眠りの浅い朝方に見た夢のような気もするが・・・いやそうではないあれは本当の出来事だった。2013年10月21日、半蔵門の駅近いビルの7階だった。
大きなテーブルを挟んで私の向かいにその方は座っている。年のころ84~5歳か。緊張しながら座る私がまるで自分の孫でもあるかのように穏やかな微笑をたたえていた。
本当はこうして私と向かい合っていることなど有りようのない雲の上の方だった。光り輝く太陽かはたまた雪を頂いたエベレストの山頂か、兎に角近寄りがたく有り難い、とてつもなく大きな存在だった。
その方の前に一冊と私の前に一冊、クラゲの写真集が開かれている。そして私が少し庄内弁の訛りが入った言葉でそのお方に説明していった。ほとんどのクラゲにこの17年間の思い出が詰まっていた。
このお方と私が、対談をしてそれを本にすると言う企画が持ち上がり、向かい合って座る事になったのだが、これはどう見てもとんでもないミスマッチであるのは間違いなかった。しかしいつの間にか時間は流れてその日が来て、こうして向かい合っているのだから世の中何が起こるか分からない。
写真集の何処を開いても語る言葉は尽きなかった。
「このクラゲは貧乏の極みで出会った救いの神様です。これに出会わなかったら今の加茂水族館は有りません。」「難しいクラゲの飼育の中で例外的に簡単で、放っておいても繁殖もします。」その方は椅子を少し横向きにずらしてじっと聞いてくれた。
この方とは元々は何の御縁もゆかりもない人だったのだがちょっとしたことから交流が始まり、その後は思いがけない展開が待っていた。
平成20年10月8日夕方だった。下村脩先生がオワンクラゲの発光物質(GFP)を純粋な形で取り出した功績が評価されて、ノーベル化学賞を受賞されることに決まったニュースが日本中を駆け巡った。
私はこのニュースに大きな感動を覚えた。事の大小は比較しようも無いが向こうはクラゲでノーベル賞に、この小さな水族館はクラゲで経営の危機を救われた。
クラゲのノーベル賞は自分の事の様に嬉しかった。そして感激した。その思いを手紙に書きアメリカの先生宛に発送した。この小さな1歩が今に及ぶ交流の始まりになった。翌々年の4月には加茂まで来てくださりそしてまた今日の対談につながっていった。
それにしても下村先生はなぜかこの小さな水族館に大変優しかった。ノーベル賞を受賞された直後日本中のみならず世界中から講演依頼が有った中で他を断ってまで来てくださり、折に触れては震災の影響を心配して下さり、新水族館の工事の進捗状況を尋ねたり、大雪が続けばメールで励ましてくれたりしている。
この度の対談はPHP新書が「先生と私がクラゲ談義に花を咲かせて、それをもとにクラゲの手引書を出版する」という企画を立てたときに、いち早く承諾をして頂いた。先生のご承諾が無ければ泡と消えていた企画である。
ノーベル賞の大先生と日本一小さな水族館の館長という組み合わせは、だれが考えても有りようのないものだった。
私の緊張をよそに、12時半に始まった対談は10分ほどの休憩が有っただけで夕方の5時15分まで続いた。先生は「この所時差ボケが取れなくて熟睡が出来ない」と言いながら最後まで穏やかな表情は変わらなかった。
来年の7月ごろに出版予定だと聞いているが、私にとって二度とこんな名誉なことは無いだろう。末代までの誇りだしそろそろ仕事人生も終着駅が見えてきた老館長に最高のエールになりそうだ。