電気と言うものは有難いものだ、これが有るから加茂水族館も快適にスピーデイな仕事が出来る。
この建物に移って来てから9月末まで半年間停電は1度も無かった。初めて経験するオール電化は冷房も暖房も快適で、夏は暖房、冬は冷房の古い建物が懐かしくなるほど違ってしまった。
事務室に居ながらにして監視カメラの映像を見ながら、細かく区分けされた館内の通路や、施設ごとに温度管理が出来るようになっている。私の様なコンピューターに弱い年寄りはどこをどういじれば調整が出来るのか幾ら見てもさっぱり分からない。何かあるたびになれた若い職員を呼んでやってもらう他ない。
夏休みの混雑はすごかった。特にお盆休みに入ったら出勤するのが怖くなる程に多くのお客様が来てくれた。連日1万人を超える入館者が有ったのだから、もうどうにもこうにも捌ききれるものでは無かった。
入館を一時止めて館内が少し落ち着いてから再び入ってもらったことも何度も有った。こんな日は館内の温度設定が難しい。身動きが取れないほども入った人の熱気で室温が上昇して、うっかりしていると酸欠になりかねない状態になる。
毎日冷や冷やものだったが館内を時々回っては身をもって体感し調整を繰り返すのが日課になっていた。8月は3000人以下の日がたったの2日間しかなく18万人に近い入館者が有ったのだからご想像頂けるかと思う。
しかしオール電化だったので、もしも停電が有っても発電機が自動的に稼働して、クラゲや魚などに必要な電気を賄うようにコンピューターに全てがインプットされているはずだった。
それを確かめる事故が10月14日に起きた。
下村脩先生がアメリカからこの加茂の地まで来てくださった日だった。あの日は台風が通過していて、羽田からの飛行機が飛ぶか皆が心配したくらいに大荒れの日だった。館内を私が案内してクラゲの新しい展示を見て頂き湯野浜温泉の宿までお送りした直後に停電が起きた。
台風は予定よりも早めに通過してもう風も雨も収まっていた。何で今頃にと思ったが館内は真っ暗闇になってしまった。たが昔とは違いオール電化だったから驚かなかった。
自動で発電機に切り替わり生き物には十分な配慮がされているはずだ。皆が落ち着いて事務室でお茶を飲みながら回復するのを待っていた。
やっと復旧したのが1時間後で明かりがついてみたら、何と自慢の「クラゲ大水槽」の水流が止まって見事にクラゲが底に淀んで折り重なっていた。クラゲは自力で泳ぐ力が弱いので海流に乗っている。
水槽では無限の流れの代わりになるのが、ゆったりとした回転だった。
これが止まればクラゲは水槽の底に沈んでしまう。そして時間がたてば全滅してしまう事になる。この度は1時間で復旧したからダメージは少なかったが結局3分の1ほどは傘に痛みが出て取り上げざるを得なかった。
本来動かすべきところに電気が行かずに、要らないところのポンプを動かしていた。設計者が勘違いして設定を間違えたことから起きた事故だった。クラゲの展示は常に危険をはらんでいると言える。
発電機と言えばまた頭に浮かんだ遠い昔の出来事が有った。おぼろげな記憶をたどってみると昭和50年頃ではなかったろうか。旧水族館には発電機らしきものが無かったのである。
館内の水槽がすべて底面ろ過方式で循環のポンプが無いのだから、発電機はいらないと判断したのだろう。可動式の小さな発電機が有って停電時には圧力送風機のポンプだけが動けば魚を殺す事が無いと見たのだろう。
その小さな発電機が故障していたところに停電が起きた。雪の舞う荒れた寒い日だったから12月か1月だったと思う。夜中の2時ごろ依頼していた警備保障会社から電話が有った。
停電の際には私にまず連絡が入る仕組みになっていた。吹っ飛んでいって回復を待ったがなかなか電気は来ない。何もせずに持たせるのは1時間が限度だった。
仕方なしに海水魚の水槽の裏に回った。バケツで水を掬い上げては水面めがけてザザーっとぶちまけて少しでも酸素の補給をしようとした。13ある水槽をただ黙々と水を掬ってはぶちまけて回った。
こうするほか魚を生かす方法が無かったのだ。なかなか電気は来なかった。ついに夜が明けてきた。思えば私も若かった。今の私にはそんな力はもうない。体力が良く持ったなーと思う。
その事故が有ってから中古の発電機を買った。しかし全館を賄うだけの容量を持つ高性能の発電機は買えず、3つに区分けをして30分ずつ切り替えることでとにかく魚を殺さずに生かす事が出来るようになった。
あのどん底が有ったからオール電化の今が有るのは本当だが、思えばあそこはひどい作りだった。あの小さな水族館には泣かされたものだった。