月別: 12月 2012

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その2

タヌキは人間の生活に依存している所が有る。雑食性の強みで山に雪が降って餌が無くなると、人の住む集落に降りてきて木に登って取り残しの柿やリンゴなどを食べる他に、畑のものや捨てた残飯を漁って腹を満たしている。

夜通し歩き回って餌を探して明け方になると山の寝ぐらに帰ってゆく。その足跡を追うのである。そのまま真っ直ぐに隠れ家に向かうことは無い。たどってゆくと山に入ってまずウサギの足跡にぴょんと飛び乗って、ウサギの足跡に載せて全く同じように歩く。

狸の足跡は一見すると猫と同じで見分けがつかないくらい似ている。よく見れば僅かに跡が大きいかなと思うぐらいの差だから、跡だけでは判断できない。

ここで突然狸の足跡が無くなるので初めて追う者は見失うことになる。さらに追って行くと大きく横に跳び追跡者から自分の足跡を消そうとする。これも寝ぐらが近ければの行動で読み込み済である。

しばらく行くと今度は大きな木に登り、横に張った枝の先から飛び降りて更に跡を消そうとする。こうした行動は何時身に付いたのかは知らないが、何万年もの間自分より強いものから身を守ろうとして自然と会得したのだろう。

山で狸より強いものは今は熊ぐらいだろう。明治より昔はオオカミが怖かったのだろうか。夜行性だからイヌワシやクマタカを意識はしないだろう。いや長い間一番の敵は人間に違いない。

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独立学園の校舎 – 屋根裏部屋が私の部屋で、3年間を過ごした

 

さらにつけて行くと足跡は尾根筋に出ていた。尾根には風が直接当たり新雪が飛ばされて中の固い雪だけが出ている。ここで足跡は完全に消えてしまう。

しかし矢張り狸も馬鹿なもので、ところどころにスポンスポンと踏み抜いた跡が有る。そしてちょっとした山を越えて陰の雑木林に続いていた。

一帯には数えきれないほどの木が生えていた。タヌキはその中に入って行き足跡は行ったり来たり、横切ったり何が何だか分からないほど入り乱れていた。

こうなるともうどこに居るのか、どのように追いかけて行けばいいのかさえ分からなくなる。もう追う術は絶たれたように思った。

少しうろついてみたが、立木の根元は雪が融けていて覗いても中がうかがえないほども底までも続いている。タヌキは木々すべての根元にもぐっては出てきて跡を付けていた。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

雪が深く積もっても、立木の周りは雪が融けて穴になっている。

 

雪の深さは3mから4mある。すべての木の根元を掘り起こして確かめるのは不可能であった。私はギブアップであった。しかし連れて行ってくれた親父さんは「アーこれは簡単にどこに居るかわかる」と云ったのである。

この話を今年の10月獣医師さんの集まりでしたことが有った。「タヌキがどこに居るか分かる方が居ますか?」と尋ねたが、100人ほどいた中どなたの手も上がらなかった。

さらに「他の方はともかく獣医さんなら見当がつくのでは?」と付け加えたが反応は無かった。

しかし本当にあまりにも簡単に居場所を特定する方法が有ったのである。親父さんは私に「見てろ!」と言ってその辺一帯を大きく一回りした。

大きな声で狸の足跡を「出た跡、入った跡」と数えていた。一回りしてその範囲に入った跡が一つでも多ければその中に居るという事になる。矢張り足跡は入ったものが多かった。

次はどの木が一番それらしいかを見定めて、その周りを一回りした。「ここだここだ、こごさ居た」とあっという間に隠れ家は見破られてしまった。

獣でも人間でも雪に付いた足跡は進んだ方向が分かるもので、それを応用しただけのごく簡単な方法で有った。しかし人間社会に慣れてしまえばその感覚は失われてしまう。

犬や猫に家畜などを毎日扱う獣医さんでさえ、手も足も出なかったのだ。不可能と見えた最後の詰めも、山の人たちは生活の知恵として身に着けていた。私はこの時ものすごい感動を受けた。一見行き止まりに見えるこの世の出来事も、自分がそう思うだけで実は解決する方法が有るのだと、山の中で教えられた気がした。

背負ってきたシャベルで雪を掘ると木の根元の穴は岩につながっていて、穴が有った。そこに仲良く2匹の狸が隠れていた。

もう鉄砲は不要だった。先が二股になった木の枝を切り取ってきて、一人が狸の首を押さえている間に、もう一人が腹這いになってもぐりこんで足に縄を縛り付けた。

こうして2匹の狸は男どもの手におち、歓声が上がった。

狸の話はここで終わってもいいのだが、もう一つ紹介したい狸捕りの場面を思いだしたので付け加えることにする。(続く)

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その1

いまどき狸を捕まえるなどと言っても「何であんなものを・・・そこらへんに一杯居るじゃないか」といぶかしがられるかもしれないが、昔は毛皮を結構高い値で売り買いされていたし、肉も喜んで食べられていた時代もあったのである。

そんな高校時代の事を思い出して少し書いてみたくなった。昭和30年から33年までが私の高校時代だったから、もう50年以上60年に近い月日が流れたことになる。

私は不思議な縁で飯豊山の山懐にある「小さな高校」に入学できた。今は小国町に合併されたが当時は津川村と云って誠に小さな村だった。駅から8kmも奥に有ったがバスも無し足だけが頼りだった。

冬になれば4m近い雪が積もったし川添にところどころに集落が有るだけで、まさに平家の落ち武者が人里離れて住み着いたと言えばそんな感じもする寂しい所だった。

何でそんな所に高校なんか建てたのかと不思議に思うが、これがまた変わっている。津川村は国鉄の米坂線が開通する前には陸の孤島と云われ、日本一不便なところだと定評があった所だ。

だからこそ本当の教育が出来ると考えた校長が、家屋敷を売りはらって引越し、自宅がいつの間にか高校の校舎として使われて小人数の学校が出来上がっていた。とまあこんな事情が有る。

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キリスト教独立学園 – ぼろぼろで納屋と間違えられそうな校舎

 

40人に満たない全校生徒で、しかも授業料は県立と同じだったから成り立つはずが無いのだが、貧乏のどん底で四苦八苦しながら続けていた。そんなとこに入学したのである。

入学式の日に校長は「勉強をするな」と云った。本当は前おきに大学受験のための・・・と付いていたがそれは切り捨てた。これは有り難かった。何より嫌いな勉強から解放されたのである。

堂々と3年間授業以外の勉強は1度もしなかった。「嘘をつくな、たばこを吸うな、酒は飲むな」と約束させられた他には何も制約はなかった。落ちこぼれだった中学時代が砂をかむような日々で、今度は毎日が日曜日のような嬉しさだった。

冬になれば皆はスキーをしたが私は人と同じことが嫌いで、せっかく山奥に来たんだからと、鉄砲を撃ってはウサギや鳥を捕まえて食べていた。いつも腹が減っていたしまた楽しかったからだ。

高校生が鉄砲を撃つなど考えるまでもなく禁じられていたが、お巡りさんが居るわけでもなし、山の中だから猟期以外にだれが鉄砲を撃とうが、気にする人とていなかった。

知り合いの村のおやじさんに「鉄砲と弾を借してくれー」と言えば貸してくれた。そっと寮の部屋に隠しておいて、日曜日になるとウサギ撃ちに出かけた。

山の稜線に先回りして鉄砲を構えて下級生が追い上げるウサギを撃った。走って逃げる山ウサギをよく狙って撃ってもなかなか当たらない物だった。下手だったがそれ以上に鉄砲の口径が小さかったことも有ったろう。

魚屋も、勿論肉屋も無いし山の中でのご馳走は獣の肉しかない時代だった。どんな獲物も大喜びで歓迎された。

熊とか、むじな(アナグマ)、ヤマドリは別格の獲物でそう簡単に捕れるものではなく、めったに口に入ることは無かった。次の獲物は狸であった。これもそう簡単には捕れなかったが捕れれば近所のおやじ達が皆寄ってきて、どぶろくを飲みながらの大宴会になった。

今食べろと言われてもあの獣臭さはどうにも我慢が出来ないが、あのころはそんな思いをした記憶がない。白く厚い脂肪層が有って牛肉の様だと思って食べたものである。

いよいよ本題に入るが、タヌキの足跡はいたるところに付いていて、追いかければ寝ぐらにたどり着けそうに思うが、そうは行かない。深い雪の中を一晩で2里(8km)歩くと言われていた。

山の中をかんじきを履いて深雪を踏み固めながらとても8kmは歩けない。そこで頭を働かせ朝まで雪が降ってその後止んだ日に追いかければ、寝ぐらに帰る足跡だけが残っている。そのぐらいの距離だったら追いつけると考えた。(続く)