月別: 7月 2012

上野の山は真っ暗だった

どうも年を取ったせいだろう、このごろ思い出すのはずいぶん昔の切なかった仕事の場面ばかりだ。いまさら思い出したとしても仕方のない事だが、今日は夜の東京、上野の山をさまよった夢か幻のようなシーンを語ってみたい。

あれは確か平成6年だった。あのころはまだ新幹線が東京駅まで乗り入れしていなく、上野駅が終点だった。八丁堀にあった東京の本社に、難しい問題を抱えて出張したのは10月の中ごろだったと思う。

3月から始めた「ラッコの展示」が思わしくなかったのである。ラッコは1頭1500万円もする高価な動物だが、貝を割るしぐさや顔の可愛さから国民的な人気が有り、展示した水族館はいずれも入館者が倍増していた。

遅ればせながらラッコの人気にあやかって、どん底を迎えていた経営を一気に挽回しようと考えたのである。ラッコの飼育には金がかかる。冷たい海に生息する生き物だから水槽を年中14度以下に下げなければならない。

意外に思われるかもしれないが寒い所に生息する割には体脂肪は少なく、いつも毛づくろいをしては厚い綿毛に空気を吹き込み断熱し、多く食べてそのカロリーで体温を保っている。

毛づくろいの度にびっしり生えた綿毛が抜けるし、多く食べた分多くの排泄をする。ラッコには魚の比ではない大きな濾過槽が必要だった。

そして鮮度のいいアジやイカに加えて大型の貝を与えなければならなかったので餌代がかさむ。

工事資金を東京の本社に借りに行ったが、何だかんだと言いがかりのような理屈をつけて、予定の金額の3分の1しか貸してくれなかった。しかし不足分は必ず増客した収入で支払いができると自信が有った。

わずかながら客が増えたのは、展示を開始した3月から6月までの4か月間だけだった。工事に掛かったお金を売り上げで支払っていたから、10月になると手もちのお金が底をついてきた。

知り合いの業者に支払いを伸ばしてもらったり分割してもらったり、今度の日曜日に多少売り上げが有るからその翌日に払おうとか、やりくり算段していたが、これから訪れる雪の季節を乗り切るだけの資金はどこにもなかった。

思い出してみれば笑い話のようなことも起きた。あのころまだ庄内の磯釣りは結構盛んだった。どこの釣り大会だったか忘れたが会員の私も参加するために、磯の上に立って庄内竿を振り回してクロダイを狙っていた。遠くで誰かが私を呼んでいる声が聞こえてきた。

微かに女性の声で「館長ー、かんちょうー」と言っている、振り返ると経理の田沢さんが声の限りに私を呼んでいた、「何だでー・・・この忙しいのに」と思ったが、竿を置いて行ってみると、今日は支払日であるとの事、そして資金が足りないがどうしたら良いだろうと切羽詰まった顔をしていた。

大切な支払い日を忘れてクロダイを釣っていた。これはしまった大きなしくじりをしてしまった。あわてて職場に戻ってやり繰りすると言う笑えない笑い話もあった。

収入のほとんど見込めない冬を越すにはどこかから借り入れをする他なかった。そして「意を決しての本社詣」だったのである。頭ごなしに叱られることは分かっていた。本社の経理を担当していた副社長に事情を話すと、逃げ道をふさがれて前から責め立てられた。予想をはるかに上回るひどい怒られ方だった。

咽から出かかった「あんたがこっちの要求を無視して、希望の3分の1しか貸してくれなかったから金が無くなったんだ」という言葉をぐっと飲み込んだ。怒りに高ぶった声は次第に大きくなって「こんなことをするような奴は必要ない人間だ」とまで言われてしまった。

情けなかったが数字がすべての世界だった。黒字ではあったが資金は見事に無くなっていた。

すべては見込みを誤った私の責任だ。頭を何度下げたことか、何時間経過したかも定かでなかった。どうにか1500万円の借り入れを承認してもらい、本社のビルを出た。

こんな面白くもないところは早く退散したかった。そして上野駅に来ては見たものの予定していた発車時刻は夜の9時だった。時間はたっぷりあった。ぽつんと駅のホームに座っていても悶々と言い訳や、恨み、つらみが消えては浮かぶ。「俺は本当にこの世にいらない人間なのか?」思い余って上野の山に上がってみた。

どこをどう歩いたのか不案内な山は街灯も少なく、枝を張った大木が光を遮り真っ暗だった。ふらふらと彷徨う先に黒いシルエットのように佇むアベックの姿もあった。

普段の自分だったら寄り添う二人は気になる人影だったが、暗く押しつぶされた今の自分には羨ましくも腹立たしくもなく唯々うろうろと歩き回っていた。

特にあの会社が厳しかったわけではない。民間の会社なら多かれ少なかれ似たような厳しい経営がされている。倒産すれば働いている職員だけではなく、取り巻く多くの人に迷惑がかかる。

もし出入りしている多くの業者さんに支払いが出来なくなれば、そのお金を当てにしていた相手が倒産しかねない事になる。企業はいい時も悪い時も健全な経営を続けることを義務づけられていると言って良いだろう。あれは実に大きな教訓になった。

6万匹の岩魚を釣らされた

もう20年も前のことになるが、年に60回も山に入り岩魚釣りに明け暮れていた事があった。あのころは週に1度の休みだったから、4月の解禁から9月末まで毎週山に入ったとしても20数回しかならない。

年に60回となると普通の勤め人には不可能な回数である。私の場合はどうしてそのような事が出来たのかというと、好きでやっていたのではなく、水族館と言うよりは会社の大事な仕事の一環としてやらされていたのである。

好きなことだから良いじゃ無いかと思うかもしれないが、これだって度を越せば苦労の種になる。毎月2度か3度東京からオーナーがやってきて、自分の経営するホテルに作った別荘に泊まり、3日~4日朝早くから夕方までイワナつりをして山遊び三昧の日々を過ごしていた。

そのお供と云う役割が私であった。庄内に滞在する間中私が陰の如く付き添い、釣りだけではなく関連会社を回るにしても、応援していた代議士のお宅を訪れるにも、東京に持ち帰る土産を買いに行くのも、とに角どこに行くにも私が運転するビッグホーンに乗って行動していた。

オーナーは唯の人ではなかった。15歳で風呂敷包み1つぶら下げて上野駅に降り立って以来、努力に努力を重ねてのし上がり、とうとう小さな鋼屋を東証一部上場の会社までに拡大した実力者だった。

力があって頭の回転がよく、度胸もあり仕事人の全てを備えた人だった。自信があったからだと思うが誰が何を言っても聞き入れない絵に書いたようなワンマンだった。

そのワンマン社長が年を取って振り返ったとき、趣味も無く仕事の他には自分を夢中にさせるものが一つもなかったようだ。

サケがふるさとに戻って産卵し、一生を終える如く社長も生まれ故郷に戻って子供の頃に遊んだ山や川が恋しくなったのは、ごく自然な流れだったと思う。

何時の間にか私が案内係となって、二人で岩魚釣りをするのが唯一の心の休みどころとなった。来るたびに庄内平野を取り囲む山々に分け入っては岩魚を釣った。

あのころ山は荒らされておらず、入る沢にはイワナがいっぱい泳いでいた。朝から釣って夕方にはいつも100匹以上のイワナが魚篭に入っていた。

東京でイワナを日に100匹も釣るといっても、誰も信じてはくれない。イワナという魚はあの頃すでに幻といわれていたので、車を置いて1時間沢を遡ってから、一日中竿を振ってもほんの数匹というのが相場だった。

「嘘でしょう、信じられません。」と云われるのが社長の自尊心をくすぐっていた。誰も信じられないぐらい釣っているので楽しくて仕方が無い。「そんな事云うなら一度いらっしゃい釣らせてあげますよ。」と、東京からいろんな人を連れてきた。

得意先の大事な人ばかりではない。いつも行くすし屋のオヤジさんだったり、有名なホテルオークラのコック長と支配人だったり、時々立ち寄るおまわりさんだったり、もう留まる所を知らないほど誰かれなく声をかけていた。

20数年間風邪を引いて寝ていようが、明日大事な会議があろうが人が訪ねて来ようが、全てを社長に合わせて、亡くなるその年まで楽しみの相手を務めた。

ワンマンだったあの人は誰しも近寄り難く、出来るなら離れて居たいというほど厳格だった。

商売人として徹底的に利益を追求したその人生で、たった一つ例外が(株)庄内観光公社の経営を引き受けた事だといわれた。 幾ら赤字が続いても周りの反対を押し切り、様々な形で援助の手を差し伸べて、事業を続けさせた。

厳格な社長の信条を変えて、例外を生ませる事になったのは、たった一つしかなかった「岩魚釣りという趣味」がそうさせたと思うのが一番分かりやすいだろう。

ワンマンオーナーは、生れ故郷に帰って好きな山に入って岩魚を釣るという楽しみがあったから、月に2度も3度も満光園に来たのであり、其れを最大の楽しみとしていた。

50数年間社長として先頭に立ち、突っ走ってきた仕事の第一線を離れたときに胸に去来したものは何だったろう。「まだまだ若いものには負けない。」「あの仕事ぶりは何だ。」「俺だったらあんな事はしないぞ。」悶々とする日々の思いを胸の奥底に呑み込んだ男の心の隙間を埋めてくれたのはたった一つ、生まれ故郷に帰りイワナ釣り三昧の日々を過ごすことだった。

その楽しみを自ら断つことは出来なかっただろう。あの頃の社長と同じ年代になった今その心境はよく分かる気がする。

大山鳴動して地域を巻き込んだ昭和42年「足達鶴岡市長の観光の市構想」は、湯野浜ゴルフ場の下にホテル一つだけが残って消えたが、その陰には悲喜こもごもの物語が存在する。

芸は身を助けるという諺があるが、趣味は会社を助けるといつも思いながらイワナ釣りに明け暮れていた。