年別: 2014

停電てーものも昔は辛いものだった

電気と言うものは有難いものだ、これが有るから加茂水族館も快適にスピーデイな仕事が出来る。

この建物に移って来てから9月末まで半年間停電は1度も無かった。初めて経験するオール電化は冷房も暖房も快適で、夏は暖房、冬は冷房の古い建物が懐かしくなるほど違ってしまった。

事務室に居ながらにして監視カメラの映像を見ながら、細かく区分けされた館内の通路や、施設ごとに温度管理が出来るようになっている。私の様なコンピューターに弱い年寄りはどこをどういじれば調整が出来るのか幾ら見てもさっぱり分からない。何かあるたびになれた若い職員を呼んでやってもらう他ない。

これ1台で館内の温度管理が出来てしまう。便利な世の中になったものだ。

これ1台で館内の温度管理が出来てしまう。便利な世の中になったものだ。

 

夏休みの混雑はすごかった。特にお盆休みに入ったら出勤するのが怖くなる程に多くのお客様が来てくれた。連日1万人を超える入館者が有ったのだから、もうどうにもこうにも捌ききれるものでは無かった。

入館を一時止めて館内が少し落ち着いてから再び入ってもらったことも何度も有った。こんな日は館内の温度設定が難しい。身動きが取れないほども入った人の熱気で室温が上昇して、うっかりしていると酸欠になりかねない状態になる。

毎日冷や冷やものだったが館内を時々回っては身をもって体感し調整を繰り返すのが日課になっていた。8月は3000人以下の日がたったの2日間しかなく18万人に近い入館者が有ったのだからご想像頂けるかと思う。

しかしオール電化だったので、もしも停電が有っても発電機が自動的に稼働して、クラゲや魚などに必要な電気を賄うようにコンピューターに全てがインプットされているはずだった。

新水族館の発電機。非常時の心臓部である。

新水族館の発電機。非常時の心臓部である。

 

それを確かめる事故が10月14日に起きた。

下村脩先生がアメリカからこの加茂の地まで来てくださった日だった。あの日は台風が通過していて、羽田からの飛行機が飛ぶか皆が心配したくらいに大荒れの日だった。館内を私が案内してクラゲの新しい展示を見て頂き湯野浜温泉の宿までお送りした直後に停電が起きた。

台風は予定よりも早めに通過してもう風も雨も収まっていた。何で今頃にと思ったが館内は真っ暗闇になってしまった。たが昔とは違いオール電化だったから驚かなかった。

自動で発電機に切り替わり生き物には十分な配慮がされているはずだ。皆が落ち着いて事務室でお茶を飲みながら回復するのを待っていた。

やっと復旧したのが1時間後で明かりがついてみたら、何と自慢の「クラゲ大水槽」の水流が止まって見事にクラゲが底に淀んで折り重なっていた。クラゲは自力で泳ぐ力が弱いので海流に乗っている。

水槽では無限の流れの代わりになるのが、ゆったりとした回転だった。

これが止まればクラゲは水槽の底に沈んでしまう。そして時間がたてば全滅してしまう事になる。この度は1時間で復旧したからダメージは少なかったが結局3分の1ほどは傘に痛みが出て取り上げざるを得なかった。

本来動かすべきところに電気が行かずに、要らないところのポンプを動かしていた。設計者が勘違いして設定を間違えたことから起きた事故だった。クラゲの展示は常に危険をはらんでいると言える。

発電機と言えばまた頭に浮かんだ遠い昔の出来事が有った。おぼろげな記憶をたどってみると昭和50年頃ではなかったろうか。旧水族館には発電機らしきものが無かったのである。

館内の水槽がすべて底面ろ過方式で循環のポンプが無いのだから、発電機はいらないと判断したのだろう。可動式の小さな発電機が有って停電時には圧力送風機のポンプだけが動けば魚を殺す事が無いと見たのだろう。

その小さな発電機が故障していたところに停電が起きた。雪の舞う荒れた寒い日だったから12月か1月だったと思う。夜中の2時ごろ依頼していた警備保障会社から電話が有った。

停電の際には私にまず連絡が入る仕組みになっていた。吹っ飛んでいって回復を待ったがなかなか電気は来ない。何もせずに持たせるのは1時間が限度だった。

仕方なしに海水魚の水槽の裏に回った。バケツで水を掬い上げては水面めがけてザザーっとぶちまけて少しでも酸素の補給をしようとした。13ある水槽をただ黙々と水を掬ってはぶちまけて回った。

今は魚もいない旧館で再現してみた。夜通しこんなことはもうとても出来ないだろう。

今は魚もいない旧館で再現してみた。夜通しこんなことはもうとても出来ないだろう。

 

こうするほか魚を生かす方法が無かったのだ。なかなか電気は来なかった。ついに夜が明けてきた。思えば私も若かった。今の私にはそんな力はもうない。体力が良く持ったなーと思う。

その事故が有ってから中古の発電機を買った。しかし全館を賄うだけの容量を持つ高性能の発電機は買えず、3つに区分けをして30分ずつ切り替えることでとにかく魚を殺さずに生かす事が出来るようになった。

とにかく停電だけは勘弁してほしかった。

とにかく停電だけは勘弁してほしかった。

 

あのどん底が有ったからオール電化の今が有るのは本当だが、思えばあそこはひどい作りだった。あの小さな水族館には泣かされたものだった。

 

世の中ってのは~面白いじゃないか

この間アクアマリンふくしまからマイクロバスを仕立てて、外国の水族館館長の一行がやってきた。みなその国を代表するような巨大施設で歴史があって世界的な高い評価を受けているところである。

無脊椎動物の飼育展示では憧れのモナコ水族館の女性館長、大金持ちの父親が娘のために世界一の水族館を作ったと伝説があるアメリカを代表するモントレー水族館の女性館長、カナダやスペインの水族館館長、北京水族館館長もいた。

みな世界を代表するような水族館の館長たちである。

みな世界を代表するような水族館の館長たちである。

 

いずれもどんな巨大な水族館を目の当たりにしても動じないこの業界を知り尽くした方々ばかりだった。なぜそんな方々が出来たばかりとは言え小さな田舎の水族館に来てくれたのか、なかなか理解に苦しむところである。

それはアクアマリンふくしまの安部館長の粋な計らいによるものだった。氏と加茂水族館とは少なからぬ結びつきがある。最初はもう25年も前に二人で渓流釣りを楽しんだのが始まりだった。

どれほど釣れたのか記憶に乏しいがそれほどのことはなかったように思う。2度目は思い切ってちょっとした尾根を越えて人が入らない隠れ沢に行ってみた。やはり人が手を付けていないとなればポイントごとに良いやつが陣取っていた。

イワナ釣りにも最近はあまり行けていない。

イワナ釣りにも最近はあまり行けていない。

 

安部さんは少々腹が出ていてあれでは沢を歩くにも、身をかがめてポイントに仕掛けを振り込むにも旨くないんじゃないかと思ったのだが、以外にも沢に入ると素早い動きを見せてイワナを釣っていた。

かなりの数になったから50以上60ほどの良い型を釣ったと思う。再び尾根に這い上がり車に戻った時には二人ともかなりの満足感と疲労が気持ちよかった。

昔はいくらでも釣ったものだ。

昔はいくらでも釣ったものだ。

あれから10年近い時間がたったがあの沢に入っていない。その後まもなく下手に結構大きなダムが出来て水が溜まりさらに入り難くなった。山に慣れた目で見ればダムで育った大きいやつがあの沢に遡上しておそらくイワナの天国が出来ているであろう。

また二人で行こうかと話すことはあるが、もういい年になってしまった。口はまだ達者だが足も目もいうことを聞いてくれない。

釣りの場面ばかり思い出すが本当に紹介したい「クラゲの縁」を忘れていた。安倍さんが48年前に上野動物園水族館でミズクラゲの繁殖展示を始めたのが、今に伝わる世界中でクラゲを展示する始まりになった。

いつも感謝しているのだが加茂のクラゲ展示の流れを遡ってゆけば、安部さんが源にいるのである。このたびモントレーをはじめ世界各地から来てくれた水族館でもクラゲの展示をしているが、40年以上も前に皆さんが安部さんのところに学びに来て展示や繁殖の仕方を教わったまあ云わば加茂とは兄弟弟子ともいうべき仲間にあたる。

安部さんは4年に一度開かれる世界水族館会議の次の開催館として手を挙げていた。その中間会議が行われたのを機会にわざわざ自前のマイクロバスで加茂まで案内してきてくれたのである。持つべきは友であると感謝している。

世界の水族館館長御一行を迎えての夕食会にて。ふくしまの安部館長と。

世界の水族館館長御一行を迎えての夕食会にて。ふくしまの安部館長と。

迎える我が方の緊張をよそに皆さんがクラゲの展示を見て喜んでくれた。それは想像を超えた姿で歓声を上げて心からの笑顔を見せてくれた。100m続くクラゲ展示の水槽は曲がりくねっていて先が見通せない作りになっている。行く先々の水槽で50種を超すクラゲを熱心に見入っていた。まるで子供に還ったようだった。

見たことのないクラゲが15種いたと数えていた人もいた。11日間のミズクラゲの成長過程を並べたカウンターでも意表を突かれたような驚きようだった。傘の径が60cmにも育ったサムクラゲにも肝をつぶしていた。

2万匹は入っていたであろう「ミズクラゲの赤ちゃん水槽」は、高い繁殖技術を理解してくれた。

きらきらと光を反射して輝く「櫛クラゲ」は飼育が難しいことで知られている。開館以来8種も展示を続けていた。

最後にたどり着いた「5mのミズクラゲ大水槽」では、皆がうわっという声にならない声を発していた。

中東にあるという水族館の1万トンの水槽を見てもこれほど喜んだものか。大きさで競ったとしてもだれも感心はしなかったであろう。目の前のたった40トンのミズクラゲ水槽を見て心を奪われたのである。

ミズクラゲ大水槽を上から覗き込む一行。

ミズクラゲ大水槽を上から覗き込む一行。

 

色々な展示で世界をリードして来た方々の心を捉えたこの小さな水族館の価値は、人の真似でも延長線上でもない新しい価値をこの世に生み出したところにあると思っていたが、この業界を知り尽くした方々だから分かってくれたのだろう。

平成14年に今副館長をしている奥泉を、アメリカのモントレー水族館に視察に行かせたことが有った。向こうのクラゲ展示の素晴らしさに打ちのめされてからもう13年になる。あのショックが目を覚ましてくれた。向こうが「帝国ホテル」だとすれば加茂は「我が家の犬小屋」にすぎないみすぼらしさだと思った。

モントレー水族館のクラゲ水槽。幅7m高さ4mで、日本で作り船で運んだものである。

モントレー水族館のクラゲ水槽。幅7m高さ4mで、日本で作り船で運んだものである。

モントレー水族館のクラゲ水槽。はるか数10mまでも続く!?

モントレー水族館のクラゲ水槽。はるか数10mまでも続く!?

 

その巨大な相手からいつの日か「村上館長、よくここまでやったな」と言われたかった。奥泉と同じ話を何度したことか。その憧れの館長が私に近かずいてきた。「素晴らしいものを見た。また二年後に今度は職員を連れてきます。それまで良い展示を続けてください」と言ってくれた。

モントレー水族館館長、ジュリー・パッカードさんと。

モントレー水族館館長、ジュリー・パッカードさんと。

 

「あの日から奥泉と二人で、貴女のところを目標にこれまで努力をしてきました」と伝えた。

いつかはやってやると努力してきた2人である。

いつかはやってやると努力してきた2人である。

 

努力と多いなる挑戦は願いを叶えてくれたようだ。

 

返す言葉がないとはこのことか

いやこの4か月実にあわただしい思いをした。水族館の開館がこんなに大きな反響を呼ぶとは思わなかった。新しい水族館に寄せる思いは地域の人々のみならず、日本中の人が加茂水族館の開館を待っていてくれたような繁盛ぶりが出現した。

予想をはるかに超えた客が来れば苦情も増える。駐車場も足りず、売店もレストランも対応しきれなかった。すべての面が後手後手に回り混雑して館内が渋滞し、入館のゲートまでも渋滞が続いた。

とにかく入口から大混雑していた。

とにかく入口から大混雑していた。

 

館長自らハンドマイクを片手に「今日は今年一番の込みようです。入館できない人が300mも繋がっています。止まらずにお進みください」と声をかけた。
おそらくはろくに魚もクラゲも見れずに帰られた方が相当数いたと思われる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

この異常な人気はオープンする前からすでに予想されていた様なもので、クラゲ水族館として何度も何度もテレビなどで報道がされたことによるものだったと思う。それも全国的な報道が多かったから効果があったのだろう。

どこの報道も必ず取り上げたのは目玉の5mクラゲ大水槽だった。これは確かに絵になるし取り上げたくなるような魅力がある。これまで世界中のどこにも無かった大きさと中に8,000匹のミズクラゲを泳がせたのが大きな感動になった。

朝開館と同時に魚の水槽の前を250m走って他のクラゲは一切見ずに通り過ぎて、クラゲ大水槽にたどり着いて見入っていた若い女性もいた。「どこから来たのですか?」「東京からです。この水槽を見たくて来ました」と言っていた。

やはり一番の人気がこのクラゲ大水槽なのだろう。

やはり一番の人気がこのクラゲ大水槽なのだろう。

 

この水槽は巨大だといっても水量的には大したことはない。40トンのむしろ小型の水槽にすぎない。お隣の秋田県と新潟県の水族館には最大700トンの水槽がある。福島県には1,500トンがあるし加茂の40トンは比較できないほどの小ささにすぎない。

しかしこの水槽の価値はちょっと違うところにあると思っている。これまでクラゲ、しかもミズクラゲをこれほど大きな水槽に群泳させるという発想は、どこのどなたからも出ていないものだった。

世界中を見回しても同じである。これまでと違う価値の展示を生み出したところが5mクラゲ水槽の値打ちなのである。大いなる挑戦だったがやって良かった。お客様も報道陣も同業者も皆が認めてくれ大きな反響につながった。

まだ目の前に残されている旧水族館にも大水槽があった。深さが3m水量が30トンだった。大きさだけだとクラゲ大水槽とさして変わらない。当時としては深さ3mは日本で最も深いもので、上野動物園の中にあった水族館にある水槽が大きさは比較できないが深さ3mで1番だったのでそれに倣ったものだった。

この水槽には理解できない不思議な作りがしてあった。なるべく大きなガラスをはめて見やすくして感動していただきたいとは、どなたも願うところだが丁度目の高さに「目隠しのコンクリートの帯」がつくられていた。

不思議なつくりの「大水槽」

不思議なつくりの「大水槽」

 

中を見るためには伸び上って上から覗くか、しゃがんで下から見上げるほかなかったのである。なんで目線を封じるような作りをしたのかいくら考えてもその理由は思いつかなかった。

・コンクリートの帯があり、覗く部分が極端に狭い。

・コンクリートの帯があり、覗く部分が極端に狭い。

 

昭和41年はまだ鶴岡市立加茂水族館だったので、館長は観光課長井上行雄さんだった。聞いてみたらこの返事もまた理解できない不思議なものだった。何処の出来事かは忘れてしまったが「ある女性が水槽を叩いたところ、指輪のダイヤモンドで硝子が割れてけがをした。ここは深さも水量も大きい。大事になっては困るので目の高さを隠したのだ。」真顔での返事だった。

「そんな馬鹿な、水族館を建てているのではないか。目線を封じるとは、見せることを封じたということではないか」と思ったが採用されたばかりの26歳の若僧では言葉にできずぐっと飲み込むほかなかった。

翌年水族館は民間の会社に売却されて27歳で館長をやらされる羽目になったが、その15年後に、「観覧俯瞰大水槽」を取り壊しガラスを大きな物に取り換える工事をした。

工事を地元の渡部工務店に依頼して、酒田市の三浦ガラスさんにあつさ11mmの強化ガラスを発注して行った。

深さを1m下げて2mとして冬の間の工事が何とか完成した。3月中ごろに庄内一円に「大水槽が完成しました」と書いた捨て看板を60本立てた。すべては客を呼ぶためだった。

何月ごろだったろう、どこかの親父さんが大水槽の前にいた。丁度通りかかった私に「大水槽が完成したと聞いたのだがどこに有るのですか」と聞いた。「いや目の前にある」とも言えず、「うーんまずまず・・・」とか言ってごまかす他なかった。

新しい大水槽。ガラスは大きくなったが、やはり他所の巨大水槽と比べれば・・・

新しい大水槽。ガラスは大きくなったが、やはり他所の巨大水槽と比べれば・・・

 

水量的にはそう変わらない40トンと、30トンだが価値は天と地の差がある。あのころが夢だったのか、今が夢なのか体験した自分としては落差がありすぎて夢の続きを見ているようなあやふやさが有る。

 

 

真夏は50度にもなった

新しい水族館はオール電化方式が採用されている。立派なレストランが有るが調理のために火は一切使っていない。大きなラーメンの釜も、煮物も焼き物も揚げ物もすべてが電気の力で料理が出来てゆく。

新水族館レストランの厨房。

新水族館レストランの厨房。

 

火の無い台所なんてまるで魔法のような感じだが、実際ボタンの操作一つで温度や調理の時間が変えられて料理が出来てゆく。これまでレストランの台所と言えばガスの火が燃え上がるコンロに鍋やスンドウが置かれて、白衣の男たちが忙しく動き回るイメージだった。

世の中がここまで変わるとは只々びっくりである。なぜ知りもしないオール電化に飛びついたのかこれを紹介するのも館長である私の務めと言うものだろう。

おととしの事だから平成24年の5月ごろだったと思うが定かではない。「館長、東北電力の方が来ました」と言われた。予定もないのに何の用かと思ったが、多分電気料金の事でも説明に来たものだろうと会ってみた。

何だか元気のない印象の薄い二人の男がいた。何事かと思っていると鞄からパンフレットを取り出して「オール電化の営業に来た」と言った。なんだか胡散臭い話だなと思った。

いいかげんに帰ってもらいたかったので、気のない返事をして説明を聞いてお帰り頂いた・・・これが始まりだった。

意外にもその二人の男は粘り強かった。何度か会っているうちに実際稼働している現場を見てくれと酒田市にあるホテルに案内された。ここで目にしたものが信じられないものだった。

整然とした大学の実験室の様なたたずまいで、調理器具らしからぬものが並んでいた。

引き出しがいくつも付いた箪笥のようなもの、ステンレスの本棚のようなものも有った。台所特有のむんむんするような熱気と湯気、コンロから上がる炎とは無縁の実に静かな場所だった。

「火を使わないから台所は暑くならない。」この言葉に感動した。振り返ってわがクラゲレストランの台所はと言えば夏の盛りには50度にもなる大変な職場だった。

旧館の厨房。左側のコンロでがんがん火を焚いていた。

旧館の厨房。左側のコンロでがんがん火を焚いていた。

 

色々工夫をしてみたが温度を下げる事が出来なかった。ここで働くお母さん方はみんな60歳を超すいい年になっている。「みじょけねなー」と思ったし、いい環境で仕事をさせてあげたかった。

「新しい水族館では夏でもセーターを着て料理を作らせるぞー」とこの時に決心した。オール電化と言えば聞こえはいいが調理の設備には結構なお金が必要になる。それも軽食コーナーの分と2か所の設備になる。

金はみんなで稼げば何とかなるだろう。もうそこから先は心配するのをやめにした。

今外に見える小さな古ぼけた建物のレストラン、あそこの思い出は山ほども有る。

平成7年頃だったと思う。売店を拡張する工事をしたことが有った。東京の本社の指示で売店は商売になるがレストランは難しい、レストランを狭くしてその分売店を広げろと言われた。

売り上げから念出する工事の資金は不足していた。工事をしたらレストランのイスとテーブルを買う金がほとんど残っていなかった。思いついたのはリサイクルの業者から買えばうんと安くできる。

ダイ・・・何とかと言う業者の倉庫が赤川の土手のそばにあった。事務の田沢さんとガラクタが山積にしてある倉庫に入り散乱した家具を乗り越え乗り越え探したら、どこかの蕎麦屋からでも引き取ったのかそれらしいテーブルが見つかった。それを6つと合いそうな椅子を24買った、皆で35,000円で買えた。

これを並べて商売したがとても話にならなかった年間の売り上げが600万円にしかならなかったから、誠に恥ずかしい次第だった。

貧乏が極まってくるともう何でもありだった。それから10年後の平成18年に、クラゲレストランに改造し倍に拡大したら売り上げが3,000万円を超えたのだからどん底の5倍になって大いに利益を上げた。

旧館のクラゲレストラン

旧館のクラゲレストラン

連日のにぎわいを見せたものだった

連日のにぎわいを見せたものだった

 

ここでクラゲを食べる会をし、クラゲラーメンを発明し、エチゼンクラゲ定食も売り出した。クラゲアイスは年間1,000万円を超す空前の大ヒットになった。

クラゲのジャムも作ったし、クラゲウインナーコーヒーも売り出した。皆バカバカしいアイデアだったが実行したらマスコミさんが飛びついて来た。

勢いがつくと何をやってもヒットするものと教えられた。アイデア料理を出せばテレビ局がきて全国放送してくれ日本中の客を呼び、売り上げを増やしてクラゲ展示の拡大資金にした。

 

「クラゲを食べる会」にフランスからの取材が来たことも。

「クラゲを食べる会」にフランスからの取材が来たことも。

 

夏には50度にもなったあの台所も新しい水族館建設に向けて力を発揮してくれたのだが、外の建物と共にあと数か月で取り壊される。

 

浪曲 無法者館長一代記

74にもなった老館長が最後の大仕事として、何とかクラゲの水族館を誕生させる事が出来たのだから幸せという他ない。やはりこれ以下ないと言われた小さな水族館だとしても、この道に入ったからには何か新しいものに挑戦してみたかった。

しかしだからと言ってそう簡単に願いが叶うものでもない。27歳で館長になって48年と言う長い年月がかかったが最後の最後に何とかなったのだから不思議なことだ。人様よりも能力が優れていたわけでもない。恥を忍んで言えば落ちこぼれ人生だった。

お金も、人も場所もすべてが不足していた中で、少しずつにじり寄るようにしてクラゲの水族館に近づいて行けたのだから、この世もまんざら悪くないじゃないかと思っている。私は実に付いている。

クラゲの展示が日本で本格的に開始されたのはもう47年も前の事になる。アクアマリンふくしまの安倍館長が昭和42年に浅虫水族館からミズクラゲの繁殖の指導を受けて、上野動物園水族館で8月から展示を開始したのが繁殖通年展示の始まりだと解釈している。

そうなると、この間多くの水族館でクラゲの展示を取り入れ結構な人気を博していたのだが、なぜ他では脇役に押しやられていたのだろうか。

水槽のガラス越しに泳ぐクラゲを見たらどなたでも美しさに見とれたはずだ。クラゲ担当者はもっともっと多くの種類を展示して訪れるお客様を感動させてやりたいと願っただろうと思う。

多くのお客様がクラゲを見に来てくれる。

多くのお客様がクラゲを見に来てくれる。

 

寿命が短いクラゲを通年展示するには難しい繁殖に取り組まなければならないという厄介な仕事が有る。他に魅力のある生き物が展示されていたら無理をする事は無いのだろう。

加茂には他にめぼしい展示がなかったのが他と決定的に違う点かも知れない。クラゲの展示にたどり着いたのは平成9年の事だから、今18年目に入ったことになる。あの時経営を任されていた私は暗い毎日を送っていた。いつも倒産と言う文字から逃れる事が出来なかったからだ。

1万円のものさえ買うのに躊躇していた貧乏のどん底で、クラゲの魅力に憑りつかれたと言っても必要な機材の購入は殆ど不可能だった。何もしてやる事が出来なかった私を尻目に若い職員が創意工夫で立ち向かってくれた。

あるもので何とか工夫をして飼育、繁殖を試みた。

あるもので何とか工夫をして飼育、繁殖を試みた。

 

クラゲの餌になるアルテミアさえ倹約してくれと指示した。真っ暗闇の向こうに見えた小さな光に向かってしゃにむに突き進んだが、すべてが難しくまた初めての経験で何もわからなかった。しかしそれがまた面白かった。

開館まであとひと月と迫った日、館内を一巡り歩いて回った。魚はまだ入っていない。ゴマフアザラシも半分はまだ旧館に居る。

クラゲだけが50ほどの水槽にすべて運び込まれている。見回りの最後の水槽が目玉の5m水槽で毎日ここにきて見るたびに感動を新にしている。

初めてここに来たのは去年の10月ごろだったと思う。コンクリート打ちが終わって型枠が外されてクラゲ大水槽の形が現れたと聞いた。工事用の鉄製の狭い梯子段を上り詰めた向うに5m水槽が口を開けていた。

照明もない工事現場の暗闇に落とし穴の様にして静まり返っていた。「これは巨大だ」と思った。こんな巨大な水槽にミズクラゲをいっぱいにして泳がそうなんて飛んでもない。挑戦すると言えば聞こえがいいが俺はとんでもないものに挑んでいたのではないか。人の書いた数字と文字と出来上がった実物の差がこれほど大きかったとは、計画書を作った自分が震えていた。

足場のパイプや天井を支えるポールの間をくぐりながら何度見に来たことか。そのたびに震えていた。ガラスが取り付けられてまた震え、初めて海水が注入されてまた震えた。

開口部が直径5mだが内部が少し広い作りになっている。奥行きが狭いので水量は40トンしかない。これが新加茂水族館での最大の水槽だった。

上から見た5m水槽。目の前にするとこれほど巨大だとは・・・

上から見た5m水槽。目の前にするとこれほど巨大だとは・・・

 

たった40トンで全国にある多くの水族館の巨大な水槽と競い合ってゆかねばならないことになる。何としてもミズクラゲをいっぱいにして訪れるお客様を感動させねばならなかった。

それにしても高がミズクラゲの繁殖ではないか、何ほどの事も有るまい、今やっている延長線の先に有るだろうと思っていた。今やっている繁殖を規模に合わせて拡大すれば済むと思っていた。

実際やってみるとまるで別次元の仕事だと気が付いた。何度挫折したことか、何千匹と展示していたミズクラゲが一夜にして全滅という事が何度かおこった。

原因不明の繁殖失敗が長く続いたら、やっと1年後に別のクラゲのポリプが悪戯していたという初歩の失敗もあった。「まるで賽の河原の石済みだな」と思った。

新水族館の設計変更が出来ないぎりぎりの所でもまだ失敗を繰り返していた。追いつめられていたが現場の者はあきらめなかった。そしてどうやら日に1,000匹の生産をできるというやり方を見つける事が出来た。

新水族館をクラゲで・・・と、当時の市長に提案したのが平成19年の6月の事だから、あれから7年が経過したことになる。あの案にはミズクラゲ大水槽として100トンを記載していた。勢いだけは今よりも大きなものを持っていた事になる。

最初から万と言う数のミズクラゲをどのように移動して、どのように掃除をするか。これと言う解決策もないままに計画を進めていた。何としてもやりたいという勢いだけが先に立っていたからだろう。

他のクラゲではなく、ミズクラゲだからこそわが手で最初に巨大水槽をどうしても遣りたかったのだ。

C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡  Cミ

これまでの努力は全て新水族館をスタートさせるための準備だったと思っている。むしろ目的の地点に到達したこれからが難しい経営を迫られるのではないか。

しかしここの職員はクラゲの水族館が出来たからと言ってこれがゴールだとは考えていない。やっとスタート地点に立てたのである。ここからの働きが本当の評価につながるのだと思う。

日本がクラゲの展示の元祖だとは先に述べたが、その後の展開を見てみるとすでに世界中でクラゲの魅力を素晴らしいと認め水族館の展示に取り入れている。展示の手法や情熱はむしろ学びに来たアメリカやヨーロッパ、カナダ、香港などが先に行っていると見て良いのではないか。

加茂水族館にも多くの国から見学に訪れてくれた。

加茂水族館にも多くの国から見学に訪れてくれた。

 

しかしそのどこも面倒な多くの種類を展示する方向には行っていなく、その点でも加茂のような50種を超える展示は新境地を開いたと言えるのではないかと思う。

今後はその手法と技術の素晴らしさを武器に世界の水族館仲間に存在を示したいものだ。来年にでもここでクラゲの世界会議でも開催したい。世界中からクラゲの飼育展示を学ぶ者を受け入れたい。そしてクラゲのメッカと言われる存在になりたいものだ。

C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡   Cミ   C彡  Cミ

クラゲの展示で入館者が回復したのは事実だが、急激な伸びを見せたのは平成14年4月鶴岡市に買い取られてからだった。普通なら民間から市に移れば難しい制度が壁となって業績は落ちるはずだった。

加茂が逆になったのはなぜだろう。それを一言で言い表せば無法者館長が難しい制度と真っ向勝負したからだと思っている。館長とは言っても与えられている決済権は50万円まで(のちに60万)だった。

それをこえる工事や設備は市がするという約束だったが、実際はどこも同じだと思うがお役所には金がないのである。ぼろぼろの水族館を市が買い取ってくれたのは嬉しかったが、それを補修したり設備投資をしたり魅力をアップするお金を出す事は無かったのである。

ならばどうしたかと言うと、職員に号令をかけて「皆で一生懸命努力して稼ごう。その金で自分たちのやりたいと思う事を実現しよう」と呼びかけた。皆が必死の努力をしてくれた。

人間の喜びは給料だけではないようだ。自分の思いを実現できるのは何にも勝る喜びとなり、指示されなくても自分から力を発揮してくれる様になる。

稼いだお金を冬の間に投入して春休みのシーズンまでに、クラゲなりアシカショーなり、魚類なりの魅力を少しでも上げようとした。

ここ数年は冬の間どこかを工事していたものだった。

ここ数年は冬の間どこかを工事していたものだった。

 

しかし稼いだお金が権限をはるかに越えていたのである。このお金を使うには制度に従わねばならなかったが。時間のかかる面倒な制度に従えば春になっても手続きさえ終わらないのは目に見えていた。

そこで手続きはせずに直接工事を発注して仕事をやりとおした。制度を守る側との軋轢は当然あったが、このやり方を無理やり12年間続けたから大きな実績を上げることが出来たのだと思っている。

この辺が館長が無法者と言われるゆえんだった。経営の中で大事なのは決断力ではないかと思う。頭が良くて利口でまじめでいい男でもダメなようだ。ドン・キホーテでも結構先に立つものが立ち向かう事で道が開けるのである。どんな制度の中であろうとも実績こそが命ではないかと思う。

(「どうぶつのくに」Vol.64に掲載したものを改編)

 

 

庄内弁が最高

ついこの間の出来事のように感じるが、思い出してみれば平成17年の5月だったから早いもので9年になろうとしている。遠い昔ではないがこれも思い出の一つとなってしまった。

あれは150億円かけてオープンした大洗水族館で行われた日動水協の総会の場だった。総会には会員がおよそ150名参加してそして毎年必ず総裁であられる秋篠宮さまも出席される最高の場面である。
日本全体の各ブロックから一人ずつ6名が登場して居並ぶ園館長に自分のところの取り組みを発表するという企画だったと思う。

毎回行われていた講演会が多少飽きが来ていたこともあって、たまには変わったことをするもの良いのではないか、それぞれの園館が業績を上げるためにどんな取り組みをしているのか、これを聞くのも大いに参考になるだろうとの思惑から出た企画だった。

一番大所帯だった関東東北ブロックからはどこを出したらいいのか多少の議論があったようだったが、規模が大きくて新しく誰が見ても立派だと思える水族館ではなく、苦労の経営を少し建て直しクラゲで世界一の展示を始めた加茂水族館が面白そうだあそこが良いだろうと私が選ばれた。

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「夕陽を見続けた館長」というタイトルも、秋田市の大森山動物園の小松園長より授けられて、俺でいいのかと思いながらも出かけて行ったという次第だった。
規模も内容も協会で一番小さくおまけに築41年とすっかり古くなったわが加茂水族館はどのように見ても存在感は薄く、居並ぶ150名の園館長の中ではどこに在るのかさえ知らない人が多くいたほどで、1番さえない存在だという事は疑いなかった。

私にだって恥を知る思いが有る。居並ぶ園館長の前に立つにはどうにもやりきれない劣等感があった。老朽、弱小、貧乏水族館が聞く人に強い印象を与えるためにはどんな話がいいのか思い悩んだ末に、私が採ったのはバカバカしいほども浮世離れした語りかけだった。
聞く人が理解不明でもいいから堂々と庄内弁で語りかけること、、恥ずかしいなんて言っていないで波乱の運命を余さず聞かせ、ドン底から這いあがる物語を展開する、それもなるべく聞いて楽しくなる内容をふんだんに盛り込む、出来れば大いに笑わせるという作戦だった。

私の前に語った3人の話はいい内容だったがすごくまじめだった。聞いている150名もあまり盛り上がらず反応はそれほど芳しくなかったように見えた。

存在さえも知られていなかった私の話はどなたも期待していなかったと思う。そこに平成9年にどん底を迎えたこと、日本海に沈む夕日が加茂水族館の運命と重なって見えたこと、背負わされた億を超える借金、また本社の借入のために家屋敷を担保にしたこと。
借入れ金を自分の責任で返済すると念書を書かされた事、倒産を覚悟し16代続いた家屋敷を競売にかけられる窮地に立ったこと、夫婦別れか親子の縁を切るかの瀬戸際まで落ちたこと、などを手短に語った。

それからおもむろにクラゲに出会って奇跡の復活を成して行く過程を語った。しかし坂道を転げ落ちていた歯車は簡単には逆転してくれない。何とかするために使った手段は聞いた相手が呆れて笑い出すほどユーモアに富んだアイデアだった。そのまま語って聞かせた。

 

 

加茂水族館の公用語は庄内弁!

加茂水族館の公用語は庄内弁!

これが大当たりした。私がズーズー弁で「まんずジェニがねえと言うのは困ったもんだ、クラゲの卵を見る顕微鏡も買われねがったんだ」「クラゲ担当からは顕微鏡がねえと卵が見えねがら繁殖させられねーと言ってきたが、ジェニネーナや、ちぶれそうなんだという他ねがった」
「日本一の展示をしたが誰も評価してくれねがった、どもなねがらクラゲしめで来てクラゲを食う会をやったんだ」このあたりからもう会場は笑いの渦に包まれた。

私はうんと真面目な顔をして続けていった。「皆さん笑ってっけんども、わだしはイッショケンメー真面目にしゃべってんです」と言ったらもう爆笑だった。そこに間髪を入れずに「クラゲ入り饅頭、クラゲ入り羊羹」と続けたら、総会という場所も忘れて笑い転げて一気にこの場の関心は私に集まった。

会場を埋めた園館長は沖縄から北海道まで日本中から来ていた。私の庄内弁はどこまで理解できたものか分からなかったが、意表を突いた堂々の発表は、間違いなくハートが破裂するほども揺さぶられたと見えた。
壇を降りて席に戻る私に皆が笑顔を見せて立ち上がり握手を求めてきた。私は「やったようだな」と感じた。無くてもいいと評された小さな水族館が、まずは全国の園館長に強く印象づけてその存在を知らせる事が出来た。

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私の次に登壇した旭山動物園の園長小菅さんが、開口一番に「加茂水族館の村上館長には足元にも及びませんが」と言いながら、旭山動物園は職員が「アイデア集団」だと言う紹介をしていた。

あの小菅さんに評価されたこの言葉がたまらなく嬉しかった。業績では彼の足元にも及ばないが、この日の人気は私に軍配が挙げられたと思っている。

 

 

男にとって勲章とは

タイトルにあるように今日は少し骨っぽい話をしよう。去年の5月だった。秋田県横手市の村岡さんと言う動物病院の方が訪ねて来て、ここの取り組みを自分のところで話してくれないかと頼まれた。本当はこの頃遠出が億劫になっていてまずは県内、遠くても車で2時間圏内に限定して引き受けようと決めていたのだが。

しかし世の中決めたからと言ってそのまま押し通せないことも有る。それが浮世の習いと言うべきかもしれない。この時も先立つこと2か月前に断りきれないような有名人からメールが届いていた。

それは今をときめく旭山動物園の前の園長小菅正夫氏からのメールだった。村岡さんは小菅さんの友人であるらしく頼りにされたのであろう。夏休み公開講座「どうぶつのお医者さん」と言うタイトルで、内容は任せる釣りの話でも鉄砲うちの話でもいいから頼む、、、と書いてあった。

羽黒山の斎館で精進料理を食べる二人。

羽黒山の斎館で精進料理を食べる二人。

 

小菅さんはもう国民的な有名人である。ゴリラが死におおくの困難な出来事が入園者の減少につながり、閉園を覚悟するまでになった所から職員のアイデアを実現させて、年間307万人もの入園者を呼び上野動物園を抜いて日本一繁盛する旭山動物園を築き上げたいい男だった。
彼には一度お願いして鶴岡市で講演して頂いたことがあった。この時の頼みは今でもよく覚えている電話での私のお願いを聞くや「あなたの頼みだったら行くよ、2月は忙しいから私の日程に合わせてくれよ」とこれだけが返事だった。

人様から何か頼まれたら勿体などつけずに「わかった日程が合えば行きます」と答えるのが礼儀だとその時の対応から教えられた。

義理のある方からの頼みと有れば、新しい水族館が建設中であろうが無かろうが「わかった行きましょう」と答える以外に道はない。そして5月に動物病院の村岡さんが訪ねて来てくれたと言うわけである。

そして7月29日小菅さんと二人で1時間半ずつ講演をした。話題の二人が首を並べて講演をするというのはそう簡単にはできないことだ。村岡さんの計らいで実に面白い企画が実現した。

左が館長、右が小菅さん。

左が館長、右が小菅さん。

 

私も興味があったが小菅さんの講演は彼らしい素晴らしいものだった。勝てなくとも絶対に負けない修業をした、、、、と言う北海道大学時に熱中した柔道の話が中心だった。面白かったしさすがだなと思って聞いたが、うーんと考えさせられたのは別の場面での出来事だった、

ここで横手市での話はひとまず横に置くとして、男の勲章とはいったいどんな事を言うのかに移ることにする。長い間気になっていたし自分なりにはやはり実績だろう、大きな納得ゆく業績が男の勲章ではないかと思っていた。

振り返ってそれらしいものを拾い上げればいくつかは見える。昭和47年の年末に倒産して金がまったくない中で春まで生き物を面倒見たこともその一つにあげられるだろう。

大きな借金や上司からの無理難題ともいえるプレッシャーに耐えて無事鶴岡市に経営を引き継いで頂いたことも業績に上げられる。その後の見事な入館者の増加は日本中に認められるまでに広まった。

ノーベル化学賞を受賞された下村修先生を加茂水族館にお迎えできたことや、ギネスにクラゲの展示種数が世界一だと認定されたことだってこの業界では初の快挙だった。

引退がまじかに迫ったこの時に鶴岡市には新しい水族館まで建設して頂いた。幸せ者だなーと思わずには居れなかった。皆業績だと言えば言えるものだと思う。

しかし本当に男の勲章とはこんなに恰好いいものなのか、もっとドロドロとした生臭いものでは無いのか、人知れず影のように目立たないものではないか、そんな思いを抱いていたことも事実である。

話は秋田県横手市での講演に戻るが、小菅さんと立ち話をしているときに彼の口から出たたった一言が、私の考えの甘さを気付かせてくれた。それは「私は2度始末書を書かされた」と言う意外な言葉だった。

国民的な英雄と評される程に大きな実績を上げた男の中の男が、旭山市役所では表彰されるどころか評価されないか大きくはみ出した部分があったという事を意味している。何が始末書に結び付いたのかは聞かないでしまった。

しかし思うに業績を上げようとすればする程に市の制度が大きく立ちはだかったのだろう、彼だって市の職員だったから制度に従うのが務めなのはよく承知していたはずである。

多くの人がそうするように、「分かりました面倒で時間のかかる制度に従って手続きをして、会議を開いてハンコをもらって進めます、、、」と言えば身は安全だが、あれだけの業績を残すことは不可能なはずだ。この辺の事情は今市の一角に居て似たような環境にある私にも良く理解できる。

閉園寸前の、まさに風前の灯だった旭山動物園を生き返らせるためには、利口で言われたことを実行する真面目な男ではだめなのである。不可能を可能にするために彼は体を張って、絶対に負けない仕事を進めたのだろうと想像できる。多くの上司と衝突したり条例や規則を承知で破ったのであろう、「本当の男の勲章とはこの始末書」の事を言うのではないか。

俺はまだまだだなと思い知らされた。

こう言っているが、館長もなかなか常識破りな男である・・・。

こう言っているが、館長もなかなか常識破りな男である・・・。

 

 

知らなかったのか知らぬ振りしたのか大した奴だよ

この頃続けて昔のばかなことを思い出しては書いてみた。すっかり忘れていても何かの拍子にスイッチが入ってありありと思い出す。これも年寄りになった何よりの証拠だろう。

バカ話が続いたところでついでと言っては何だがもう一つ続けてみることにする。

ところで加茂水族館は12年前から鶴岡市の所有になっているが、市の施設の一角に入ってからここまでの躍進は非常に大きいものがあった。例えば入館者の伸びだが11万6千人が27万1千人に伸びている。

市の難しい制度に従えば民間のようなスピーデイな仕事が出来なくなり、活力が失われて業績は落ちてゆく。そうならざるを得ないような仕組みになっていることは皆さんがご存じである。

ここは逆に大きく伸びたのだから不思議な話だ。なぜこうなったのかを一口で言えば「市の制度からはみ出した経営」をしてきたからと言える。館長である私の決裁権はわずか50万円までだった。まあ市の課長と同じ権限を与えられていたというわけだが、それを知らぬふりを決め込んで毎年1千万円2千万円とその年に稼いだ金を皆つぎ込んで、権限を大きくはみ出した改造工事を押し通してきた。

それを大目に見てくれたり、黙認してくれたりと陰に陽に応援してくれた市や公社の存在もあったから出来たのではあるが、結果を出すことのみに集中したと言えば聞こえがいいが、結構度胸のいる厄介な仕事であった。

館長の破れかぶれの経営はいったい何時ごろまで遡れば窺い知る事が出来るのか、今日はその一端を振り返ってみる。

もう47年も昔の事だからカビの生えるほども時間が過ぎてしまった。館長に就任したその年だったので弱冠27歳だったことになる。鶴岡市から民間に経営が移って記念に何か魅力ある施設を作ろうと、郷守社長以下幹部が相談して決定したのが「サルが島」を作る事だった。

新潟県の月岡市に猿ヶ島が有ってそれを見た者がいたからだった。水族館にサルだから何だか変なのだが、面白ければいいではないかという事になった。水族館は磯の岩場の上に立っていて裏には地続きで平坦な岩場が続いていた。ここに20m四方を3mの壁に囲まれたサルの放飼場を作れば丁度いい、よしここにしようとなった。

昭和42年、完成した「サルが島」にサルを運びこむ

昭和42年、完成した「サルが島」にサルを運びこむ

 

これが誠に面白かった。サルの群れは人間社会の縮図を見るようでいつまで眺めていても飽きない。たちまち人気の施設になった。これで終わればはみ出してはいないいい男で済んだのだが、2か月だったか3か月だったか過ぎたころに山形県の港湾事務所から課長の芳賀さんが訪ねてきた。

サルが島で遊ぶサルたち

サルが島で遊ぶサルたち

 

「館長さんあのサルが島が立っているところ、県から使用許可をもらっているのか?」と尋ねられた。「いや何もしていません。ここと繋がっているし平らだったから丁度いいと思って建てました。」このように返事をしたら、びっくりするようなことを言われた。

「猿ヶ島の手前に低いが防波堤があっただろう。あれより外は海なんだ、勝手に海の中に建物を作ることは許されない」と言われた。そういえば低いが確かに防波堤はあった。

白い壁より手前、黒い屋根の部分とサルが島(現在のオタリアプール)はホントは海だった!?

白い壁より手前、黒い屋根の部分とサルが島(現在のオタリアプール)はホントは海だった!?

 

他人の土地と言えばいいのか国の土地と言えばいいのか、とんでもない場所に猿ヶ島を作ってしまったことになる。芳賀さんとどんなやり取りをしたか確かなことは記憶にないが、私には「知らずにしてしまったのだ勘弁してくれ・・・」という他なかったと思う。

指をさす排水路のあたりに「低い防波堤」があった。(今はろ過槽室の一部となっている)

指をさす排水路のあたりに「低い防波堤」があった。(今はろ過槽室の一部となっている)

 

芳賀さんはいい人だった。今更壊せとも言えなくて「仕方がない土地を貸してあげるから地代を払いなさい」と寛大な処置をしてくれた。

あれが最初の掟破りだったと思う。オープンした時からこの水族館は規模が小さかっただけではなく、誠にお粗末な内容だったから直したいところは山ほどもあった。

改築のたびに多かれ少なかれはみ出し工事は続いた。かなりきわどい工事もいくつか含めて5指に余る程はすぐに思い出せる。しかしあまり恥をさらすのも何だから書き連ねるのは多少のためらいが有る。聞きたい人はいつでも訪ねて来てもらいたい。コーヒーを前に海でも眺めながら語って聞かせよう。男は度胸だ、わはははははー・・・。

 

もうこの年になると昔の事だけがバラ色に見える

12月からの閉館もいつの間にか2か月になろうとしている。どんどん時間が過ぎて開館の日がその分近くなってゆく。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

庄内竿を使いこなす釣りの名人でもある。多忙な館長のもう一つの顔だ。

 

11月いっぱい営業して12月1日から開館準備のための閉館に入っている。それまでの忙しさは並のものではなかった。定期的に行われる設計や運営の会議など毎日予定が入って午前も午後もいつも塞がっていたが、それに加えてアポなしの来客が多く加わってきた。

50年前の開館以来この小さな水族館には応接間が無かった。初めから事務室にお客様をお迎えするソフアーもテーブルも備えていなかったのだ。

閉館してからはもっぱらこれ幸いと押しかける来客の応接間として、レストランのテーブルと椅子を使用することにした。席数が40といささか狭かったところに入館者が増えだしたために、いつも昼時になると順番待ちの列がつながっていた。

しかし閉館してしまえば座る人とていないわけだから、応接間の無いこの水族館にとってはうってつけの打ち合わせ場所になった。話している途中で目を上げれば、向こうのテーブルに次のお客様が待っていた。

次々に替わる相手に違う話を聞きながら、74にもなった白髪頭の中は混乱して整理がつかなくなる。

新水族館のレストランと売店については市の建設責任から外して、水族館が自分で設備投資をしろとの方針だから、売り込む相手にしたら魅力あるターゲットに見えたのであろう。

同じ時間にダブってOKしてしまい待たせたことも再三ある。やはり新しい水族館がオープンするという事はただ事では済まない。開館すれば多くの客が押し寄せる人気の施設になるのが見えている。それを目当てにいろいろな職業の方が商談にやってくるのも自然な成り行きだろう。

商談だけではなく報道関係も多く来たがテレビや新聞だけではない。観光案内の雑誌とか会社の社内報も有る。他県からもラジオ放送の電話での出演依頼も来る。それに加えて館長目当てに原稿や講演の依頼もあった。

74歳になった老館長には結構きつい日々だったが、入館者が来なくなると同時に電話も減れば、館長目当ての商談も同時にうんと少なくなったのはありがたいことだ。

あまりの忙しさにいつの話だったか相手の会社名も定かではないが、どこかの警備保障さんだったと思う。自社を売り込みに来て保障だけではなく「お金の管理もお手伝いします」という話が出た。

自社とつながった何とかという機械にその日の売り上げを入れれば、機械がお札と硬貨を仕分けして金額が記録されて、そこから先は警備会社の責任で保管されるとのこと。

銀行さんが集金に来なくても、居ながらにして預金までの仕事をしてくれる仕組みらしい。
「館長さん、5月の連休やお盆の休みは銀行さんも連続して休みでしょう。その間の売り上げはいったいどうしているものです?、、」と聞かれた。「今は特別に集金に来ていただいています」「昔と違って融通を効かせてくれますよ」

と答えたが長い歴史の中では考えられないようなお金の管理もされていたことを思い出した。20年かあるいは30年も昔のことになるが昭和55年ごろだったと思う。5月の連休になると連続4日も5日も銀行さんが集金に来てくれないものだった。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

当時の館長。80センチのスズキを釣った。

 

あの頃まだ入館者も結構多く1日の売り上げが400万円ぐらいにになった。夕方閉館して数えてみると実に多くの種類のお金がある。10円玉から50円、100円の硬貨が多く売上金額の割にはかさ張るものだった。

2日目あたりから金庫に入らなくなって、鍵のかかるロッカーに入れたりしたがドロボーならすぐにでも破られそうで何だか不安だった。日々増えてゆくお金をどこに保管するかがいくら考えても方法が見つからない。

「んだば俺がリュックに入れて背負ってゆく。家さ預かって明日またもってくる」夜は枕元に置いて寝た。4日目あたりから大きく膨らんだリュックはずっしりと重かった。
膨らんだリュックには2,000万円以上は入っていただろう。枕元に置いたからと言って安心はできないものだった。民営時代だから出来たことで、市のものになった今では売上金を何千万円も自宅に持ち帰るなんてできるはずもない。いつも思うが私の思いつくことはバカバカしいことばかりだ。

あれで何の事故もなかったのだから思い出すたびにニヤリとなる。「爽やかな一陣の風」のような温かさを感じるのは気楽な性分がそうさせるのだろう。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

50センチのクロダイに引かれて見事に曲がる自作の庄内竿。

 

 

オットセイ騒動記

休み明けに出た朝だった。「昨日水族館のすぐそばの磯場にアシカがいると電話があった」と報告を受けた。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

体が乾いているのでしばらくいた様子。オスのオットセイ。

 

水族館のが逃げられたのではないかと思ったらしいが、これがアシカではなくオットセイであった。なぜ水族館の下と言えばいいのか50mも離れていない磯の中まで入ってきたのか分からないが、これほど近くに現れたのは50年来初めての出来事だった。

オットセイがこのあたりにいること自体は珍しいことではなく、ただ目に触れる事がめったに無いだけである。毎年冬には日本海を南下して佐渡沖までは来ているのでたまには死んだものが打ち上げられたりして見ることがあった。

吹雪の舞う荒れた海をどこに避難しているわけでもなく、泳ぎながら餌を捕まえ移動しているわけだから丈夫なものである。若い飼育係から報告を受けたが、話を聞きながら遠い昔を思い出して「俺も若い頃ずいぶんバカなことをしたもの」と一人笑ってしまった。

30歳くらいの若かりし頃の館長

30歳くらいの若かりし頃の館長

 

さかのぼる事41年になる。昭和47年の3月ごろだったと思うがすぐに年代がよみがえったのはオットセイ事件とともに、ここが本社のとばっちりを受けて倒産して騒動の中にいた年だったからだ。

昭和47年と言えば日本が世界中の海に自由に出かけてマグロやカニだけではなく、サケ、マスにエビやカレイなど魚を捕りまくっていた頃だと思うが、この加茂地区からも毎年3月になると船体を青色に塗られた船が何艘か、北洋にサケマスを捕りに行くために出航していった。

出航してゆく船を加茂水産高校の生徒さんが全校あげて岸壁に並んで、ブラスバンドの演奏勇ましく送り出していた。ずいぶんと勇壮なものだった。
その中の船頭さんの一人と懇意にしていた。いつだったか定かではないが「北洋にはオットセイがいっぱいいて、網を巻き上げるときに中に入って来ていくらでも捕まえる事が出来る」と言った。

お互い冗談半分だったが「それならここで飼育したいので1匹頼む」と私が言ったことも記憶にある。あの頃はまだ「海(ら)獺(っこ)、オットセイ条約」という厳しい内容の国際条約が生きていた。とにかく「ラッコもオットセイも捕まえてはいけない、死んだものを拾ってもいけない、、、」という内容であったが、そのまままかり通っていた。

なぜこんな厳しい条約が、、、、、と思われるだろうが、聞いたところによれば日本が戦争に負けて、繁殖地を持つ戦勝国(ロシア、アメリカ、カナダ)に押し付けられたのだとか、、、、それだけ日本は戦中も戦前もラッコやオットセイを捕り過ぎがあったという事でもあるのだろう。

そんな中で雑談して捕まえて来てくれ、、、と言ったのだから私もとんでもないバカだった。

そして突然例の船頭さんからの電話で「館長オットセイ1匹もって来たぞ」と連絡があった「えっまさか本当にか」と思ったが後の祭りだった。

大きな籠に入れられたオットセイは大きさが15kgほどでかわいらしかった。よく見れば肩から首を回るように深い傷が体を半周するほども見えていた。ぱっくりと口を開けた傷口は白い脂肪層よりも深くまで達していた。「これでよく生きていられるなー」と思わせるほど重症に見えた。

怪我もしているしまず預かって飼ってみるかと引き取って、赤チンキを傷口に塗って当時フンボルトペンギンが入っていたプールに収容した。

当時のペンギンプール。

当時のペンギンプール。

 

これをだれも気が付かなければ何事もなかったのだが、地元のNHKさんににすっぱ抜かれた。出勤してみたらみんなが騒いでいた。「朝、ここのオットセイが国際条約に違反して飼育されている」とNHKの全国ニュースとして流れたと言っていた。

それでは大変なことになった、もう飼育はできない海に放流するほかないと思った。私が手つかみして捕まえてそのまま海中にほおり投げてやった。大荒れの日だったが「こんな波でも泳げるものだろうか」との心配をよそにあっという間に大波を乗り越えて姿を消してしまった。
そこに職員が走って来て「館長警察が来た」と知らせてくれた。その時「捕まりたくはない逃げるほかない」と思ったから、もうどうしようもないバカだった、裏口から外に出て車に飛び乗ってどこに行くとも当てもなく逃げ出した。

逃げても仕方がないと気が付いて2時間もして戻ると警察に連れて行かれた。証拠のオットセイが居ないままでは警察も困っていたが、時には厳しくまた時にはやさしく誘うように取り調べられて、ありのまましゃべらされた。

書類送検され後日検察にまた調べられて散々怒られて、交通違反などと同じ略式の違反で3万円の罰金が科せられた。持ってきた船頭さんは5万円の罰金だった。

館長がどこに顔を出してもオットセイの話しでもちきりになった。他の報道機関も取り上げて結構大きな話題になったが、オットセイが大けがをしていたという事が幸いして、条約に違反していたという事よりもそれを保護したのだと加茂水族館を擁護する声が多く寄せられた。
後に日本動物園水族館協会から「オットセイの飼育についての通達」で国際条約に違反しないようにとの注意が来た。

すべて私の「物事を軽く見て行動を起こす」という未熟さが招いた騒動だった。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

左に見える三角の建物が旧水族館、右に見えるのが新水族館。

 

昨日ここに現れたオットセイは結構な年寄りに見えた。まさかあの時私が放り投げたあいつが、新しい水族館が出来るのを祝って挨拶に来たのではあるまいな。