ここの歴史を何となく振り返ることがある。特に力が入っての思い出しではない。仕事の合間や一日を終えて眠りに着く布団の中だったり、イワナ釣りの手を休めた山奥の谷底だったりと、場面は様々だがゆったりとその場面が思い浮かび鮮明に目の前に展開し始める。これも自分が年を取った証といえる。
今日はついさっきその一つ大きな出来事を思い出した。
昭和53年の10月だった。会社の慰安旅行のかえり道だった。目的地の十和田湖から会社のマイクロバスに乗って酒を飲んだりカラオケを歌ったりし雑談に花を咲かせながら賑やかにかえってきた。
夕方の5時ごろになっていただろうか、酒田市内に入ってきたら途中で交通規制が行なわれていて、あっちへゆけこっちを回れとかなり遠回りに迂回させられた。
外から「火事が起きたから」と、云っている声も聞こえてきたが、煙も無いし火の手も見えない。あちこちと回されているうちに煙が漂ってきた。やはり火事は本当だった。
市内を抜けてやっと出羽大橋まで来て、土手で振り返ると市内からどっと火の手が上がるのが見えた。海からの風は強いというより激しかった。これではあの火は消えそうに無い。マイクロバスの中はお祭り騒ぎも吹っ飛び、皆緊張した顔で「延焼は免れないだろう」と話し合った。
黒松の林に沿って走る道も風が強かったが、湯の浜温泉から海岸に出たら走っているマイクロバスが時々止められるほどの強風が吹いてきた。
加茂を回って羽黒の我家についたのが7時ごろ。何とか無事に我家についてあーゆっくりしたとのんびりしている所に電話が来た。水族館の飼育係田中の声だった。「ものすごい高波が水族館を襲っている、とに角すぐ来てくれ。」
そげすごい波だが、すぐ行く・・・と駆けつけたが、水族館の僅か手前で高波が道路を襲っていて足止めされた。
今は水産高校から先も公園と駐車場で水族館まで繋がっているが、当時は角にある「亀茶屋」という釣りの餌屋サンより先は「潮溜まり」が道路まで入り込んでいた。
そこより先は道路に丸太や岩石が散乱していて車が行けない車を止めて様子をみていると、突如大浪がドカンと押し寄せ道を越して対岸の山すそまで達して渦巻いていた。
ここは通れない、危ないとは思ったが水族館は目の前だった。度胸を決めて波と波の合間に丸太と岩を避けて車を走らせ、やっと水族館にたどり着いた。
1階は全て水浸しになっていた。
今クラゲの展示をしているところが1階で、当時はピロテーで吹き抜けだった。クラゲを見に階段を下りて突き当たった所が当時の事務室の入り口で、左に曲がれば熱帯魚室だった。
階段下はそこいらじゅうに大小の岩や木切れ、ビニールなどが散乱している。飛んでもないことが起きていた。
事務室に入ると主だったものが集まっていた。「今し方から特に波が大きくなった。時々事務室にも入ってくる。」「帳簿類や大事なものは机に上げたがあとはどうしようもない。」
「飛んでもないことになったもんだ。なしてこげな大浪が来るようになったんだろ。」「まんずどうもなんねーのー、てのだしようがねーのー。」
事務室のガラスが波で破られていた。もっともっと大波が来るかもしれなかった。窓を守るために板を打ち付けることにした。
管理人の富塚さんが、外側から板を釘で打ち付けているところに「ガラガラドカーン」という大音響と共に海から上がった大浪がきた。
富塚さんが波に呑み込まれ、20mさきのペンギンプールまで流されて危うく溺れ死にそうになった。遊具のお化けのQ太郎も熱帯魚室に流されてきて出口から浮いて出て行った。
じきにアシカプールを囲っていた金網の柵が波の力で倒れてアシカが外に出た。辺り一体がプールと化した水溜りを泳いでいた。「何とかしねばねのー」とはいってみても200kgもある野生の動物相手ではどうにもならなかった。
田中と二人でペンギンプールの倒れた柵を直している所に叉ドカンと大波が来て、あっという間に反対側の柵に叩きつけられた。1mほどの深さのプールに沈むことなく流されたのだから、強い波だった。
どうにもならないままに時々2階のベランダから酒田の火事を見た、いつまでも空を赤く染めて燃えていた。「あっちも飛んでもない大火事だ」と話しながら朝を迎えた。
逃げたアシカは波が収まると自分でプールに入ってくれた。しかし後にこのアシカは胃袋の出口に小石を詰まらせて死亡した。石は今でも机の引き出しに入っているが、海から上がったつるっとした丸いものだった。
そのときに呑んだのか、さもなくばあの日打ち上げられたものを後に飲み込んだと思われた。あの大波がなければもう少し長生きさせてやれたであろう、かわいそうな事をした。
水族館の被害は甚大なものだった。まずアシカプールの脇にあった休憩室と倉庫が全壊、ペンギンとアシカ両方のプールの柵が半壊、事務室の窓とコンセントなど、猿ヶ島のコンクリート壁が全壊していた。
後に死亡したアシカを加えれば1千万円近い損害であった。
この被害は水族館だけではなく、隣接する今泉の漁村にも大きな被害を与えていた。一帯は前にも後にもこれほどの激しい被害を受けたことは無かったであろう。しかし全て酒田大火が大きすぎて陰に隠れて報道される事が無く、誰にも知られる事なく今日を迎えている。
あれほどの大きな波が押し寄せてきたのには原因があった。加茂港の南防波堤が延長されて、港に入っていた波が返し波となって外側を襲ったためであった。
その後テトラポットが入れられて、返し波が来なくなった。そして私の記憶も薄らいで酒田大火の高波も遠い出来事になった。
被害の翌日にいち早く駆けつけて、散乱した「壊れた防波堤のコンクリート塊」やおびただしいごみや砂に小石を人海戦術で片づけてくれ、すぐに開館できるまでにきれいにしてくれた「山形クラッチ」の田淵社長や職員の皆様には当時殆どお礼らしい事もしないでしまった。改めて御礼を申し上げたい。