いやこの4か月実にあわただしい思いをした。水族館の開館がこんなに大きな反響を呼ぶとは思わなかった。新しい水族館に寄せる思いは地域の人々のみならず、日本中の人が加茂水族館の開館を待っていてくれたような繁盛ぶりが出現した。
予想をはるかに超えた客が来れば苦情も増える。駐車場も足りず、売店もレストランも対応しきれなかった。すべての面が後手後手に回り混雑して館内が渋滞し、入館のゲートまでも渋滞が続いた。
館長自らハンドマイクを片手に「今日は今年一番の込みようです。入館できない人が300mも繋がっています。止まらずにお進みください」と声をかけた。
おそらくはろくに魚もクラゲも見れずに帰られた方が相当数いたと思われる。本当に申し訳ないことをしたと思っている。
この異常な人気はオープンする前からすでに予想されていた様なもので、クラゲ水族館として何度も何度もテレビなどで報道がされたことによるものだったと思う。それも全国的な報道が多かったから効果があったのだろう。
どこの報道も必ず取り上げたのは目玉の5mクラゲ大水槽だった。これは確かに絵になるし取り上げたくなるような魅力がある。これまで世界中のどこにも無かった大きさと中に8,000匹のミズクラゲを泳がせたのが大きな感動になった。
朝開館と同時に魚の水槽の前を250m走って他のクラゲは一切見ずに通り過ぎて、クラゲ大水槽にたどり着いて見入っていた若い女性もいた。「どこから来たのですか?」「東京からです。この水槽を見たくて来ました」と言っていた。
この水槽は巨大だといっても水量的には大したことはない。40トンのむしろ小型の水槽にすぎない。お隣の秋田県と新潟県の水族館には最大700トンの水槽がある。福島県には1,500トンがあるし加茂の40トンは比較できないほどの小ささにすぎない。
しかしこの水槽の価値はちょっと違うところにあると思っている。これまでクラゲ、しかもミズクラゲをこれほど大きな水槽に群泳させるという発想は、どこのどなたからも出ていないものだった。
世界中を見回しても同じである。これまでと違う価値の展示を生み出したところが5mクラゲ水槽の値打ちなのである。大いなる挑戦だったがやって良かった。お客様も報道陣も同業者も皆が認めてくれ大きな反響につながった。
まだ目の前に残されている旧水族館にも大水槽があった。深さが3m水量が30トンだった。大きさだけだとクラゲ大水槽とさして変わらない。当時としては深さ3mは日本で最も深いもので、上野動物園の中にあった水族館にある水槽が大きさは比較できないが深さ3mで1番だったのでそれに倣ったものだった。
この水槽には理解できない不思議な作りがしてあった。なるべく大きなガラスをはめて見やすくして感動していただきたいとは、どなたも願うところだが丁度目の高さに「目隠しのコンクリートの帯」がつくられていた。
中を見るためには伸び上って上から覗くか、しゃがんで下から見上げるほかなかったのである。なんで目線を封じるような作りをしたのかいくら考えてもその理由は思いつかなかった。
昭和41年はまだ鶴岡市立加茂水族館だったので、館長は観光課長井上行雄さんだった。聞いてみたらこの返事もまた理解できない不思議なものだった。何処の出来事かは忘れてしまったが「ある女性が水槽を叩いたところ、指輪のダイヤモンドで硝子が割れてけがをした。ここは深さも水量も大きい。大事になっては困るので目の高さを隠したのだ。」真顔での返事だった。
「そんな馬鹿な、水族館を建てているのではないか。目線を封じるとは、見せることを封じたということではないか」と思ったが採用されたばかりの26歳の若僧では言葉にできずぐっと飲み込むほかなかった。
翌年水族館は民間の会社に売却されて27歳で館長をやらされる羽目になったが、その15年後に、「観覧俯瞰大水槽」を取り壊しガラスを大きな物に取り換える工事をした。
工事を地元の渡部工務店に依頼して、酒田市の三浦ガラスさんにあつさ11mmの強化ガラスを発注して行った。
深さを1m下げて2mとして冬の間の工事が何とか完成した。3月中ごろに庄内一円に「大水槽が完成しました」と書いた捨て看板を60本立てた。すべては客を呼ぶためだった。
何月ごろだったろう、どこかの親父さんが大水槽の前にいた。丁度通りかかった私に「大水槽が完成したと聞いたのだがどこに有るのですか」と聞いた。「いや目の前にある」とも言えず、「うーんまずまず・・・」とか言ってごまかす他なかった。
水量的にはそう変わらない40トンと、30トンだが価値は天と地の差がある。あのころが夢だったのか、今が夢なのか体験した自分としては落差がありすぎて夢の続きを見ているようなあやふやさが有る。