月別: 1月 2013

バンドリは冬の月夜に撃つ その1

57年前の高校時代にやった鉄砲うちの話を始めたら、書いている自分が面白くなって止まらなくなった感が有る。

今日はバンドリことムササビを撃つ話をしてみたいと思う。こんな事をしたことが有るのはごく限られた人だし、もともと夜に鉄砲を撃つのは禁じられているので表立ってやるわけには行かない。

いまどきムササビなんか捕まえたって使いようも無いから、関心を持つのは動物の研究者ぐらいなものだろう。今となってはすっかり貴重になったムササビの捕まえ方を書き残すのもいいのじゃないか。

今身近なところにどれほどのブナ林が残っているものだろうか。よほど奥か限られたところだけになってしまった。その主たる原因は戦後に国が貧乏して国有林の木を切って売り、国家財政を潤していた時代が有ってせっせとブナが切られてしまったからだ。

ムササビはブナの原生林が生息地であった。私が高校時代だった昭和30年から3年間は、学校を取り囲む景色はみな人の手が付かない原生林でみごとなものだった。

そこに道路を作りブナや楢を切り倒して、トラックで運び出していたがまだそれは初期の段階で、山が丸裸にされるのはもう少し後の時代になってからだ。

現在の独立学園

現在の独立学園

 

高校2年の11月末のある土曜日のことだった。地元から通ってくる同級生が紙切れを手渡した。それは親父さんからの手紙で「明日バンドリ撃ちに良いようだから、今日から来て泊まれ」と書いてあった。

この様なメモの連絡は時々あった。「鉄砲うちの誘い」であったり「マミ(アナグマ)を捕まえたから食べに来い」だったり「稲背負いに来い」だったりその時々で様々だった。

翌日はいい天気だった。日中は何をしたか記憶にないが夜になって腹を満たし、腹に弾帯を巻いて手には鉄砲を持って真っ暗になった外に踏み出した。いつものように親父さんは私に鉄砲を持たせてくれた。

今日は「オギュウタから狐屋敷にゆく」と云った。ブナの原生林には名前が付けられていた。ムササビは完全な夜行性で、日中は木の穴に隠れている。夜になると出てきてブナや楢の大木に上り、細い枝の先の表皮をかじって食べている。

本当はもっと居そうな場所もあるのだが、夜に山中を自由に歩くことは出来ないので、山道を歩きながら両側に生えているブナの木を見ながら探す他なかったのである。

その日は丸い月が出て雲が無く煌々と月の光が地面を明るくしていた。歩くには良かったがムササビを探すには条件が悪かった。月の下にはスクリーン代わりの白い薄雲が無ければ、下から見上げる目に20m上の木の枝の先は良く見えないのだ。

かさかさと歩くたびに枯れ落ちた木の葉が鳴った。時々立ち止まって耳を澄ましたが周囲は静かで何の音もしなかった。耳鳴りの音しか聞こえなかったから矢張り音はなかったのだろう。

二人で探したが狐屋敷まで行ってもムササビの姿はなかった。あきらめて帰ってきたがオギュウタの林を抜けようとしたところに、太い楢の木が有って枝の先ではなく途中の幹のあたりに2匹の獣が動いていた。

いたぞ!と親父さんの声が有って、すぐに鉄砲を構えて1発撃ったが当たらない。弾を詰め替えて2発目を撃ったら当たったらしくどさっと音を立ててヤブの中に落ちてきた。

それを見たとき嬉しさのあまり、藪に走り込んで落ちたムササビをつかんだ。その時後ろから親父さんの声がした。「何でもう1匹いたのに撃たなかったのだ。」
いや全くその通りだった。

山に入ったら1匹でも多くの獲物を捕るのが鉄砲を持つ者の仕事だった。拾ったムササビをぶら下げながら返す言葉が無かった。(続く)

 

25万人入ったぞ~!

この1月3日に今年の入館者が25万人に達した。その節目に訪れたのは子供を連れた若い夫婦と、そのご両親と云う新春にふさわしい温かい雰囲気の家族だった。

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例年以上の寒さと雪が災いしているが、このまま3月末まで順調に経過すれば27万人に達しようとする程の勢いが続いている。

取材に来ていた新聞社やテレビ局に、「今の感想は?」と聞かれたがこれもとても一言では気持ちを語ることは出来ない。長い苦しい時代が有ってクラゲに出会って何とか立て直すことが出来て今が有るのは間違いない。

一番入館者が少ない年は9万人まで落ち込んだから、25万人という数字は目標にすらできなかった雲の上のと言えばいいのか、幻のまた幻のと言えばいいのかとにかく不可能な数字であった。

とうとうその天井を突き破ったことになる。

今年そこまで伸ばせたその源は、ギネスにクラゲの展示種類数が世界一であると認定されたことだったが、ギネスに申請できたのも11年前に鶴岡市に買い戻されてからの躍進が有ったればこそだったと思う。

普通ならこうだろう。市が民間から買収した施設が有ったとしたら、市の制度に精通した者を送り込んでトップに据えて、法令と条例と、先例などにきちんと従った経営をさせようとする。

市の制度はお金を稼ぐという経営を前提としていない。家計簿のように入ってくる金が決まっていて、それをいかに使うかという事から成り立っている。そのまま現場に当てはめたら仕事はうまく回らなくなり、時間が掛かり活力は失われてしまう。この辺の事は今更云う必要もなくどなたも知っていることだ。

しかし11年前買い取られてみたら誰も送り込まれず、館長はじめそれまでの職員をそのまま同じように仕事をさせてくれた。中で働く者は長い民間時代の感覚そのままに「結果を最大の目標に」して頑張ることが出来た。

市長は私に「村上はん(さん)、誰の言う事も聞かなくてもいい。水族館の利益は誰にも使うなと言ってある。自分の思うようにやっても良いぞ」と言ってくれた。

この言葉は重い。トップがお前の考えで自由に仕事をしろ!と言ってくれるなんて民間だってそうは無い事だ、何が嬉しいたって心底信用されること程男を震え立たせる言葉はない。

市長は平成4年に秋篠宮さまが来館されると決まった時も、「あちこち直すのに金が要るだろう」と、改築資金の一部を援助してくれたり、クラゲに特化する際も貧乏で職員を増やすことが出来なかった私に、人件費を補助してくれたりといつも心からの配慮をしてくれた。

そして平成14年とうとう老朽、弱小、貧乏水族館を市に買い戻してくれた。この決断だって財政難の中当然反対の声が有ったであろう。ご本人も多くの逡巡が有っての末だったろう。こんな経過が有ってその上での有り難い言葉だった。「市長を困らせるわけには行かない、皆で頑張って実績を上げよう」と声を掛け合って努力してきた。

人の動かし方も多くの方法が有る。今テレビをにぎわしている大阪の何とかという高校では体罰で指導して問題を起こしたが、本当は信用されること程大きな効果を生むことは無いと思う。引退してもう3年以上になるがときには電話をくれることが有る。

「村上はん、又新聞さ出っだけぞ。」ここの職員を今なお心にとめていてくれる様だ。報道陣の質問を受けてこんな事を思い出した、あの市長だけではない多くの人の支えが有っての25万人達成だった。

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バンドリは冬の月夜に撃つ その2

表題は冬の話になっているが、書き出しはまだ雪の降る前の月夜から始まってしまった。前にも書いたが夜行性の獣を追って山を走り回るのは人間には不可能な事で、ムササビにしても山道を歩いている間に偶然に出会う事を願う他ない。

そこで本格的に猟をするのは、自由に歩き回ることが出来る雪が深く積もった冬のさなかになる。あれも確か高校二年の冬だったと思う。あの日も天気は素晴らしくいい日でかんじきを履いて、親父さんと一日中ウサギを追って歩き回った。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

独立学園の同窓生。後列の左から3人目が私である。

 

雪もあまり深くなく歩きやすかった。ちょっとした杉の林や、斜面に生えた雑木の林を交代で追い役と撃ち手になりながら、ウサギを撃って過ごした。

山のいたるところに足跡がついていても、思うほど多くはいないのかいつもそんなには捕れなくてせいぜい2~3匹だった。

捕れればすぐに腹を裂いて内臓を捨てる。こうしないと匂いがきつくなって肉の味が落ちるのである。

快晴の空が次第に白い薄雲が張ってきて「これはバンドリ撃ちにちょうどいい、夜また山に入ろう」と親父さんが言った。私も少し山を甘く見ていた。いくら若いと言ってもウサギを追って一日中歩き回って、さらにまた夜もでは疲れ果ててうごけなくなる。

しかしバンドリ撃ちの誘惑には勝てなかった。一度戻って腹いっぱい食べて暗くなってまた山に入っていった。ゆっくりゆっくり親父さんの踏み跡をたどってオギュウタのブナ原生林に差し掛かった時、頭上からぞっ!と背筋が寒くなるような声が聞こえてきた。

「女がすすり泣く」と言えばいいのか、「か細い笛のような」と言えばいいのか、この世に幽霊が居たらこんな声を出すのではないかと思える、ヒュルルルルルーと身を震えさす声だった。

ぞっ!として立ちすくむと親父さんが私の名を呼んで「バンドリがいた」と云った。「この声はバンドリで人が近づいたりすると警戒してなく声だ」と云った。

見上げるとそこいらにはまだブナの大木は生えていなく、10mぐらいの背の低い木が枝を広げて二人の頭上まで伸びていた。

その木の上に何かが黒い塊となって見えた。「良く見れよ、月に透かし見ればふわふわとした毛が見えるものだ。」「毛が無いのは雪の塊だ。」細い枝の先にしがみついてバンドリがいた。

まず親父さんが撃った。「いつもこんな入口には居ないんだが、今日はいいかもしれない」と親父さんが言った。

更に奥に入って行くと見事なブナの林になる。みな高さが20m以上も有ってなん百年たったのか太い立派な木であった。人が植えた木ならば整然と同じような間隔でブナの木が立っているはずだが、原生林の木はそんなに間隔が近くないし距離もバラバラだった。

大木となると隣の木まで50m~100m、200mも離れていることも珍しくない。今は雪の下に隠れて見えないが間にはびっしりと背の低い色々な木が生えて森を作っている。探しながら行くと、1本のブナに4~5匹もバンドリが取り付いていた。

雪の上に尻をおろして上を見上げて狙いを付けて1発撃った。しかしそのままだった。また1発撃ってみた。これも当たらなかったようだ。何発目か撃ったときやっと1匹落ちてきた。

やれ嬉しや、やっと当たったか良かったと思ったら、落ちると思ったバンドリが、雪の上すれすれを飛んで行ってしまった。矢張り夜に鉄砲を撃つと言うのは難しい。狙いを定めたつもりでも筒先が見えないのだから、どこか違う方角を狙ってしまうのだろう。

親父さんが私に代わって撃って1匹捕まえた。そして飛んで逃げた奴を追いかけた。150mもかんじきを履いたまま走った。逃げた先にもブナの大木が有って根元にバンドリが着地した足跡が付いていた。見上げる20m上に塊が見える。さっきの奴だろう。

ここでやっと私が1匹撃ち落とした。さらに行くとブナがみな若く木も混んでいて高さが15mほどと低くなっていた。先に行った親父さんが1匹落として拾いに行ったところ、死んだと思ったバンドリが木に這い上がった。

それを見た親父さんが筒先でたたいて落そうとした時に、誤って引き金を引いてしまった。ドカンと音がして離れてみていた私の眼に筒先の赤い火が見えた。弾は私めがけて飛んできて横に生えていたブナの幹にあたった。

親父さんの切羽詰まった声がした。「おい大丈夫か!」鉄砲だろうが大砲だろうが当たらなければどおって言うことは無い。「何でもねえー」と云ったがまた親父さんの声がした。「本当だか、当たらなかったか。」親父さんはこの時本当に私を撃ってしまったと思ったと後で話してくれた。

いつもならこんな失敗はしない人なのだが、矢張り疲れがそうさせたのだろう。皆で5匹か6匹のバンドリを捕まえたところで、弾が無くなった。私が下手なものだから当たらないままにやたらと撃ち過ぎたせいだった。上手に撃っていればあと4~5匹は多く捕れたと思う。

二人で分けて背負って帰ってきたが、どっと疲れが出て疲労困ぱいだった。いつの間にか腹が減っていた。力が抜けてボーっとして、ただ惰性で足を進めた。

私にはいまどこに居るのかさえわからなかった。わずか雪にかんじきが引っかかっては倒れ、又倒れ夢遊病者のように歩いていた。疲れてはいたが体は暖かく眠く、このまま座り込んで眠ったらさぞかし気持ちが良いだろうと思った。

そのまま眠れば実に「安らかに天国に行ける」、あの気持ちよさは「どんな宗教や悟り」も敵わないだろう。死にたくなければ空腹と眠さを我慢して歩く他なかった。

親父さんの家を見下ろす裏山まで来て、親父さんは灯りを見ながら「あそこまで駕篭に載せて連れて行ってくれれば1万円やる」と云った。今だったらさしずめ20万~30万円という所だろう。

疲れを知らない人だったがさすがに、昼も夜も鉄砲うちでは参ってしまったようだった。私は黙って聞いていた。声すら出ないほど疲れ切っていたからだ。

バンドリには少しだが脂がのっていて、木の匂いがするが結構うまいものだった。

毛皮は紙のように薄く使い物にならない。身も骨から剥がすほど多くはないので骨ごと鉈でたたき切って鍋に入れ、野菜と味噌で煮るだけだった。骨付きの身は両手で持って「骨かじり」と言って歯でむしり取って食べる。これがまた楽しみであった。

山の肉鍋に必ず入れるものが有った。それは潰した大豆で、木の切り株の上で金槌で1粒1粒たたいてつぶす。左手に大豆を握って1粒乗せてはたたいてつぶした。

それは面倒な作業で、幾ら潰しても大した量にはならなかった。

73歳になった今でも月夜に白い雲がかかっていれば、バンドリ撃ちを思い出す。

 

狸は朝まで雪が降った日に捕まえる その3

高校も2年生になると、土曜日には鉄砲を貸してくれる親父さんの家に泊まる日が多くなっていた。そして日曜日に一緒に山に入るのである。2月のある朝親父さんと外に出てみると一晩で1mもの雪が積もっていた。この日曜日にウサギ撃ちに行こうと決めていた。

前の晩に囲炉裏を囲んで、これまでに山であったいろんな鉄砲うちの場面を思い出しては話し合って盛り上がり、同じ話を何度繰り返しても面白かった。親父さんは話をしながら鉄砲と「空になった薬きょう」を取り出した。

「真鍮の空の薬きょう」から雷管を抜いて、新しい雷管を詰めて今度は火薬を小さな柄杓ではかって入れて厚紙で仕切りをし、その上に鉛のバラ玉を詰めた。

この作業も明日鉄砲うちに行くと言う楽しさを大きくしてくれた。最後に鉛のバラ弾をいれ押さえた厚紙の隙間にろうそくで防水すれば1発出来上がりであった。

出来たものから弾帯に詰めてゆく。一番左の端には散弾ではなく1発弾を入れておく。万が一クマに出会った時の用心のためだった。そして右の端には空の薬きょうを差しておく。これは笛代わりに吹いて合図に使う為だった。

親父さんの鉄砲は口径が24番で今クレー射撃などに使われている銃の半分の口径であった。連発銃ではなく1発撃つごとに弾を詰め替えなければ次を撃つことが出来ない。

逃げた獲物を前にして弾を詰め替えるのは、あわてて手が震え時間が掛かる。次を撃とうと顔を上げたときには逃げられた後だったと言うのがほとんどだったが、しかしこれも慣れで落ち着いて素早くやれば、2発目を撃って仕留めることは出来るものだった。

4mもの積雪に埋もれた独立学園

4mもの積雪に埋もれた独立学園

 

雪は深かったが風もなく穏やかで諦めることは出来なかったので、田んぼを挟んで向かいのおやじさんを誘って鉄砲を2丁、私を加えて野次馬を3~4人交えて山に入った。

集落のはずれにはちょっとした沢が流れていた。いつも猟に入るにはその沢に添って先頭に鉄砲を持つものを立てて、雪を踏みしめながらゆっくりと歩いて行く。

沢には多くは無いがいつも水が流れていたので、ところどころが雪が融けて大きな穴となり、下から笹や柴木が顔を出していた。そこにも足跡がついている。沢の中を歩くのはヤマドリで餌を求めて歩き回って、モミジの葉のような跡が入り乱れていた。

さらに行くと沢の両側が狭くなり次第にV字のようになってくる。親父さんは私に撃たせようとして先頭に立たせてくれた。「24番の鉄砲」に3号の弾を詰めて腹まである新雪を踏みながら進んでいった。

沢に口をあけた穴を通り過ぎようとした時に、バタバタと大きな羽音がしてヤマドリが逃げた。これも慣れないと羽音の大きさにただびっくりして呆然と見送ることになる。

胸に抱いていた鉄砲を構えると狙いもそこそこに引き金を引くと、まるで絵に描いたシーンのように放物線を描いてヤマドリが落ちて、雪に深く突き刺さっていた。

ヤマドリを撃つのは初めてではなかったが、これまで一度も当たったことが無い。何でか解らないがヤマドリは踏みつけられる程近くに行くまで飛びたたない。油断している所に耳元でものすごい羽音がするから撃つまもなくびっくりして見送ったことの方が多かっただろう。

幸先よくメスのヤマドリを1匹捕まえた。さらに両岸は狭くなり木々は頭上に枝を広げている。雪はますます深くなっていた。

右の斜面から雪でも転がったのかわずかなへこみが来ていた。枝から落ちた雪が急斜面を転がったのだろうと気にもせずに通り過ぎたら、後ろに居た親父さんが「これは狸の跡だ、水を飲みに往復してそれに雪が積もったのだ」と云った。

凹みと云ったって見過ごすほどの僅かなものだったし、幾ら見てもこれが狸の歩いた跡とは信じられなかった。「本当だろうか、これがかー」と云ったが、他の皆も狸だと言った。

親父さんはタヌキはどんなときにも1日に一度は水を飲まなければならないのだと言った。斜面の4~5m上を掘ってみると大きな楢の木の根元が有った。木は一度斜面に沿って倒れてから立ち上がっていて、大きく曲がったその部分に洞が有った。

狸はその穴に隠れていたのである。かわるがわる覗いてみると穴の奥に狸の尻の毛が見えていた。手の届くすぐそこに居た。「これでは近すぎる、鉄砲で撃ったら半分は吹っ飛んでしまうだろう、手を突っ込めば噛まれるし、はてさてどうしたものか。時間が掛かるが家に戻って『とら鋏』でも持ってくる他無いな。」

そう思っているといつの間にか親父さんは、細長い木の枝を鉈で切り取って持っていた。長さが1.5mも有ったろうか。太さは2~3cmぐらいの生木であった。

「これであのタヌキは捕ったようなものだ」と言ったのである。火かき棒じゃあるまいし狸を掻き出すわけには行かないだろう。訳が分からなかった。親父さんは枝の真ん中辺に膝を当てて、バリバリと半分に折り畳んだ。

そしてささくれ立った先を前にして穴に入れて、タヌキの尻にぐっと押しながら、何度も何度もねじっていた。しばらくねじっていたがそのまま手前に引くと、向こうを向いたまま狸がずるずると引き出されてきた。

随分暴れていたが、いくら逃げようとしても枝の先に絡まった毛はびくともせず、それで一件落着であった。この前の足跡を追った時も感心したが、こんな思いもつかない獲物の捕まえ方をいつこの人たちは身に着けたのかと思う。

明治や大正ではないだろう。弥生時代か縄文時代かあるいはもっと以前かも知れない。こんな人の知恵を超えた離れ業が有ったとは、矢張り自然の中で学ぶことは面白いし多くの教えが有る。

その日の夜には親父さんの家で大宴会が始まった。猟に参加したものまたしない者も、当然のように一升瓶をぶらさげて集まってきた。モロミの入ったどぶろくを飲み大きな声を出して夜遅くまで話し合った。

暗く長い冬も、「この一日だけ」は明るく楽しいストレス解消の日になった。