12月からの閉館もいつの間にか2か月になろうとしている。どんどん時間が過ぎて開館の日がその分近くなってゆく。
11月いっぱい営業して12月1日から開館準備のための閉館に入っている。それまでの忙しさは並のものではなかった。定期的に行われる設計や運営の会議など毎日予定が入って午前も午後もいつも塞がっていたが、それに加えてアポなしの来客が多く加わってきた。
50年前の開館以来この小さな水族館には応接間が無かった。初めから事務室にお客様をお迎えするソフアーもテーブルも備えていなかったのだ。
閉館してからはもっぱらこれ幸いと押しかける来客の応接間として、レストランのテーブルと椅子を使用することにした。席数が40といささか狭かったところに入館者が増えだしたために、いつも昼時になると順番待ちの列がつながっていた。
しかし閉館してしまえば座る人とていないわけだから、応接間の無いこの水族館にとってはうってつけの打ち合わせ場所になった。話している途中で目を上げれば、向こうのテーブルに次のお客様が待っていた。
次々に替わる相手に違う話を聞きながら、74にもなった白髪頭の中は混乱して整理がつかなくなる。
新水族館のレストランと売店については市の建設責任から外して、水族館が自分で設備投資をしろとの方針だから、売り込む相手にしたら魅力あるターゲットに見えたのであろう。
同じ時間にダブってOKしてしまい待たせたことも再三ある。やはり新しい水族館がオープンするという事はただ事では済まない。開館すれば多くの客が押し寄せる人気の施設になるのが見えている。それを目当てにいろいろな職業の方が商談にやってくるのも自然な成り行きだろう。
商談だけではなく報道関係も多く来たがテレビや新聞だけではない。観光案内の雑誌とか会社の社内報も有る。他県からもラジオ放送の電話での出演依頼も来る。それに加えて館長目当てに原稿や講演の依頼もあった。
74歳になった老館長には結構きつい日々だったが、入館者が来なくなると同時に電話も減れば、館長目当ての商談も同時にうんと少なくなったのはありがたいことだ。
あまりの忙しさにいつの話だったか相手の会社名も定かではないが、どこかの警備保障さんだったと思う。自社を売り込みに来て保障だけではなく「お金の管理もお手伝いします」という話が出た。
自社とつながった何とかという機械にその日の売り上げを入れれば、機械がお札と硬貨を仕分けして金額が記録されて、そこから先は警備会社の責任で保管されるとのこと。
銀行さんが集金に来なくても、居ながらにして預金までの仕事をしてくれる仕組みらしい。
「館長さん、5月の連休やお盆の休みは銀行さんも連続して休みでしょう。その間の売り上げはいったいどうしているものです?、、」と聞かれた。「今は特別に集金に来ていただいています」「昔と違って融通を効かせてくれますよ」
と答えたが長い歴史の中では考えられないようなお金の管理もされていたことを思い出した。20年かあるいは30年も昔のことになるが昭和55年ごろだったと思う。5月の連休になると連続4日も5日も銀行さんが集金に来てくれないものだった。
あの頃まだ入館者も結構多く1日の売り上げが400万円ぐらいにになった。夕方閉館して数えてみると実に多くの種類のお金がある。10円玉から50円、100円の硬貨が多く売上金額の割にはかさ張るものだった。
2日目あたりから金庫に入らなくなって、鍵のかかるロッカーに入れたりしたがドロボーならすぐにでも破られそうで何だか不安だった。日々増えてゆくお金をどこに保管するかがいくら考えても方法が見つからない。
「んだば俺がリュックに入れて背負ってゆく。家さ預かって明日またもってくる」夜は枕元に置いて寝た。4日目あたりから大きく膨らんだリュックはずっしりと重かった。
膨らんだリュックには2,000万円以上は入っていただろう。枕元に置いたからと言って安心はできないものだった。民営時代だから出来たことで、市のものになった今では売上金を何千万円も自宅に持ち帰るなんてできるはずもない。いつも思うが私の思いつくことはバカバカしいことばかりだ。
あれで何の事故もなかったのだから思い出すたびにニヤリとなる。「爽やかな一陣の風」のような温かさを感じるのは気楽な性分がそうさせるのだろう。