月別: 3月 2013

提灯行列の思い出

独立学園は、今は「才の神橋」から入ったずーと奥の方に建っているのだが、あの頃の校舎は横川に架かる橋のたもとに建てられていて、大雨で増水すると、濁流が校舎の土台石を洗うこともある程、河の側に建っていた。

才の神橋

才の神橋

 

昔そこに学園が建っていたことを御存知の方々もいると思うが、とても学校とは思えないほど粗末な校舎だった。

そこで私は三年間を過ごした。だから、私の胸の中にある独立学園の思い出は、全て古い校舎の時のものである。

国鉄の伊佐領駅から8kmの道は歩く他に交通手段は無く、道は下叶水を通って独立学園までは一本道、ここで道が二つに分かれて橋を渡って奥の方に行けば、上叶水、大石沢に行くことが出来る。橋を渡らずに山添いに奥に行けば新股、川原角、滝と言う集落が有ってそして飯豊山の登山口とつながっている。丁度2本の道の合わさる所に学園が建っていた訳である。

下叶水の集落

下叶水の集落

 

あの校舎は、元鈴木校長御夫妻の自宅として建てられたもので、学校として使うにはかなりの無理があったのだが、それは又それで、独立学園の目指す教育をする場としては、本当に神により与えられた、これ以上を望むことが出来ないくらいの舞台となっていた。

その粗末な校舎の二階に、三年生の教室として使われていた学園で最も大きな教室があった。

四十人近い全校生徒と、十名程の教職員が集まる事が出来るので、朝礼とか一年生から三年生までの合同の授業の時間や、寮生が就寝前九時に夕拝をする時など、人が多く集まる時には、その教室が使われていた。

三方向が窓になっていたので、その教室からは、外の景色が本当に良く見えたのであった。

校舎の下を流れる横川の中を泳ぐハヤが、一匹一匹良く見えて、すぐにでも裸になって河に潜って捕りに行きたくなるものだった。遠くに見えるサルッパナとかシゲ松の山は、季節によって色が変わり、いつも美しく見えていた。校舎が道よりかなり低い所に建っていたので、二階の教室と道路の高さがほぼ同じ位で、橋を渡って学園の前を通る人の姿が、手が届くほどの近さで実に良く見えていた。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

中央奥がサルッパナ。標高1,000mある。

 

いつも伊佐領から、塩ホッケとか、練り製品とか、調味料とか、その他いろいろなものを背中に背負って売りにくる行商の叔父さんとか、ブナ材を積んだトラックがゆっくり通って行った。上叶水の顔見知りの人だったりもした。ある時は熊を撃ったが逆襲され、返り討ちに合った人が全身包帯巻きでリヤカーに乗せられて行ったときもあった。

冬になると、雪の中を川原角の方から俵詰めにされた木炭を背負い出す集団が通る。男性四~五人に女性が同じ位混じって、皆が二俵づつ背負っていたが、中には一人だけ大柄な男の人が三俵背負っている姿も見えた。何かお互いに声高に笑いながら楽しげに話し合い、いつも決まった時間に通っていった。

いつだったか、伊佐領に出る道が崖崩れで、トラックが何日も止まった時、7kmほど奥の「滝の集落」から鉄道に使う大量の枕木を川に流して運び出していたこともあった。水量はそれほど多くはなかったので枕木はあっちの石、こっちの岩かげにと引っ掛かり、止まったり、道草を食いながら流れてゆく。それを何人もの男達が川の中を石から石へと跳び移りながら、「トビロ」で押したり引いたりしながら流して行った。

私は勉強が苦手だったので、授業中、良くそんな光景を眺めていたものだった。雪のない季節ならトラックが走る道路も、冬になると雪が三メートルも積もるので、雪の道は人一人が通れるだけの細い巾しかない。誰かとすれ違う時は、どっちかが道の脇によけて、もう一方が通り過ぎるのを待っていた。

学園で初めて迎えた冬のことだ。雪が深く積もっていたが、あの日も一日中降り続いていた。

雪に埋まった学園の正面玄関

雪に埋まった学園の正面玄関

 

夕食が終わってしばらくしてからのことだった。二階の教室に居る時、上叶水の方から橋を渡って近づいてくる提灯を持った10人ほどの集団が見えた。

その一団が学園の前に来た時、先生だったか、あるいは上級生だったか、良く覚えていないが、誰かが出て行って、提灯行列の人達と何か話していた。やがて学園の中が急に殺気立ち、あわただしくなってきた。寮生が思い思いに、防寒着に着替え始め、外出の準備をし始めたのだ。

一年生の私には何が始まったのか分からなかったので聞いてみると、外の提灯行列は急病人を伊佐領駅まで「ソリ」に乗せて運び、汽車に乗せ小国町の病院へと連れていく為のものだった。

雪の深い冬に、病人を川添いに八キロメートルもソリに乗せて運ぶのは実に大変なことだ。ソリの巾に踏み固める人数がないと進めない。そして五~六人のソリを引く人と、押す人又、それらを時々交替する要員と、人手はあればある程良い。多い程早く伊佐領に行き着けることになる。

私は初めてだったので、その日がどんなにつらい重労働になるのか良く分からず、人助けに出るのだという一種の使命感というのか、寮生が多く参加するという安心感もあって、お祭りが始まるような興奮した気持ちになっていた。

三列になって並んで、十人くらいがカンジキで雪を踏み固めて道を作ってゆく。その後ろをソリが引かれてゆく。

下叶水から下って田圃が終わったあたりからが難所である。川の右側の斜面が切り立っていて、わずかに歩く所だけが平らになっている。川の巾も狭くなって急斜面が山の方から川迄続いている。ここはナダレの名所だった。雪は固くなり踏みつけるだけでは道が出来なかった。シャベルで掘って道を作っていった。

今となっては、あの難所の一帯はダムの下に沈み見ることがかなわないが、ダムをまたぐ新しい橋が出来ているので車を止めて見下ろすことが有り、眼下に広がる山並みとダムの水面に遠い昔が甦ってくる。危なかった道が水面下に続いていたのは記憶の中にしか甦ることが無くなってしまった。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

ダムにかかる橋から見下ろした山並みと湖面。右の崖に伊佐領までの道が有った。

 

あの頃は、3km下流の市野々の集落近く迄急斜面が続いて苦労したものだった。

学園を出て初めのうちは皆元気が良く足を高くあげ、勢い良く雪を踏んでいたが市野々に着く頃は声を出す者は一人も居なくなってしまった。

村の大人の人達も、学園生も疲れてしまったのだった。それともうひとつ空腹だった。雪の中を何時間も歩くことを深く考える人が居なかったのだろう。又、そんな余裕もなく飛び出してきたので、食べ物を持ってくるのを忘れたのだ。大人達も、誰も食料を持っていなかった。市野々を過ぎると、又、大曲の所迄、川添いの急斜面を行く難所だ。更に5km先の伊佐領めざして物言わぬ提灯の集団が進んでいった。

そんな時に学園生の中の誰かが歌い始めた。すると不思議なことに、何と不思議なことに体に力が入り元気が出るのだった。

歌というものは本当に不思議だ。聞いているだけで、別に何か食べた訳でもなく、何の変化もないのに元気が出るのだ。

歌い終わると誰かが歌い継いでいった。

歌声が続いている間はあまり空腹も感じなかった。

歌が途切れると、村の大人から「歌ってくれ」と声が掛かった。大人達は何も言わずに聞いていたが、皆同じように疲れていて、歌声を聞いて元気を出したかったのだと思う。そうして学園生が賛美歌を歌いつないで、伊佐領の駅に着いた。

雪の伊佐領駅

雪の伊佐領駅

 

夜の十時は過ぎていたと思う。駅のストーブにあたって暖かくなり、そしてみんなで駅前の食堂が作ってくれたラーメンを御馳走になった。

伊佐領までの重労働のお礼がいっぱいのラーメンだった。しかし誰もそれ以上のものを求める人も居なく、不平を言う者も居ない。ごく当たり前の様に戻り始めた。

帰り道も又疲れて、疲れて、早く学園に着いて眠りたい、それだけが頭の中を占領していた。

頭も体もボーと思考力を失い、夢遊病者のように歩いていた。帰りは道が広々と出来ていて、歩き易かったのが救いで、力強くは歌えなかったが、誰かが歌い終わると次の人が歌い、いつの間にか順番が出来て、次から次へと歌がつながっていった。

私も歌ったが、何の曲だったかは思い出すことが出来ない。

こうして一年の間に三回位は、提灯行列に加わって伊佐領駅迄行って、病人を汽車に乗せて小国へと送り出していた。

いつも、ふいに提灯行列がどっちかの道から現れて学園の前に来ると、思い思いに仕度をして、参加したものだった。

学園生も全員が参加するのではなく、行かない人もあれば、毎回必ず行く人もあり、それは全く自由だった。

村の人から頼まれた記憶はない。何時の間にか出来上がった学園の伝統だったのだと思う。

スキーで足を折った学園生を運んだ事もある。

先生方は、私達が参加することを別に止める事もなく、自由にさせてくれた。

今思うと、他人の為に何かをする時、代償を求めずに一生懸命頑張るという、学園の教育だった様にも思うのであった。

 

 

50年前は大人が50円だった

ついこの間沖縄の「美ら海水族館」に行ってきた。こちらを出たのは2月の25日だったが、気温はマイナスでものすごい吹雪と冷え込みの中だった。

3時間の飛行の末に沖縄に降り立ってみたら、夏のような強い日差しが照っていて気温は23度、暖かいを越して厚着した体は燃えるような暑さに参ってしまった。

気温の差を覚悟はしていたがこれほど大きいとは、やはり経験して見ないと到底分からない。

翌日は予定通りに美ら海水族館に行った。職員に温かく迎えられて楽屋裏から案内された。これは同じ水族館屋同士としては表よりも裏が気になるもので、其れを配慮しての案内であった。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

バックヤード(裏側)を案内してもらう。

 

いきなり覗いた巨大なプールでジンベエザメに出会う事になったが、実は行くまでに想像していたのはもう少し規模も、感動も小さいものと思っていた。

7500トンの水槽を、新加茂水族館の径5mたった30トンのクラゲ水槽で負かしてやりたいものだと思っていた。しかし実物を見て唯々あきれて立ち尽くす他無かった。さすがに美ら海水族館のジンベエザメ水槽はすごかった。

 

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

ジンベエザメを見上げ、立ち尽くす私。

 

あれを負かすことは到底できっこないと悟った。が、しかしこっちは同じ土俵で比べてはいけない異質な水族館ではないか。別の角度から見たら違う評価が出来るのではないか。

向こうは国策で作った巨大な施設だ。こっちは地方の小さな市が背一杯の努力でやろうとしている小さな施設だ。しかしこれまでにない全く新しいスタイルを持った水族館をこの世に誕生させようとしているのだ。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

美ら海水族館でもクラゲを飼育している。

 

この辺の心意気はまあ評価されても良いのではないかと思う。美ら海水族館の内田前館長は古い友達でもあるし気のいい魅力ある男である。向こうは誰しも認めるトップを走る超一流どころ。こっちは1周遅れのビリランナーだがゴールするときは一緒だ。どうだ参ったかわはははははー。

沖縄から帰って5日ぶりに出勤してみた。外では急ピッチで新水族館建設工事が進んでいる。まだコンクリートは打っていない。基礎の鉄筋が林立してちょっとした竹林のような眺めになっている。これが年末には水族館として殆ど出来上がっているのだから、早いものである。

現在の新水族館建設現場の様子

現在の新水族館建設現場の様子

 

そしてこの4月18日が、昭和39年にオープンしてから数えて「50回目の開館記念日」に当たる。1年後の50周年は閉館中だし兎に角今年は50年だから、大きな節目に当たるので何か面白いイベントでもやろうと思いついた。

9名いる飼育担当に「何か考えろ」と丸投げしたら結構面白いアイデアが出てきた。こんな時には固いものはまずやめた方が良い、聞いた時に思わずクスリと笑えるようならそれは誠に「賞賛に値する良いアイデア」だ。

いろいろ出された中で私が笑えたのは「開館当時の入館料金で入館させたら?」というしろものだった。

記憶の薄れた頭で考えているうちに、開館した当時大人の入館料金が50円だったことを思い出した。中華そば1パイが50円だったからこの小さな水族館の評価はその辺が相場だったことになる。

50年近い月日が流れたのに思い出せたのは、それだけ印象に残る思い出が有ったからだ。今は無いがあのころ入るとすぐ左の壁に沿って、ちょっとしたコンクリートの池が有った。

床から70cm程縁が立ち上がっていたから、見る人は少し前かがみになって覗くような姿勢になる。この覗く姿勢が思い出させてくれたきっかけだった。

この水槽は底面ろ過になっていて底砂の上に錦鯉や90cm程もある雷魚が泳いでいた。これを見るために覗き込むと何が起こるか・・・ポケットから小銭が滑り落ちるのである。そして底砂の中に消えてしまう。

この水槽の掃除の度に砂の中から出てくる10円玉が楽しみであった。50円拾えば中華そばが食えたし、30円なら半中華が食えた。

これを思い出したので当時の入館料金が分かったと言う次第である。ちなみに学齢以下の子供は今は150円だが当時は無料であった。

4月18日を記念して、49年前の入館料金で入って頂こう・・・という計画が進んでいる。

 

不思議な高校生活を書き始めた訳

58年前の「不思議な高校生活」の事を書くきっかけは思いがけない所からだった。業界紙を出していた友人の田井さんから依頼されて「どうぶつえんとすいぞくかん」の古賀賞特集に原稿を書いたことだった。

高根の花だった古賀賞を戴いたのは本当だから、賞にまつわる思いを書いた後半に、破天荒な高校時代の生活が業界で最高の賞につながったのではないかと続けたら、のぞいた人から面白いと言う声が結構多く寄せられた。

それではもう少し思い出してみるかと、今度は「館長人情ばなし」に高校生がやっちゃいけない鉄砲うちの話を書いたらそれがまた多くの興味をひいたらしい。「館長面白い」と言われしばらく続けてみる気になった。

そんな訳で、そもそもの始まりをこの辺で紹介するべきと思い「どうぶつえんとすいぞくかん」から話を持ってきたので見て頂きたい。年を取ると誰しも昔の思い出話をしたくなるものだ。私の思い出が尽きるまでもうしばしお付き合いいただきたい。

 

古賀賞は破れかぶれの末だった

古賀賞は業界で最高の賞だが、受けるものの喜びにそれぞれ違いが有ると思います。通ってきた過程、すなわち敵の弾の下をどれだけくぐって来たかの差が、そのまま喜びの差になるのではと思います。

加茂には何もなくしかも小さく古い施設でした。協会の中で最も賞に遠い存在だったと言えます。オキクラゲの繁殖で申請はしてみたものの自信は持つことが出来ないでいました。

2月末に小宮会長から内示の電話があり、「今年の古賀賞は貴方の所に決まりました」と聞いた時、勝手に体が震えて止まりませんでした。考えるよりも先に体が反応していました。

どんな選考の話が有ったのか分かりませんが、見捨てられたような存在だった加茂を選んでくれた小宮さんはじめ、選考委員の皆様にはいつも感謝しています。

受賞後時間が経過して漏れ伝わってきた話では、選考会で希少な生物の繁殖に寄与したこととは別に、ここで取り組んだ「クラゲを食べること」と経営を組み合わせて、何とかどん底から立て直しに成功したことが大きな話題になったとか。

確かに宣伝のために秋口になると泳いでくる「クラゲを捕まえて食べる会」を開いたことが有りました。スナイロクラゲとエチゼンクラゲを使ってシャブシャブとか、姿作りクラゲ寒天とか、ナタデココ風クラゲココとか馬鹿馬鹿しい事を考えて実行しました。

これが大きな効果を生んで日本中に流れて、加茂のクラゲ展示も広く知られるようになりました。その後クラゲ入り饅頭と羊羹、エチゼンクラゲ定食、クラゲウインナーコーヒーなど次々に売り出しては大きな話題になりました。

クラゲ入り饅頭と羊羹はみのもんたさんが「めくり切り」してくれたり、別の番組ではテリー伊藤さんがクラゲアイスを食べながら旨いとか言ってくれたりで、これが何億もの宣伝効果を生み、お陰様で入館者がどんどん増加していったと言っても良いでしょう。日本中でエチゼンクラゲの出現に大騒ぎをしていたときに加茂では捕まえてきて食べていたのです。

誰も力を貸してくれなかったが知恵を出して入館者を増やし、増えた収入をクラゲの展示拡大にすべてつぎ込みました。そして地べたを這うようにして少しずつ評価を高めていきました。おかげで何とか必要な資金を全て自力でまかなって来れたことを誇りに思っています。

何で私ばかりがこんな馬鹿馬鹿しい事を平気でやれたのだろうと不思議な気がして考えたことが有りました。思い当たる節が無いこともなく、高校時代に不思議な学校生活をすることが出来たことを思い出しました。山形県の山奥に全校生徒が40人足らずの小さい高校が有り、雨がぼたぼた漏るぼろぼろの校舎でした。

入学式の日に校長は不思議な事を云いました。「勉強するな」と言ったのです。此れには前置きが有りました。「大学を受験するための」と。そして高校生に「酒を飲むな、たばこを吸うな、嘘をつくな」と約束をさせました。それ以外に制約らしいものは何もありませんでした。

しかし勉強をしなくていい事には変わりなく、勉強嫌いの私は3年間授業以外に1度も勉強しませんでした。実にのびのびと過ごすことが出来ました。生徒から県立並みの授業料しかとらなかったので、赤貧洗う如しの貧乏学校でした。「明日食べるものが無いどうする。」「その辺から山菜をとってこよう。」「かぼちゃの葉も食えるそうだ。」「サツマイモの葉も旨い」となんでも食べました。魚捕りは名人級の腕だったので、校舎の脇を流れている大きな川から魚をいっぱい捕まえてきて、皆のおかずにしました。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

魚捕りの合間に。前列中央、ヤスを持つのが私。

 雪の季節になると3mを超す積雪が有って皆スキーをしたが、私は近くの農家のおやじさんから鉄砲と弾を借りてきて、日曜日になるとウサギやヤマドリ、タヌキやムササビなどを撃って捕まえ食べていました。いつも腹を空かしていたのです。

夏のある日、鉄砲を貸してくれる親父さんからダイナマイトをもらい、深い淵で爆発させて魚捕りをしたことも有りました。夢幻のようなあの3年間がこの小さなどうしようもない水族館に古賀賞をもたらしてくれたのかも知れません。