなく続き一歩踏み込むとどこも同じに見えて、方角さえ判らなくなる程の見事なブナ林だった。

親父さんはその大きさを、「ナベコ一千町歩」と表現していた。紙切れの手紙が届いて誘われて、初めて行ったのは二年生の時の事だと思う。

行く度に疲れ果てて、死ぬ思いをして帰って来るのでもう絶対に山には行きたくないと思うのだが、一週間も過ぎると又山に行きたくなるから不思議だ。

行くと決めた丁度その日は、「満月の月回り」で夜になればバンドリ撃ちができる条件だった。親父さんは「ナベコにはだれもバンドリ撃ちに入っていない。ものすごい数のバンドリが居る。せっかく行くのだから夜まで粘ってバンドリも撃とう」と言った。

何が幸いするか分からないもので、バンドリ撃ちが出来る月回りが、全員の命を助けたと言えると思う。なぜ助かったのかこの辺は後で述べるので次第に分かってくると思う。

参加したのは私の他に地元の三年生一人と寮生が二人居た。鉄砲は親父さんのが一丁と、近所の人から借りた「24番の村田銃」が一丁で、三人が追い役をする段取りだった。

 

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

木に登って同級生や先生と記念撮影。木の上、左から2人目が私である。

朝の5時ごろだったろうか真暗いうちに起き出し囲炉裏の側に来ると、いち早く親父さんの奥さんが起きて働いていて、子供の頭程もある大きな握り飯をこしらえてくれた。

私と二人の学園生は、親父さんの家に泊まっていたので、奥さんは四人分のおにぎりを作ってくれた。皆張り切っていて、親父さんもナベコに行くという事で、いつもとは全然違い特別力が入っていた。

「明日は夜まで山に居て、暗くなったらバンドリ撃ちをするぞ!!」と、前の日から全員に号令を掛けていた。従って、お握りは二食分を持参することになった。

風呂敷に握り飯を二つ包み、腰に巻いてしばり付け暗い中を出発した。小倉林道の入口を過ぎ、「アカハゲ」と呼んだ次の沢の辺りから右の崖の上に上がって進む。雪崩で川沿いの車道は歩けないからだ。

サルッパナの頂上から尾根を半分ぐらい下がった辺りの中腹に、「クルミ平」と呼ばれる一寸広い台地が見える。その下に取り付いて登ってゆく、台地を越して尾根に近づいたあたりからブナの大木が繁り原生林となっていた。

 

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

中央やや左寄りがサルッパナの頂上。「クルミ平」は右寄りの中腹辺り。

そのまま真っ直ぐ尾根に登って裏側に越してゆく。ブナの林に入ると太い木の下は雪の上に、ムササビが食い散らかした10cm程の小枝が無数に散乱していて、誰も行かない山奥にはムササビが多いことが良く分かった。矢張り親父さんの言うとおりだった。

サルッパナというのは遠目に見たように、尾根は右にゆるく下がりながら向こうとこちらに馬の背状に急な勾配になっていた。

そして、裏側には尾根に平行して沢が一本流れていた。雪は沢を埋めていたが、所々で口を開けていて黒い岩肌が出ていて、切り立った両岸がいかにも危なそうに見えていた。

かなり大きな滝も有り、以前親父さんの近所の人が落ちて亡くなった事があると、滝を見下ろしながらその時のことをリアルに語ってくれた。「滝に落ちた人を引き上げて、あそこの木の根元に座らせて、助けを呼びに戻ったんだ。」「しかし間に会わず戻った時には亡くなっていた・・・」と、今でも雪に口を開けた滝が、妙に気味悪く目に残っている。

親父さんが段取りし、撃ち手が先回りし沢沿いの斜面を追い始めた。声を出して追っていると今逃げたばかりの兎の足跡があちらこちらにあり、山奥には随分兎が多く、感心させられた。

しかしさっぱり鉄砲の音がしない。どうも撃ち手と撃ち手の間を抜けられている様だった。苦労して追った結果は一匹のみだった。

親父さんが「ここに来る」と思った所には来ないで、撃ち手から見えない所を兎は抜けていた。前にも書いたが弱い兎はバカな生き物ではない、何かを察知して安全なところを走り抜けたのだ。

慣れた打ち手がもう二人も居たらこんな事にはならなかっただろう。同じ所を4~5匹も抜けたと、皆残念がった覚えがある。

鉄砲撃ちも大概こんなもので、生き物を相手にしているので、一ヶ所で大猟したという事はそうめったに無いものだった。

次の巻きに移動中、先を歩いていた親父さんが「ワスだ、ワスだ!!」と言っているので、「鳥のワシ」を訛って呼んだのかと思って見回したが何も飛んでいない。

さて何だろうと思ってよく見ると、少し向こうの急斜面が雪煙を立てて音もなく流れて木々を押し倒して、更にはるか下の方に流れて行った。

山の尾根には風で張り出した雪庇が出来る。高さ2mも3mもあって何かの拍子に崩れると、斜面のやわらかな雪を押し流すきっかけになる。

「表層ナダレ」を初めて見た。雪が水の様に滑らかに早く流れ下っていった。「ワス」は表層ナダレの事だった。音もしないしスピードも力もある。あれに襲われたら逃げられないと思った物だ。

それと怖いと思ったのは雪のスキ間で、急斜面に積もった4~5メートルの雪が、大きなナイフで切った様に50~60センチ、口を開けている。

降った雪が開いた口を覆うので落ちる迄気付かない。落ちてしまうと狭く身動きもままならず、手掛かりもなくなかなか上手に上がる事が出来なかった。

親父さんに「雪の割れ目に落ちて死んだ人も居る」と言われ、本当に怖かったものだ。

気を付けて歩いたが、2~3度落ちてしまった。広い原生林に追い手が間隔を開けて散ると遠くに声がかすかに聞こえるだけで、助けを呼ぶ声は届かない。カンジキをはいた足でやたらと雪を蹴って必死になってはい上がったものだ。

何回か追ったが兎は思いほか捕れなかった。その日は4匹で終わった様に思う。朝の意気込みはもう10匹も多く捕れて当然なほどだったが、親父さんの外は皆あの地を知らず、素人ばかりでは仕方無いかもしれない。

新雪をラッセルしながらウサギを追うのは疲れるし何よりも腹が減る。お昼に食べるはずのお握りは、十時頃に早々と食べてしまった。

昼前から猛吹雪になって、寒さで引き金を引けない程になっていた。そして腹が減って昼過ぎに二つ目のお握りを食べてしまった。

何時頃だったか定かでないが3時ごろだったろうか、皆疲れていたのでバンドリ撃ちはやめて帰る事になった。その頃はまだサルッパナの向こうの沢の近くだった。

こちら側と同じ様な長い急斜面を尾根まで登らなければ帰る事が出来ない。親父さんの指図に従って、ひどい吹雪の中を登り始めた。

足を大きく上げて目の前の雪を踏むと、ズブーと抜かりわずかしか登ることが出来ない。替わるがわる先頭になって登ったが、とっくに越せるはずの尾根にはなかなか出なかった。

私は完全にグロッキーになって先に立ってラッセルする力は失せていた。寒さと疲れ、それに何より空腹だった。このままここに座り込んで眠ったら、どんなに楽で気持ち良いだろうなと思った。

こんなに苦労するくらいなら、背負っている鉄砲で自殺した方がましだとも思った。そんな中で何とか頑張っていたのは、地元の生徒と親父さんだった。

夕方になり始め、薄暗さと、吹雪で見通しが悪く、どの辺に居るのかさっぱり分からない。

そのうち先頭にいた親父さんが「行く所がないぞ!」と言っている声が聞こえてきた。驚いたことにそこはサルッパナの頂上だった。周りは全て下りでもう登る所がない。

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

58年の月日を経ても、サルッパナは変わらぬ姿を見せてくれた。(2013年3月撮影)

 

頂上には国土地理院が測量のために建てた、木の枝を組み合わせた高さ3~4mの三角点が有った。下の方に「河原角(かわらつの)の集落」の灯りが見えていた「アー助かった」と思った。

吹雪で地形が分からず慣れた親父さんもコースを間違えたのだった。頂上からは下るだけなので、急に元気が出て薄暗くなり始めた山を下った。

あれから50年以上も過ぎた2~3年前、親父さんの家を訪ねたときにあの時の話になり話が弾んだが、ふと漏らしたのは「生きて帰れないかと思った」と言う言葉だった。

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

57年振りに再会した「親父さん」。当時の思い出をいつまでも語り合った。(2011年10月撮影)

 

吹雪と疲れの中で腹のすいた事はたとえようも無い。前を歩く背中の兎を見ては手を伸ばしてむしりとり、生で食べようと思った程なのでお分かり頂けるだろう。

下る途中ずっと河原角の人家の灯が見えた。人の灯りの有難さが身に浸みるようだった。その灯を目指して下り、やっと道に出た時の安心感はまるで「極楽浄土」に辿りついたかの様だった。

河原角の集落で川向こうに渡り、冬の間だけ人が通る山道を歩いて帰って来た。河原角で軒下にぶら下がった「固餅」を無断で頂いて食べようとも思ったが、やっとの思いで留まった。

わずかなデコボコに足を取られ、転び転びしながら、やっと親父さんの家に辿り着いたのは夜の9時頃だったと思う。

もしもバンドリを撃つつもりで二食分のお握りを持ってゆかなかったらどうなっていたか。恐らく空腹でみんなが動けず山を越すことは出来なかっただろう。

しかし、行く度に無事に帰った覚えはない。大体こんな思いをしていた。

 

命がけのウサギ撃ち

冬になり、雪が積もると、土曜日に親父さんから便りが届く。新股の集落から通っている生徒が紙切れに1行か2行、簡単に書かれたメッセージを持って来るのである。

それにはただ、「明日兎とりに行くからこい」とか、「今晩から泊まれ」とか書かれてある。

日曜日に山に入るとなると、土曜の夜から親父さんの家に泊まって翌朝早くから兎撃ちに行く事になる。

まだ、暗いうちに起き、奥さんのつくってくれる大きな握り飯を風呂敷に包み腰にしばりつける。あのころは長靴に代わるムレなくて履きやすい靴などなく、ゴムの長ぐつの上を縄で2回くらい巻いてしばり雪が入らないようにし、カンジキをはくだけだった。

いつの間にか長靴に融けた雪が浸みこんで必ず中はぐちゃぐちゃし、足はふやけて白くなっていた。

出始めたばかりの防水の効かないアノラックが有ればいい方で、だいたいは雨合羽を上に着て身じたくは終わる。

おやじさんは長ぐつではなく木綿のタビに、稲ワラで作った「ジンベ」という、スリッパ状のものをはいていた。

ズボンを足首の所でしばっていたが、後ろを行く私の眼には歩く度にカカトの所が丸見えとなり、いかにも寒そうだった。しかしあとで私も同じスタイルで山に入った事があるがタビの上にワラの「ジンベ」はむしろ、ゴム長よりずっと暖かく軽くしかも濡れた感じがしなく、快適なものであった。

兎うちは私と親父さんの他に、同じ集落の友達を誘って1人か2人位同行するのが普通であった。

山に入る日は天気の良い日だった記憶は殆どなく、吹雪の事が多かったし、時々ゴウゴウという風鳴りの音と大木が大揺れに揺れ狂う中を行く事もあった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

雪深い山に入るのは大変だが、それにもましてウサギ撃ちが楽しみだった。

 

それでも、皆兎撃ちというと楽しみで、出発するときには、声がはずみ興奮気味であった。

今アスファルトの小倉林道が親父さんの集落から小国町に通じているが、あの頃は細々とした山道が曲がりくねって途切れ途切れに続いているだけで、雪がなくとも小倉迄行く人は殆どいなかった。

その林道の入り口の沢伝いに山に入って行くのである。沢伝いに入って間もなく、植林して20年程のそれ程まだ育っていない広い杉林に出る。ここは昔熊が出た事があるとかで、「熊林(くまばやし)」と呼んでいた。

兎の「巻狩り」はまず、最初はこの林で行うのである。

杉は枝が大きく横に張り出して繁って、枝の上の雪が地面に積もった雪に垂れてつながり、すこぶる見通しが悪かった。兎は外敵から身を守る為に、そんな場所で日中を寝て過ごすのである。

杉林の手前で親父さんが皆を集め、雪の上に枝で熊林の図を描きそれぞれの配置を割り振りをする。

そして、撃ち手が林の向こう側に先回りする。

撃ち手が持ち場についた合図は空の「薬きょう」を強く吹くピーッと言う音であった。

現在、ハンターが使用している薬きょうは紙で作られた使い捨てのだが、当時は真鍮製で、同じものを何回も繰り返し使ったものだった。

明日、猟に出るという前の晩に、囲炉裏を囲んで、空の「薬きょう」にまず新しい雷管を付け、火薬を目盛りのついたシャク状のもので、測って入れ、ボール紙を丸く打ち抜いた仕切りを入れ、次に、鉛の小さいタマを測って入れ、又、ボール紙の仕切りを入れ、さらに、雪が入っても火薬が濡れない様に、ロウソクを溶かして目張りをして出来上がりであった。

この一連の作業もいつものことなのでお互いがする手順が分かっていて、明日の猟の期待と気持ちの高ぶりとが交じる過去の自慢話を賑やかにしながら、私がタマ作りをしたり、親父さんが猟の支度したりしながら20発程を作るのである。

弾帯の一番端に空の薬きょうが一本さしてあり、それが合図の笛となる。兎や野生のケモノは人の声や物音には敏感だが、笛の音には警戒心が無く何の反応も示さない様であった。

耳を澄ませて待っていると、吹雪の日であっても、少々遠くからでもピーという音は聞こえてきた。その音で追い手の者が声を挙げて追い始める。

「ホーイ」とか、「ホラ、ホラ、ホラ!」とか「ホーホー」とか、大体、そんな声であった。

カンジキをはいていても、太モモ迄雪にぬかり歩くのは骨が折れる。一人でも歩いた後なら、大変楽なのだが、新雪のラッセルはこたえる。

数十メートル歩いては立ち止まり、又、声を出して追う。林の3分の1か半分位入った所で、運が良ければ鉄砲の音が聞こえるが、しかし熊林といえど必ず兎が入っている訳ではなく、入っているのは三度に一度位であった。

林の間から親父さんの姿が見えれば、もう兎は飛び出す事はない、そこの「巻き狩り」は終わりとなる。

一年生の頃は、私が鉄砲を持つ撃ち手(ブッパと呼んだ)になる事は殆ど無かったが、二年生になると、撃つのも少し上手になっていたので時々撃つ方に回る事があった。

この熊林で一度だけ、私の前に兎が飛び出した事がある。親父さんの指示通りの所に待っていればよかったのだが、間違えて少し離れた所に立っていたものだから、追われた兎は私の方に向って走ってきたのではなく、前を横切るように数十メートル先を左に走り、雑木林の急斜面を駆け上ったのである。

ぬかる雪の中を走って追い、急斜面を見上げた時、兎は登り切って見えなくなる寸前であった。

よく狙って撃ったが、兎はそのまま登って見えなくなってしまった。

逃がした、残念!!と思っていると、その兎が斜面を転がり落ちてきた。野性の獣は良くそんなことが有る。心臓が止まるまで走り続けるのである。

逃がしたと思った兎が捕れたので、嬉しくなり、兎を手に持って声を出して人を呼んだ。すると思いがけなくさらに追われた兎が一匹飛び出して来たが、私の声に驚きあわてて又杉林に戻って行ってしまった。

それで、親父さんに褒められると思ったら、「逃げたもう一匹の方が残念だ」と私の失態をしかられた。

兎は臆病な生き物だが、ただ追われて一目散に奥え走るのではない。この辺は猟を知らない人は間違える所だが、少し逃げては立ち止まって耳を澄まし周りの様子をうかがう。少し逃げてはまた耳を澄ましてどの方角が安全か探っている。

逃げる事しか身を守るすべのない兎にとって、どの方角に逃げるかを判断するのは命に係わる一大事である。高等なアンテナと判断力で見事に勢子と勢子の間をすり抜けるのである。弱いことは確かだが決してバカな生き物ではない。

私が親父さんの家に泊まる事も、学園の日曜日に礼拝にも出ず鉄砲撃ちする事も、学園の先生には何の連絡もしなかったし、それが特に問題になる事もなかった。

あの頃の学園に規則らしいものは、いくら思い出そうとしても出て来ない。全てが自由だった。

猟から帰ると、捕れた兎が皮をはがれてナタでぶつ切りにされて大鍋で煮られる。肉は大ざっぱにしか取らない。骨付き肉はあとで「骨かじり」と称して、歯で肉をむしりとって食べるので、わざと残しておくのである。

それに必ず入れるのは、大豆を一粒、一粒「金槌」でつぶしたものと、大根、人参、ゴボウである。

味噌で味を付けるだけの兎汁は、何にも替えがたいうまさであった、山から帰った疲れでぼんやり囲炉裏側に座っていると、奥さんが自在鉤に掛けた「鍋」でご飯を炊き、お汁を作り、私の前で次から次に夕飯をこしらえた。

しかし鍋でたくご飯は、ここでしか見たことが無くいつも奇妙な感じをさせられるものだった。

私は親父さんの家に行くのが楽しみで、呼ばれなくとも良く行ったし、奥さんやおばあさんの温かい人柄に甘えた。

 

 

提灯行列の思い出

独立学園は、今は「才の神橋」から入ったずーと奥の方に建っているのだが、あの頃の校舎は横川に架かる橋のたもとに建てられていて、大雨で増水すると、濁流が校舎の土台石を洗うこともある程、河の側に建っていた。

才の神橋

才の神橋

 

昔そこに学園が建っていたことを御存知の方々もいると思うが、とても学校とは思えないほど粗末な校舎だった。

そこで私は三年間を過ごした。だから、私の胸の中にある独立学園の思い出は、全て古い校舎の時のものである。

国鉄の伊佐領駅から8kmの道は歩く他に交通手段は無く、道は下叶水を通って独立学園までは一本道、ここで道が二つに分かれて橋を渡って奥の方に行けば、上叶水、大石沢に行くことが出来る。橋を渡らずに山添いに奥に行けば新股、川原角、滝と言う集落が有ってそして飯豊山の登山口とつながっている。丁度2本の道の合わさる所に学園が建っていた訳である。

下叶水の集落

下叶水の集落

 

あの校舎は、元鈴木校長御夫妻の自宅として建てられたもので、学校として使うにはかなりの無理があったのだが、それは又それで、独立学園の目指す教育をする場としては、本当に神により与えられた、これ以上を望むことが出来ないくらいの舞台となっていた。

その粗末な校舎の二階に、三年生の教室として使われていた学園で最も大きな教室があった。

四十人近い全校生徒と、十名程の教職員が集まる事が出来るので、朝礼とか一年生から三年生までの合同の授業の時間や、寮生が就寝前九時に夕拝をする時など、人が多く集まる時には、その教室が使われていた。

三方向が窓になっていたので、その教室からは、外の景色が本当に良く見えたのであった。

校舎の下を流れる横川の中を泳ぐハヤが、一匹一匹良く見えて、すぐにでも裸になって河に潜って捕りに行きたくなるものだった。遠くに見えるサルッパナとかシゲ松の山は、季節によって色が変わり、いつも美しく見えていた。校舎が道よりかなり低い所に建っていたので、二階の教室と道路の高さがほぼ同じ位で、橋を渡って学園の前を通る人の姿が、手が届くほどの近さで実に良く見えていた。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

 

いつも伊佐領から、塩ホッケとか、練り製品とか、調味料とか、その他いろいろなものを背中に背負って売りにくる行商の叔父さんとか、ブナ材を積んだトラックがゆっくり通って行った。上叶水の顔見知りの人だったりもした。ある時は熊を撃ったが逆襲され、返り討ちに合った人が全身包帯巻きでリヤカーに乗せられて行ったときもあった。

冬になると、雪の中を川原角の方から俵詰めにされた木炭を背負い出す集団が通る。男性四~五人に女性が同じ位混じって、皆が二俵づつ背負っていたが、中には一人だけ大柄な男の人が三俵背負っている姿も見えた。何かお互いに声高に笑いながら楽しげに話し合い、いつも決まった時間に通っていった。

いつだったか、伊佐領に出る道が崖崩れで、トラックが何日も止まった時、7kmほど奥の「滝の集落」から鉄道に使う大量の枕木を川に流して運び出していたこともあった。水量はそれほど多くはなかったので枕木はあっちの石、こっちの岩かげにと引っ掛かり、止まったり、道草を食いながら流れてゆく。それを何人もの男達が川の中を石から石へと跳び移りながら、「トビロ」で押したり引いたりしながら流して行った。

私は勉強が苦手だったので、授業中、良くそんな光景を眺めていたものだった。雪のない季節ならトラックが走る道路も、冬になると雪が三メートルも積もるので、雪の道は人一人が通れるだけの細い巾しかない。誰かとすれ違う時は、どっちかが道の脇によけて、もう一方が通り過ぎるのを待っていた。

学園で初めて迎えた冬のことだ。雪が深く積もっていたが、あの日も一日中降り続いていた。

雪に埋まった学園の正面玄関

雪に埋まった学園の正面玄関

 

夕食が終わってしばらくしてからのことだった。二階の教室に居る時、上叶水の方から橋を渡って近づいてくる提灯を持った10人ほどの集団が見えた。

その一団が学園の前に来た時、先生だったか、あるいは上級生だったか、良く覚えていないが、誰かが出て行って、提灯行列の人達と何か話していた。やがて学園の中が急に殺気立ち、あわただしくなってきた。寮生が思い思いに、防寒着に着替え始め、外出の準備をし始めたのだ。

一年生の私には何が始まったのか分からなかったので聞いてみると、外の提灯行列は急病人を伊佐領駅まで「ソリ」に乗せて運び、汽車に乗せ小国町の病院へと連れていく為のものだった。

雪の深い冬に、病人を川添いに八キロメートルもソリに乗せて運ぶのは実に大変なことだ。ソリの巾に踏み固める人数がないと進めない。そして五~六人のソリを引く人と、押す人又、それらを時々交替する要員と、人手はあればある程良い。多い程早く伊佐領に行き着けることになる。

私は初めてだったので、その日がどんなにつらい重労働になるのか良く分からず、人助けに出るのだという一種の使命感というのか、寮生が多く参加するという安心感もあって、お祭りが始まるような興奮した気持ちになっていた。

三列になって並んで、十人くらいがカンジキで雪を踏み固めて道を作ってゆく。その後ろをソリが引かれてゆく。

下叶水から下って田圃が終わったあたりからが難所である。川の右側の斜面が切り立っていて、わずかに歩く所だけが平らになっている。川の巾も狭くなって急斜面が山の方から川迄続いている。ここはナダレの名所だった。雪は固くなり踏みつけるだけでは道が出来なかった。シャベルで掘って道を作っていった。

今となっては、あの難所の一帯はダムの下に沈み見ることがかなわないが、ダムをまたぐ新しい橋が出来ているので車を止めて見下ろすことが有り、眼下に広がる山並みとダムの水面に遠い昔が甦ってくる。危なかった道が水面下に続いていたのは記憶の中にしか甦ることが無くなってしまった。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

 

あの頃は、3km下流の市野々の集落近く迄急斜面が続いて苦労したものだった。

学園を出て初めのうちは皆元気が良く足を高くあげ、勢い良く雪を踏んでいたが市野々に着く頃は声を出す者は一人も居なくなってしまった。

村の大人の人達も、学園生も疲れてしまったのだった。それともうひとつ空腹だった。雪の中を何時間も歩くことを深く考える人が居なかったのだろう。又、そんな余裕もなく飛び出してきたので、食べ物を持ってくるのを忘れたのだ。大人達も、誰も食料を持っていなかった。市野々を過ぎると、又、大曲の所迄、川添いの急斜面を行く難所だ。更に5km先の伊佐領めざして物言わぬ提灯の集団が進んでいった。

そんな時に学園生の中の誰かが歌い始めた。すると不思議なことに、何と不思議なことに体に力が入り元気が出るのだった。

歌というものは本当に不思議だ。聞いているだけで、別に何か食べた訳でもなく、何の変化もないのに元気が出るのだ。

歌い終わると誰かが歌い継いでいった。

歌声が続いている間はあまり空腹も感じなかった。

歌が途切れると、村の大人から「歌ってくれ」と声が掛かった。大人達は何も言わずに聞いていたが、皆同じように疲れていて、歌声を聞いて元気を出したかったのだと思う。そうして学園生が賛美歌を歌いつないで、伊佐領の駅に着いた。

雪の伊佐領駅

雪の伊佐領駅

 

夜の十時は過ぎていたと思う。駅のストーブにあたって暖かくなり、そしてみんなで駅前の食堂が作ってくれたラーメンを御馳走になった。

伊佐領までの重労働のお礼がいっぱいのラーメンだった。しかし誰もそれ以上のものを求める人も居なく、不平を言う者も居ない。ごく当たり前の様に戻り始めた。

帰り道も又疲れて、疲れて、早く学園に着いて眠りたい、それだけが頭の中を占領していた。

頭も体もボーと思考力を失い、夢遊病者のように歩いていた。帰りは道が広々と出来ていて、歩き易かったのが救いで、力強くは歌えなかったが、誰かが歌い終わると次の人が歌い、いつの間にか順番が出来て、次から次へと歌がつながっていった。

私も歌ったが、何の曲だったかは思い出すことが出来ない。

こうして一年の間に三回位は、提灯行列に加わって伊佐領駅迄行って、病人を汽車に乗せて小国へと送り出していた。

いつも、ふいに提灯行列がどっちかの道から現れて学園の前に来ると、思い思いに仕度をして、参加したものだった。

学園生も全員が参加するのではなく、行かない人もあれば、毎回必ず行く人もあり、それは全く自由だった。

村の人から頼まれた記憶はない。何時の間にか出来上がった学園の伝統だったのだと思う。

スキーで足を折った学園生を運んだ事もある。

先生方は、私達が参加することを別に止める事もなく、自由にさせてくれた。

今思うと、他人の為に何かをする時、代償を求めずに一生懸命頑張るという、学園の教育だった様にも思うのであった。

 

 

50年前は大人が50円だった

ついこの間沖縄の「美ら海水族館」に行ってきた。こちらを出たのは2月の25日だったが、気温はマイナスでものすごい吹雪と冷え込みの中だった。

3時間の飛行の末に沖縄に降り立ってみたら、夏のような強い日差しが照っていて気温は23度、暖かいを越して厚着した体は燃えるような暑さに参ってしまった。

気温の差を覚悟はしていたがこれほど大きいとは、やはり経験して見ないと到底分からない。

翌日は予定通りに美ら海水族館に行った。職員に温かく迎えられて楽屋裏から案内された。これは同じ水族館屋同士としては表よりも裏が気になるもので、其れを配慮しての案内であった。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

 

いきなり覗いた巨大なプールでジンベエザメに出会う事になったが、実は行くまでに想像していたのはもう少し規模も、感動も小さいものと思っていた。

7500トンの水槽を、新加茂水族館の径5mたった30トンのクラゲ水槽で負かしてやりたいものだと思っていた。しかし実物を見て唯々あきれて立ち尽くす他無かった。さすがに美ら海水族館のジンベエザメ水槽はすごかった。

 

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

 

あれを負かすことは到底できっこないと悟った。が、しかしこっちは同じ土俵で比べてはいけない異質な水族館ではないか。別の角度から見たら違う評価が出来るのではないか。

向こうは国策で作った巨大な施設だ。こっちは地方の小さな市が背一杯の努力でやろうとしている小さな施設だ。しかしこれまでにない全く新しいスタイルを持った水族館をこの世に誕生させようとしているのだ。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

 

この辺の心意気はまあ評価されても良いのではないかと思う。美ら海水族館の内田前館長は古い友達でもあるし気のいい魅力ある男である。向こうは誰しも認めるトップを走る超一流どころ。こっちは1周遅れのビリランナーだがゴールするときは一緒だ。どうだ参ったかわはははははー。

沖縄から帰って5日ぶりに出勤してみた。外では急ピッチで新水族館建設工事が進んでいる。まだコンクリートは打っていない。基礎の鉄筋が林立してちょっとした竹林のような眺めになっている。これが年末には水族館として殆ど出来上がっているのだから、早いものである。

現在の新水族館建設現場の様子

現在の新水族館建設現場の様子

 

そしてこの4月18日が、昭和39年にオープンしてから数えて「50回目の開館記念日」に当たる。1年後の50周年は閉館中だし兎に角今年は50年だから、大きな節目に当たるので何か面白いイベントでもやろうと思いついた。

9名いる飼育担当に「何か考えろ」と丸投げしたら結構面白いアイデアが出てきた。こんな時には固いものはまずやめた方が良い、聞いた時に思わずクスリと笑えるようならそれは誠に「賞賛に値する良いアイデア」だ。

いろいろ出された中で私が笑えたのは「開館当時の入館料金で入館させたら?」というしろものだった。

記憶の薄れた頭で考えているうちに、開館した当時大人の入館料金が50円だったことを思い出した。中華そば1パイが50円だったからこの小さな水族館の評価はその辺が相場だったことになる。

50年近い月日が流れたのに思い出せたのは、それだけ印象に残る思い出が有ったからだ。今は無いがあのころ入るとすぐ左の壁に沿って、ちょっとしたコンクリートの池が有った。

床から70cm程縁が立ち上がっていたから、見る人は少し前かがみになって覗くような姿勢になる。この覗く姿勢が思い出させてくれたきっかけだった。

この水槽は底面ろ過になっていて底砂の上に錦鯉や90cm程もある雷魚が泳いでいた。これを見るために覗き込むと何が起こるか・・・ポケットから小銭が滑り落ちるのである。そして底砂の中に消えてしまう。

この水槽の掃除の度に砂の中から出てくる10円玉が楽しみであった。50円拾えば中華そばが食えたし、30円なら半中華が食えた。

これを思い出したので当時の入館料金が分かったと言う次第である。ちなみに学齢以下の子供は今は150円だが当時は無料であった。

4月18日を記念して、49年前の入館料金で入って頂こう・・・という計画が進んでいる。

 

不思議な高校生活を書き始めた訳

58年前の「不思議な高校生活」の事を書くきっかけは思いがけない所からだった。業界紙を出していた友人の田井さんから依頼されて「どうぶつえんとすいぞくかん」の古賀賞特集に原稿を書いたことだった。

高根の花だった古賀賞を戴いたのは本当だから、賞にまつわる思いを書いた後半に、破天荒な高校時代の生活が業界で最高の賞につながったのではないかと続けたら、のぞいた人から面白いと言う声が結構多く寄せられた。

それではもう少し思い出してみるかと、今度は「館長人情ばなし」に高校生がやっちゃいけない鉄砲うちの話を書いたらそれがまた多くの興味をひいたらしい。「館長面白い」と言われしばらく続けてみる気になった。

そんな訳で、そもそもの始まりをこの辺で紹介するべきと思い「どうぶつえんとすいぞくかん」から話を持ってきたので見て頂きたい。年を取ると誰しも昔の思い出話をしたくなるものだ。私の思い出が尽きるまでもうしばしお付き合いいただきたい。

 

古賀賞は破れかぶれの末だった

古賀賞は業界で最高の賞だが、受けるものの喜びにそれぞれ違いが有ると思います。通ってきた過程、すなわち敵の弾の下をどれだけくぐって来たかの差が、そのまま喜びの差になるのではと思います。

加茂には何もなくしかも小さく古い施設でした。協会の中で最も賞に遠い存在だったと言えます。オキクラゲの繁殖で申請はしてみたものの自信は持つことが出来ないでいました。

2月末に小宮会長から内示の電話があり、「今年の古賀賞は貴方の所に決まりました」と聞いた時、勝手に体が震えて止まりませんでした。考えるよりも先に体が反応していました。

どんな選考の話が有ったのか分かりませんが、見捨てられたような存在だった加茂を選んでくれた小宮さんはじめ、選考委員の皆様にはいつも感謝しています。

受賞後時間が経過して漏れ伝わってきた話では、選考会で希少な生物の繁殖に寄与したこととは別に、ここで取り組んだ「クラゲを食べること」と経営を組み合わせて、何とかどん底から立て直しに成功したことが大きな話題になったとか。

確かに宣伝のために秋口になると泳いでくる「クラゲを捕まえて食べる会」を開いたことが有りました。スナイロクラゲとエチゼンクラゲを使ってシャブシャブとか、姿作りクラゲ寒天とか、ナタデココ風クラゲココとか馬鹿馬鹿しい事を考えて実行しました。

これが大きな効果を生んで日本中に流れて、加茂のクラゲ展示も広く知られるようになりました。その後クラゲ入り饅頭と羊羹、エチゼンクラゲ定食、クラゲウインナーコーヒーなど次々に売り出しては大きな話題になりました。

クラゲ入り饅頭と羊羹はみのもんたさんが「めくり切り」してくれたり、別の番組ではテリー伊藤さんがクラゲアイスを食べながら旨いとか言ってくれたりで、これが何億もの宣伝効果を生み、お陰様で入館者がどんどん増加していったと言っても良いでしょう。日本中でエチゼンクラゲの出現に大騒ぎをしていたときに加茂では捕まえてきて食べていたのです。

誰も力を貸してくれなかったが知恵を出して入館者を増やし、増えた収入をクラゲの展示拡大にすべてつぎ込みました。そして地べたを這うようにして少しずつ評価を高めていきました。おかげで何とか必要な資金を全て自力でまかなって来れたことを誇りに思っています。

何で私ばかりがこんな馬鹿馬鹿しい事を平気でやれたのだろうと不思議な気がして考えたことが有りました。思い当たる節が無いこともなく、高校時代に不思議な学校生活をすることが出来たことを思い出しました。山形県の山奥に全校生徒が40人足らずの小さい高校が有り、雨がぼたぼた漏るぼろぼろの校舎でした。

入学式の日に校長は不思議な事を云いました。「勉強するな」と言ったのです。此れには前置きが有りました。「大学を受験するための」と。そして高校生に「酒を飲むな、たばこを吸うな、嘘をつくな」と約束をさせました。それ以外に制約らしいものは何もありませんでした。

しかし勉強をしなくていい事には変わりなく、勉強嫌いの私は3年間授業以外に1度も勉強しませんでした。実にのびのびと過ごすことが出来ました。生徒から県立並みの授業料しかとらなかったので、赤貧洗う如しの貧乏学校でした。「明日食べるものが無いどうする。」「その辺から山菜をとってこよう。」「かぼちゃの葉も食えるそうだ。」「サツマイモの葉も旨い」となんでも食べました。魚捕りは名人級の腕だったので、校舎の脇を流れている大きな川から魚をいっぱい捕まえてきて、皆のおかずにしました。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

 雪の季節になると3mを超す積雪が有って皆スキーをしたが、私は近くの農家のおやじさんから鉄砲と弾を借りてきて、日曜日になるとウサギやヤマドリ、タヌキやムササビなどを撃って捕まえ食べていました。いつも腹を空かしていたのです。

夏のある日、鉄砲を貸してくれる親父さんからダイナマイトをもらい、深い淵で爆発させて魚捕りをしたことも有りました。夢幻のようなあの3年間がこの小さなどうしようもない水族館に古賀賞をもたらしてくれたのかも知れません。

 

 

日本で一番の貧乏高校

昭和30年3月30日の日暮れ近くだった。地元の高校受験に失敗した私はある高校に入学を頼みにゆくことになって、その学校に案内してくれた山大の先生と母と私の3人が、米沢と新潟県の坂町を結ぶ米坂線の伊佐領という駅に降り立った。

駅の周辺は春の固い雪がまだ30cmも残っていた。この辺一帯は山形県一の豪雪地帯として知られている。3人はその雪の上を歩いて8km先にあるキリスト教独立学園に向って歩き始めた。

人一人が歩くだけの細い雪道は、片側は山でもう一方は2,105mの飯豊山から流れてくる大きな川が流れていた。雪融け水を集めて轟音と共にはるか下を流れていた。

どこまでも続く細い雪道

どこまでも続く細い雪道

 

途中で人とも出会わずただひたすら歩き、1時間半が過ぎてようやく人家が見えてきた。今はダムの底に沈んでしまった市野々という集落で、村役場が有ったほどだから村で一番戸数が多かったのだろう。

「ああーやっとたどり着いたかやれやれ」と思ったら、案内してくれた前野先生はまだ奥だと言った。駅に降り立ったのが4時ごろだったから人家にはもう明かりが灯もっていた。

更に40分ほども歩いて山の裾を回ったら暗い山路にまた灯りが見えてきた。川に架かる橋のたもとに寂しいと言うよりも暗い感じの建物が1つだけ建っていた。「ここです」と云われてみたが、私の想像するような高校の校舎は見えない。

杉の木の皮で葺いた屋根、古びた板で囲われた建物は酷いくたびれようで、どう見ても10年も20年も使われずに放置された納屋にしか見えなかった。

そのあたりは固い雪が増して1mもあり、雪よけに入口に作るトンネルをくぐって建物の中に入っていった。

左にヤギが飼われて居て異様な匂いがしている。そして右側には汲み取り式の便所が有った。両方とも恐ろしく臭い代物である。

ここが学校の正面玄関であった。「ものすごい所に来たものだ」と思ったが、何だか得体のしれないものが体の中で騒ぐのが感じられた。歩くたびに床板がガタビシと音を立てた。低い天井から裸電球が一つぶら下がってその下に木の丸いテーブルが有って、先生方が5人囲んで座っていた。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

先生方の使っていた丸テーブル。天井からは裸電球がぶらさがる。

 

先生方は私たちが来るのを待っていてくれたようだった。5人は山の奥に来たのとは反対に、ある種の近寄りがたい品に満ちた雰囲気を漂わせていた。それにしても中も外もどこを見まわしても貧乏と老朽のそのままだった。

度を越した貧乏さがたまらなく嬉しかった。直感でここは俺の来るところだと感じた。「体中が喜んでいた。」貧乏さも、がたびしも障子の破れも外の雪も皆嬉しかった。

ここでコーヒーが出され飲んでみたが、味が薄くコーヒーの様でもありまた違うようでもあった。何だろうと思ったら校長の奥様が「大豆を焼いて引いたコーヒーです。甘みはサッカリンを入れました」と説明された。

サッカリンと言えば、今は発がん物質に指定され口に入れることは出来ないが、当時は普通に売られて誰の手にも入った安価な甘み料だった。砂糖と違う初めての苦い甘みになじめず二口目は飲むことが出来なかった。

一緒に行った母はあまりのぼろぼろさに不安になって、しきりに「大丈夫か、大丈夫か?」と私に尋ねた。こんな所に一人息子を預けられないとでも思ったようだった。しかし私は「何でもねー、何でもねー」と答えた。

校長はもう定員になったが屋根裏に5人部屋が有る。無理すればもう一人分布団が敷かれるだろう。仕方がない入れてあげましょうと言ってくれた。

その夜母と布団を並べて寝たがえらく寒かった。朝起きてみたらガラス窓が破れていて雪が吹き込み。私の枕元に雪が3cmも積もっていた。

いくら昭和の30年とは言え、日本中を探しても、あれ程の老朽化した貧乏高校は他にない。私はここで世にも不思議な高校生活を3年間過ごした。

これまで語ってきた狸捕りやら、バンドリ撃ちやらはこの時の体験談である。

 

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