年別: 2012

館長 クラゲを捕まえる

一昨日と昨日の2日間つづけて舟を出してクラゲを捕まえに行ってみた。副館長の隣に乗せてもらったのではない、自分で採集舟を操縦しての船出である。

こ こ2~3年はそんなことはなかった。何だか年を取った感じがして舟を出すのが億劫になっていた。若いときには重い木造の舟を櫂1本で手漕ぎして、2kmも 離れた暗礁までも行って釣りをしたものだがもう駄目だ。疲れそうだなと思うとパソコンの前から動かないのだから、寄る年波には勝てないという事だ。

そ の自分が若い職員に誘われて「おーんだば行くがー」と返事したのだから、我ながら可笑しかった。70歳の曲がり角をすぎて少し体力が戻ったのかも知れな い。年を取ったと言っても海を見る目は昔のままだ。海が穏やかに凪いでいれば出たくなる。タナゴやメバルの20~30も釣ってやろうかと気も起こる。

クラゲが相手でも同じだ。あの日は若い女性飼育係と二人で、引き上げてある舟を押して海に浮かべ、久しぶりに50馬力の船外機のスイッチをまわした。4サイクルのエンジンは音が小さく静かに安定した回転音がしている。

駐車場の向こうにある港は100mほどしか離れていない。「いやークラゲに出会って観光ルートから外れたここも条件が一変したな。」気持ちよく今泉の港から出航した。日本広しと言えどプライベートの港を持っている水族館は他に思い当たらない、いい気分だ。

まず目指すのは800m沖にある離岸堤だ。水深が10mある岸壁に沿ってクラゲが居るはずであったが、しかしだめだった。最上川からでも来たのか川の水が入ったことを示す、特有のワタごみのような浮遊物が無数に漂っていた。

よく見るとワタごみの間にもっと細かな何かが無数にうごめいていた。これは俗に夜光虫と呼ばれているプランクトンである。これが災いしたようだったクラゲは見えなかった。せっかく意を決して船出してきたのだが見放されたようだ。

離岸堤を3つ回っても壊れたカブトクラゲが一つ漂っていただけだった。クラゲって奴はいないときには影も形もない。しかしいつ大量に現れるか分からないのもクラゲの特徴である。

そして翌日矢張りいたのである。岸壁には釣りの方が何人も上がっていた。船が近づいてクラゲを探していると「あそこにいる」と指さして教えてくれた。4m上の岸壁から見えるのは多分傘に縞模様のあるアカクラゲだろう。

以 前ここは私の専用の釣り場だったのだ。水族館の採集船で押し渡っては細い庄内竿を見事に曲げてクロダイを釣っていた。「どうです、何か釣れましたか」「ク ロダイが1匹釣れました」こんな会話も楽しみの一つだ。他にはオワンクラゲ、サビキウリクラゲ、チョウクラゲが結構いた。これを展示すればお客様が喜んで くれるだろう。

アカクラゲも数匹持ち帰ったが、小魚にでもつつかれたのか傘が痛んでいたり、口腕が無いものが多い。これは展示には向かな いから繁殖に使おう。魚ではなくたってなんでも捕まえるという事は楽しいものだ。さっきより気分がよくなった。これで1週間はいい気持ちで仕事ができる。

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交通渋滞も悪くない

今日(5月4日)は押しかける車が気になって、小雨の降る中離れたところにある駐車場まで3度見に行った。3度目は午後になっていたが水族館につながる道は渋滞を起こしていた。

先頭は水産高校や、水産試験場の建物が有ってよく見えないが、港を越して1kmはつながっているだろう。このところ5月の連休は一日に5千人以上の入館者が有る。こうなると駐車所の少ないここはたちまち一帯が渋滞を起こしてしまう。

車を見ながら胸に去来するのは、「申し訳ないな」との思いの他にもう一つある。わずか10数年前までには倒産の危機にさらされて、訪れる車も少なく我が加茂水族館はさびしい姿だったのである。

その思いが有るから何とかここまで復活して、渋滞する程も多くの車が来てくれたことが兎に角嬉しいのである。出会う近所の人にも「迷惑をかけてすみません」と言いながら、ひとりでに腹の底から笑顔が浮かんでくる。

加 茂は深山幽谷が海に突っ込んだような地形になっている関係上、海岸に開けた土地が全く無い。作ろうにも作れずに不足している駐車場のせいもあるが、この小 さな水族館はせいぜい入っても4千人が良いところである。それ以上入ると身動きがままならず、それこそ館内が大渋滞を起こすことになる。

渋 滞を我慢してやっと受付に来たものの順番待ちが長々と並んでいて待たされ、中に入ってもクラゲの展示にたどり着くのがまた大変。サーいよいよクラゲを見る かと思えば、そこでまた順番待ちになる。クラゲの水槽を目前に順番を待っている行列が、ウミガメの水槽前から外に出て階段を上がってウミネコの餌付け付近 までつながっていた。

時々「何でこんなに入れるのですか、何も見られないじゃないですか」「あなた先に立って案内しなさい」としかられる ことが有る。「ならば貴方は入らなくてもいいのですか」と喉まで出かけるが、ぐっと飲み込んで「イヤーどうも済みません、今日が一年で一番混む日ですか らー、どうもどうも」と言って勘弁してもらう。

それにしても今日の混みようはすごかった。受付で入場券を買う人が長々と繋がって灯台の下の階段まで行ってさらに折れ曲がっていた。こんなことは48年の歴史でもなかったことだ。

館 長の仕事の大半は電話番と相場が決まっている。渋滞に巻き込まれてイライラしている客からの時もある。「この渋滞は何なのですか、水族館に入る車なら何で もっとちゃんと誘導しないのですか」「いや済みません今日と明日は一年中で一番混む日なものですからどうにもなりません」「待たせるなら待たせるでちゃん と何十分かかるのか知らせろ、このばかやろー」

「俺は大山のすし屋だが注文のものを届けに今泉まで行ったら40分かかった」「いつもなら5分で行けるのだ、繁盛しているからといい気になるな」という電話もあった。

唯々謝る他無かったが、こっちだって結構つらいものが有る。ここは市の施設であるのだ、何とか駐車場の工面をしてくれと言いたくもなる。 クラゲの人気もさることながら、タイミングよく4月の7日にギネスブックに「クラゲの展示種類数世界一」が認定された。このニュースが日本中を駆け巡ったから、遠くからも車を飛ばして見に来てくれたのだろう。

小雨の中、受付の順番をじっと待つお客様に申し訳ない気持ちが募る。あと2年で新しい水族館が出来ます、その時にはもっとスムースにお迎えできるようにしますので、今しばらくのご辛抱を・・・。

館長想い出語り 3

物心も付かない子供の頃から親に本を読んで貰って眠りに付いていた。本の題名は皆忘れてしまったが、波乱のヒーローが繰り返し訪れる数々の苦労や強敵を乗り越えて思いを遂げる・・・簡単に言えばそんな物語だった。

記憶に残る物語は内容こそ違え、筋書きは似たり寄ったりで共通している。物語は波乱に満ちるほどいい。相手が大きくて強いほど引き込まれる。どん底は深ければ深いほど乗り越えたときのヒーローが光り輝いてくるし、聞くほうも面白い。

そう思ってここの経営を振り返ると、実はそこらにある私の好きな本よりも、よほど男の血を湧かせるストーリーがこの加茂水族館には有った。

別にそうなりたくてなった訳でもなく、その時々に訪れる周りの状況が自然に造り上げたと言っていい。その全ての歴史の中心に私が居たのだから語る資格はあるということだろう。

取って置きの話を一つ披露することにする。平成7年ごろだと思うが水族館業界をよく知る、いわばこの道のプロがお忍びで尋ねてきたことがあった。その男の目的は「日本中の普段着の水族館」を訪ねて歩いて、あとで紹介する本を書こうというものだった。

この男は特別意地悪でも、私に恨みが有ったわけでもない。実に正直なこの道の知識に長けたいい男である。有名な水族館の副館長という職を捨てて独立し、いまはプロデューサーとして活躍している水族館を知り尽くした専門家である。

彼とは恨んだり恨まれたりしているわけではないので、名前を挙げても別に怒られるという事もないであろう、ということで実名を書くことにする。その人物は中村元といって当時は三重県にある世界有数の施設として知られていた、鳥羽水族館の副館長として勤務していた。

そして各地の水族館を見てくるたびに自分のホームページに、その水族館を紹介する文とランク付けがしてあった。此れに我が加茂水族館も載ったのである。

色々な水族館が紹介されてランクがつけられている。その中に「どこと言って取るところが無い、なくてもいい水族館だ、こんな所にもラッコがいた」と書いてあった。

そしてランクから外れたところに印が付けられていた。余りのみすぼらしさに3段階あったランクの中に入れる事が出来なかったらしい。

水族館のプロ中のプロから「無くても良い」とのお墨付きを戴いてしまったのである

こんな水族館は他にはなかったので、とにかく日本に70ほどあった協会加盟の水族館の中で、最低の評価を受けたことになる。

このことを知って腹が立つ前に、情けないがその様な事は自分でも重々分かっていたことだったから、「いやこの通りどうしようもない水族館だ。あの男うまいこと書いたものだ」と納得した。

「こ うなったのも元はと言えば、遣りたいことはすべて封じて、ここで稼いだ金をみな持っていった本社が悪いのだ、おまけに大きな借金を背負わせて『金返せ、金 返せ』と迫られて、壊れた所も直せずに廃屋のようにみすぼらしくなったまま、無理やり経営させられたそのせいで、こうなったのではないか。」

「俺の家屋敷を担保に保証人にさせて、本社が銀行に多額の借金もしていたし、その上東京の親会社に借金に行けばいつも難癖を付けられて、金額を値切られたり計画変更をさせられたり、ちゃんと仕事をさせてくれなかったじゃ無いか。」

こんな思いがいつも胸の中を渦巻いていた。頭に去来するのは「言い訳、グチ、悪口、悔しさ」で心は真っ暗だった。

此れが「昔流行ったやくざ映画の場面」だったら、此れでもか此れでもかと無理難題に嫌がらせされ、寄ってたかって殴られ蹴飛ばされ、耐えに耐えているヒーロー高倉健さんか、鶴田浩二さんといったところだろ。

いらないと評されたのが平成7年ごろだと思うので、その2年後の平成9年にとうとう入館者が10万人を割って9万人ほどに減り、いよいよ「苦労の経営も此れまでだな」とわたしの口からもついつい洩れていた。

自分で借金を背負っての倒産はただ職を失うだけではない、大きな代償を払わせられることを意味していた。

内から見ても外から見ても、誰しも「加茂水族館の運命は窮まった」と見えただろう。しかしここから反転攻勢に出るという離れ業を成し遂げたのだから、世の中何が幸いするか分からない。

クラゲという得難い生き物に出会うという偶然から、わずかずつでは有ったが入館者が回復しだし、思いがけない応援などの後押しが有って業績は回復した。

ク ラゲという限られた分野ではあったが、あれよあれよという間に日本一、そして世界一の座にと駆け上がり、古賀賞という「業界最高の賞」を受け、入館者もど ん底時の2.4倍に増加した。そしてとうとうオープン当初の賑わいを越えて、45年ぶりに過去最高を記録するまでに回復することが出来た。
これぞ正に浪曲界の天才と評された「広沢虎造のだみ声」が語る「侠客、国定忠治の世界」じゃないか。苦境のヒーローが、憎き悪代官を叩きのめして地域の人たちを苦境から救い、やんやの喝采を浴びる・・・こんなことを髣髴とさせるように思うのだが、如何。

平成9年に有った幻の水族館建設計画

平成9年というとまず私の頭に浮かぶのは「どん底でクラゲに出会った年」だ。しかしその大きな出来事に隠れたもう一つの書き残しておかなければならないことが有る。

あのころ、ここの長い歴史の中でも最も入館者が少ない時期で、館長である私も倒産という無言の圧力にいつも押しつぶされそうになっていた。築30年を超えていたので入館者の減少はそのせいであり、この難局を乗り切るのは新水族館の建設以外にはないと思っていた。

人口が少なく交通の便もよくはないし、観光客とて少ない庄内地方では何十億掛かるか分からない水族館の建設は、民間の仕事としてはとても採算が取れるとは思えず、鶴岡市にお願いする他無く折に触れては出かけて行き何度となくお願いしていた。

暖簾に腕押しのようなやり取りばかり何年続いたことか、しかしそのような中で実現すると思えた一時期が有り、それが平成8年に検討会が始まり9年にまとめた「水族館改築基本計画」であった。

市の音頭取りで関係する観光課と企画調整課、県、コンサルタントの大建設計、そして民間の施設だった庄内浜加茂水族館からは館長の私と飼育係の奥泉が参加した。

前もって市が1500万円の予算で古くなった加茂水族館を、酒田市の日本メンテによる耐震診断をし、現在の基準には到底及ばず地震の際には危険な状態であると言う結論を出してあった。

その結論に基づいて3つの案が出されそれぞれ真剣な話し合いが続けられた。

1つは今使っている建物を現在の耐震基準に合った強度に補強して使い続ける
2つ目は補強した建物に増築をし魅力アップして使う
3つ目は移転新築する

この時初めて真剣に新しい水族館を建てる検討をした。あの時それまで考えていた様々な提案をした。メインは「鱈場と呼ばれる水深200mの深さの漁場に生息する魚の展示」鱈場の名前を使って庄内浜に水揚げされる魚類を展示することを提案した。

鱈や、イシナギ、ホッケを群泳させたいと考えたのだが、提案しながら思ったのは北の海に生息する魚はいずれも地味な色彩のものばかりであった、思い描くすべての魚が見た目の魅力に欠けている「これではたしてお客様は来てくれるだろうか?」「たぶん大した効果はないだろう」という思いに至る。

ならば飛島には暖流が直接流れていて、時々色とりどりの熱帯性の魚まで現れるそれを入れたら多少は見栄えがするだろうと、苦し紛れに「飛島の大水槽」の案まで出された。もうこうなったら庄内浜の魚類を展示すると言う理念はどこにもなくなる。「どうしようも無いなー」と思ったが3つ目の案に盛り込まれた。

この時は自分が情けなかった。これまで長い間市に働きかけて「水族館を建ててくれ」とお願いしてきたが、いざとなった時にこれと言った自信を持てる提案が出来なかった自分の力のなさに愕然とさせられた。

たとえば何か「これという目玉」を中心に据えた水族館を建てれば、遠くからも多くの方が足を運んでくれるだろうと言う思いが有ったが、その目玉が出てこなかった。そして自信の持てないままに纏められたのが平成9年の「水族館改築基本計画」であった。

このみじめな思いが大きな教訓になった。長く続いた不況の中でも積極的に前に出て、多くの経験を積むべきだと悟った。丁度その年にクラゲと出会うと言う偶然が重なり、毎年拡大に次ぐ拡大をし展示種類数を増やしていった。

自信が持てない提案をしたと言う経験が無かったら、果たして貧乏の極みの中であれほど積極的な考えを持つことが出来ただろうか。そう思うとあの時の経験はタイミングと言いショックの大きさと言い、クラゲで立ち直る前奏曲のように思える。

46年は夢の如し -車いすの道-

この頃どこに行っても障害者に対する配慮は行き渡って不自由な思いをさせることは殆ど無いが、ここ加茂水族館はそうはなっていない。昭和39年の建物がいまだに使われている関係上、とても配慮がされているとはいいがたい。

入り口の階段にスロープをつけたり、トイレを障害者用に改造したりしてみたがその辺が限界であった。

何とかどこか改造して、小さくてもいいからエレベーターでも取り付ける余地はないか、専門の業者さんに来てもらい散々調べてみての結論は、どこにもそんな余地はないし構造的にも不可能ということだった。

以 前と違って障害者のかたも施設だけではなく、家庭からも一般の人と同じように普通に入館されることが多くなった。車椅子の方もクラゲが目当てでやってくる ので、せっかく世界一にまでになったクラゲを何とか見ていただきたい。3人がかりで車椅子ごと持ち上げて、階段を下りてゆく姿を見るのは忍びなかった。

何 とか車椅子のまま下の階に行けるように出来ないものか、仕方なしに思いついたのは「外に出れば建物を回るようにして下の階に降りてゆく作業用の車道が有 る、これを整備して車椅子の方でもクラゲやアシカショウを見ることが出来るようにしたら、喜ばれそうだ。」そう思ってすぐさま多少の手を加えて使えるよう にした。

大いに喜ばれ利用されていたが、あるとき障害者の団体を案内してきた女性が「こんな危険な所を通らせるんですか、市の施設なのになんですか、全く配慮がされていない」とこっぴどく怒られた。

確かに云われないまでも分かっていたが、坂が急で不安になる所があった「しかしそげに怒らなくても…」と口に出そうになった。

車椅子が下りてゆく道の、灯台側にそびえる岩山は元々切り立っていて建物との隙間は僅かしかなかった。

私が働き始めた昭和41年には、もっと幅が狭く車が通れる余地は無く、リヤカーが通れるだけの実に狭いものだった。

あの頃水族館に車は無かったのである。毎日アシカやアザラシ、魚類に与える餌は約1km離れた所にあった漁協の冷凍庫まで、職員がリヤカーを引いて運びに行っていたのである。

翌年に初めての車が配属された。日産のセドリックバンであった。

あれから切り立った岩山は年を重ねるごとに、風雨に晒され少しずつ崩れて何時の間にかリヤカー道は、車が通れる幅に広がった。

やはり46年という年月は、短くなかったということだ。 そしてこの裏道を整備して、曲がりなりにも車椅子の方が1階に降りて行けるようになった。障害有る方もアシカショウやクラゲの展示を見ることが出来るようになった。

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俺だって応援している「なでしこジャパン」

昨夜はテレビで女子サッカー「アルガルベ杯」の決勝を応援していて12時ごろまでも起きていた。

眠い目をこすりながらいつもより3時間も粘ったことになる。60歳を迎えるころから早く寝るのが癖になり、ふつうは9時、早ければ夜8時になると寝る習慣がついている。12時というのは年に何回かしか無い珍しい事である。

しかし今の女子サッカーは面白い。めったに負けることがないから応援のし甲斐もある。なんてったってワールドカップのあの晴れ姿は日本中を湧き立たせてくれた。キックオフの前に両群が整列する姿を見れば体の大きさの違いに「あれで本当に大丈夫か」と心配になるくらい小さく細く貧弱に見えてしまう。

ハラハラドキドキを乗り越えて小がよく大を制してやっつけてしまうから、判官贔屓の日本人にはたまらない。我が家ではワールドカップの決勝戦は録画してあり、繰り返し見たが先が分かっているのにその度に感動して涙が流れた。私が特に義理と人情に弱い性格だからとは言えない。あれを見て胸を震わせない人がいたらそれは感情のない人だろう。

その感動が私を動かして、昨年5月に静岡県のある水族館からきたカリフォルニアアシカに、「なでしこ」と名付けさせて頂いた。千数百通あった応募の中から迷わずこれだと決めた。このアシカがすっかり成長して芸達者になり、人気者になっている。

首には背番号10のブルーのユニフォームをつけて、サッカーボールを頭に載せたりキャッチしたりと実に面白い。見入る観客は、沢さんの活躍の記憶と重なり、やんやの喝さいを送ってくれる。館長だけではない、加茂水族館のアシカはなでしこジャパンを応援している。

なでしこジャパンの佐々木監督は我が山形県の尾花沢市出身でもある。アルガルべ杯が始まる直前だったがアシカのユニフォーム姿と、館長の首にユニフォームを巻いた姿を写真にとって、佐々木監督にお送りした。

ドイツには惜しいところで敗れたが大柄な白人の選手を相手に堂々の2位に入ったのはここのアシカのなでしこちゃんの応援が有ったからと思いたいものだ。

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ノーベル賞学者の下村脩先生のメール

東北の片隅にある小さな水族館のおやじが、ノーベル賞を受賞した大先生と時々メールのやり取りをしていると言ったって、聞いた人はにわかに信じがたい事だが、なぜかそれが本当にあるから世の中面白いと言える。

この冬は強い寒波が何度も日本列島を襲ったが、最後の寒波が吹き荒れている2月の18日13時ごろだった。仕事もせずにぼんやりと眺めていたパソコンの画面に突然Shimomuraという着信が届いた。あっと思い開いてみると、下村先生からの「豪雪のお見舞い」とあった。

【村上館長 様  豪雪のお見舞い申し上げます。今年は世界中で異常な天候が起きているようで、TVジャパンで何回も鶴岡の雪景色を見ました。今日のテレビによると日本海側にはまた降るそうで、いつまで続くのでしょうか。お宅は山の方に有るとのことで、大変でしょう。
こちらは異常暖冬で、20センチの雪が一度降っただけです。どうぞ風邪を引かないようにして頑張ってください。 下村 修】とあった。

何度かやり取りしている間に私が羽黒山の近くに住んでいることもご存じである様子が文面にある。

アメリカのボストンから近いところにお住まいになり、今なお発光生物の研究を続けておられるそうだが、やはり日本の事が気になると見え時々TVジャパンを見ては故郷に思いを馳せて居られるのであろう。そこに一度訪れたことのある鶴岡市の大雪の様子が何度か登場したようである。

そしてわが加茂水族館のことを心配になり、メールをしてくださったという事になる、

私は先生の親戚でも同級生でも教え子でもなくてただの他人である。確かに平成20年10月以来オワンクラゲが縁となって交流が始まり、一度このちっぽけな水族館にお出でいただいたという経緯は有るが、心配して頂くほど目立った存在でもない。

あれきりで忘れ去られても当たり前の所であるが、なぜ下村先生はこんなにもこの小さな水族館にやさしいのだろう。おそらくだがこの山形県にノーベル賞学者とこうしてメールのやり取りをしている人はそう居ないはずである。まして鶴岡市となるとまずいないと言っていいのではないか。

一度お出でいただいた時もそうであった。「何でこんなちっぽけな我が水族館にきてくれた物ですか?」とお聞きしたら「田舎が好きですから、興味が有りましたから」と返事が来た。

田舎が好きだからと言ってここを選ぶ理由にはちょっと弱い。他の何かが先生の心を動かして興味を持たせたことになる。それはよく分からない。しかし想像するに先生の生き方は「人の役に立ちたい」という思いに人生をささげた方である。オワンクラゲから取り出した「緑色蛍光タンパク質」も特許を取っていない。

世界中誰でも好きに使えたことで、医療水準が飛躍的に高まったと言われている。この生き様が私の所にも光となって射してきたのではないか。ここが貧乏で老朽化して、一番小さかったからこそ来てくれ、そして時々心配のメールもくれるのではないだろうか。

昨年の3月15日には大震災と、原発事故のお見舞いが届いている。4月5日には加茂水族館の入館者が激減したことへのお気使いがあった。7月26日には新水族館建設に及び、「もちろんオープンには参列させていただきたい」と有った。

現在確か82歳になられたはずであるが、あと2年半お元気でいて頂きたい。そして何としても新水族館のオープンにはお出でいただきたいと思う。

時々のメールにはここで働く者が皆多くの力を戴いた。“先生これからもお元気で”

狐に騙された

実に奇妙な出来事だった。昨日の帰宅途中で起きたことだが今なお何が起きたのかいくら考えても理解できない。こんなことを狐に騙されたというのだろう。

そもそも発端は、このところの路面凍結で朝夕の市内の渋滞ぶりはひどい事から始まった。今日の帰宅にはそれを避けて田圃道を通れば、混むこともなくスムースに短時間で我が家に帰れると思ったのである。ただ注意しなければならないのはこれだけひどい吹雪だと、主要な道路から外れた分除雪が後回しにされて、時々吹き溜まりに行く手を阻まれることがある。

途中は行き交う車も思ったより多かったし何事も起きかった。市内を通るよりも渋滞もなく吹き溜まりも出来ていなかったし、順調に走ってスーパー農道を右に曲がって、あと数百mで我が家にたどり着くはずであった。

しかしゆけども走れども、すぐそこにあるはずの見慣れた我が家は現れなかった。深い雪の中に杉の木に囲まれた見覚えのない農家が散在するだけであった。しばらくは何事が起きたのか分からなかったが、雪で交差点を見落としてしまい間違えて次の道路を曲がってしまったのだろうと考えた。

ならばここは市野山という集落のはず、この先は見当がつく。ちょっと間違えたがこれは雪だったから仕方がない、まあいいだろう・・・と思いつつ先に進めども思い描いた家並みは現れなかった。

突然こんなところにあるはずのない綺麗に除雪された幅の広い道が表れた。そこを右に曲がってみた。思った通りなら一つ先の道路からは幼稚園の窓明かりが見えるはずであった。向こうにそれらしい大きな建物がひっそりと建っていた。

しかしそこまで行くと違う家が立ち並んでいる。奇妙な事に行きかう車は1台もない。どこまで行っても自分の車だけだった。もう完全にあせっていた。消防ポンプの小屋が有ったが、これも見覚えがない。

半径5k~10kmの、このあたりのことは隅から隅まで知っていたつもりだった。狐につままれた気がした。

吹雪の中に突然信号機のある交差点が表れて、右に行けば鶴岡市、左に行けば藤島と出ていた。

しかし方向を失ったままではどちらに我が家があるのか見当もつかない。左に曲がってみたが、行けども行けども白い雪の壁と見知らぬ集落が続いている。人家を外れてしばらく走るとかなり大きな川を渡った。

こんなところに知らぬ川が流れている。橋を通り過ぎながら暗い川面を見下ろしたが矢張り見覚えはなかった。そしてまた集落に入って通り過ぎた頭上に道路標識が見えた。柳久瀬(やなくせ)と書いてあった。

これは知っている。中学の頃ここまで魚取りをしながら笹川を下って約2km、ここが最も遠い引き返し地点だった。やっと我に返って見回すとはるか前方に行き来するかなりの数の車のライトが見えた。アー助かったあそこを左に曲がれば我が家に帰れる。時計を見たらあれから20分が経過していた。

こんなに長い時間どこを走り回っていたのだろう、そう思ったら思い出した出来事が有った。私が小学校の2~3年生のころ近所の若い衆が、どこかで酒を飲んで折箱片手に帰宅する途中で狐に騙されて、幾ら歩いても家に着けず一晩中我が集落を歩き回っていたと話しが伝わってきた。雪の降る中を歩き回った足跡の周りには狐の足跡が付いていた。そして折箱は狐にとられて失っていた・・・とまあこんな話だった。

3軒隣の若い衆だったので、すぐに足跡を見に行ったおぼえがある。確かに大人の長靴の跡に獣の足跡が続いていたのを見た。65年も前の話だが同じキツネとは思えない。孫かひ孫かも知れないが、いまだに悪さをする狐がいると見える。

ギネス記録登録の事

ギネス記録に申請してみようかなと考えるようになったのは、平成16年ごろからだった。初めは「館長歴が世界一長い」ことを申請しようと考えていた。それが常設している「クラゲの展示種類数」も、となったのは、平成17年の3月から始まった世界一の展示のせいだったと思う。

私が加茂水族館の館長に就任したのは弱冠27歳の若さの時だった。昭和の42年6月1日から突然「明日からお前が館長をやれ」と言われ、飛び上がるほどびっくりしたあの日がつい昨日のように思い出される。

鶴岡市が湯野浜温泉の裏山一帯を観光開発するという目的で、資本を募って会社を作ったが当面仕事もお金もない。ならば当時20万人以上の入館者があって繁盛していた加茂水族館を与え両方を満たす、という目的で水族館は簡単に売られてしまったのである。

買った会社が経営できないから飼育係もついて行けと言われ、込みで売られて、気が付けば館長以下主だった人は市に戻ってしまい私がいちばん年上だった。そのせいで若造に館長をやれと言うお鉢が回ってきたのだろう。

長い間に幾多の変遷があったが、館長だけはそのまま現在まで代わり映えしないままに続いている。聞くところによればアメリカのボストンの水族館の何とかという館長が37年間という記録を持っていて、それが世界一だとのこと。ならば私の方が8年も更新したことになる。

世間体を考える前に宣伝に使えるネタは何でも出し惜しみしないのが私の方針だ。ギネスに問い合わせてみたら「あなたの提案は少々専門的すぎる」との理由で館長歴の方は門前払いされた。そして残ったのが展示種類数の方だった。

手続きは結構厳格なもので、専門家二名による確認と書類にサインが必要となる、うまくしたもので12月27日にエチゼンクラゲの調査で下関水産大学校の上野先生と、京都大学の久保田先生が来てくれた。これをチャンスに、30種の確認をして申請の書類にサインをして頂いた。

手続きはこれで整った。あとは登録できたとの返事を待つだけである。おそらくは4月中には届くだろう。果報は寝て待てだ。桜の季節を待つことにする。