昭和30年3月30日の日暮れ近くだった。地元の高校受験に失敗した私はある高校に入学を頼みにゆくことになって、その学校に案内してくれた山大の先生と母と私の3人が、米沢と新潟県の坂町を結ぶ米坂線の伊佐領という駅に降り立った。
駅の周辺は春の固い雪がまだ30cmも残っていた。この辺一帯は山形県一の豪雪地帯として知られている。3人はその雪の上を歩いて8km先にあるキリスト教独立学園に向って歩き始めた。
人一人が歩くだけの細い雪道は、片側は山でもう一方は2,105mの飯豊山から流れてくる大きな川が流れていた。雪融け水を集めて轟音と共にはるか下を流れていた。
途中で人とも出会わずただひたすら歩き、1時間半が過ぎてようやく人家が見えてきた。今はダムの底に沈んでしまった市野々という集落で、村役場が有ったほどだから村で一番戸数が多かったのだろう。
「ああーやっとたどり着いたかやれやれ」と思ったら、案内してくれた前野先生はまだ奥だと言った。駅に降り立ったのが4時ごろだったから人家にはもう明かりが灯もっていた。
更に40分ほども歩いて山の裾を回ったら暗い山路にまた灯りが見えてきた。川に架かる橋のたもとに寂しいと言うよりも暗い感じの建物が1つだけ建っていた。「ここです」と云われてみたが、私の想像するような高校の校舎は見えない。
杉の木の皮で葺いた屋根、古びた板で囲われた建物は酷いくたびれようで、どう見ても10年も20年も使われずに放置された納屋にしか見えなかった。
そのあたりは固い雪が増して1mもあり、雪よけに入口に作るトンネルをくぐって建物の中に入っていった。
左にヤギが飼われて居て異様な匂いがしている。そして右側には汲み取り式の便所が有った。両方とも恐ろしく臭い代物である。
ここが学校の正面玄関であった。「ものすごい所に来たものだ」と思ったが、何だか得体のしれないものが体の中で騒ぐのが感じられた。歩くたびに床板がガタビシと音を立てた。低い天井から裸電球が一つぶら下がってその下に木の丸いテーブルが有って、先生方が5人囲んで座っていた。
先生方は私たちが来るのを待っていてくれたようだった。5人は山の奥に来たのとは反対に、ある種の近寄りがたい品に満ちた雰囲気を漂わせていた。それにしても中も外もどこを見まわしても貧乏と老朽のそのままだった。
度を越した貧乏さがたまらなく嬉しかった。直感でここは俺の来るところだと感じた。「体中が喜んでいた。」貧乏さも、がたびしも障子の破れも外の雪も皆嬉しかった。
ここでコーヒーが出され飲んでみたが、味が薄くコーヒーの様でもありまた違うようでもあった。何だろうと思ったら校長の奥様が「大豆を焼いて引いたコーヒーです。甘みはサッカリンを入れました」と説明された。
サッカリンと言えば、今は発がん物質に指定され口に入れることは出来ないが、当時は普通に売られて誰の手にも入った安価な甘み料だった。砂糖と違う初めての苦い甘みになじめず二口目は飲むことが出来なかった。
一緒に行った母はあまりのぼろぼろさに不安になって、しきりに「大丈夫か、大丈夫か?」と私に尋ねた。こんな所に一人息子を預けられないとでも思ったようだった。しかし私は「何でもねー、何でもねー」と答えた。
校長はもう定員になったが屋根裏に5人部屋が有る。無理すればもう一人分布団が敷かれるだろう。仕方がない入れてあげましょうと言ってくれた。
その夜母と布団を並べて寝たがえらく寒かった。朝起きてみたらガラス窓が破れていて雪が吹き込み。私の枕元に雪が3cmも積もっていた。
いくら昭和の30年とは言え、日本中を探しても、あれ程の老朽化した貧乏高校は他にない。私はここで世にも不思議な高校生活を3年間過ごした。
これまで語ってきた狸捕りやら、バンドリ撃ちやらはこの時の体験談である。