月別: 9月 2015

飯豊町中学校で講演をしてきました

中学校で私が何かを話して聞かせるという場面はめったにない、どうも子供の反応が大人と違っていて話していることが、理解してもらっているのかが分かりずらく、自信を持っての話が出来ないからなるべくどなたか別に方のお願いして頂いていたのがその理由だった。

私は人前に出るのが実に苦手で気が小さくいつも緊張してしまう、そうは見えないらしいが本当にそう思っている、私だけでは無いのかも知れないが話していることが会場に伝わったな、、、と思う場面があると、その後の自分に自信を与えて喜んでいただけるいい講演につながる。

白鷹町に有るアユ茶屋で一休み、天然のアユを食べようとしたが全て養殖ものだと言われた、繁盛すればヤナで取れた天然ものでは賄いきれないのだろう

白鷹町に有るアユ茶屋で一休み、天然のアユを食べようとしたが全て養殖ものだと言われた、繁盛すればヤナで取れた天然ものでは賄いきれないのだろう

 

羽黒に有る我が家から車で2時間半、アユの簗場で有名な白鷹町、そして長井市を通りやっと着いた飯豊町中学校は山裾に建っていて自然に恵まれたいい場所にあった、建物もそう新しくはないがどっしりとした立派な作りで、入った所に柔道と、吹奏楽で県大会で優勝したと誇らしげに展示してあった。

飯豊町中学校、静かなたたずまいの中にどっしりとした建物があった子供が学ぶにはこんな環境が一番適している、ノーベル賞の下村先生もそんな環境で育ったと語っていた

飯豊町中学校、静かなたたずまいの中にどっしりとした建物があった子供が学ぶにはこんな環境が一番適している、ノーベル賞の下村先生もそんな環境で育ったと語っていた

 

辺境に近い位置に有りながらも自信を持って全校を上げて学んでいることが伝わってきた。

大きな体育館で前に並ぶ生徒さんに話したが、みなさんが真面目に一生懸命私に話を聞いてくれた、私の語る加茂水族館の50年に及ぶ苦労の経営は、13歳から15歳の生徒さんにどこまで理解していただいたのか,やはり中々分かりずらい印象を持った。

 

かえって時々声が上がるのが先生方の席からで、そちらの声に励まされて1時間と10分楽しみながらも話すことが出来た。

「まあたまには大人でなく子供の前に立つのもまた良いなー」、自分の60年前を重ね合わせて思い出に浸りながら、この子供たちが大人になって「挑戦する人間になってくれ」と云ったことでも思い出してくれたら、、、、そう思うだけで幸せな気持ちになれる。

長岡秀雄さんの自宅に有った茅葺屋根の離れ、彼は自分だけここで寝ていると語った、さぞかしいい眠りにつけそうな粋なつくりだ

長岡秀雄さんの自宅に有った茅葺屋根の離れ、彼は自分だけここで寝ていると語った、さぞかしいい眠りにつけそうな粋なつくりだ

 

飯豊町にはもう一つ楽しみがあった、キリスト教独立学園高校の一つ後輩にあたる長岡氏に会えるのだ、お互い長く会っていなかった、おととし職場に訪ねてきてくれたがあの時、顔を見ながらどこのどなたか思い出すことが出来なかった。

 

名乗られても半信半疑な気持ちだった、17~8歳の高校生が72~3の白髪の老人になって現れたのだから「浦島太郎の伝説」が目の前で起こったようなものだ。

その長岡さんのお孫さんが中学校に通っているとか、そんなご縁で依頼され出かけることになった次第だった、中学校に行く前に彼の自宅を訪ねてみた、やはり山裾の静かな一角に彼の家は有った。

ごく普通の住宅を想像していたが全く違っていた、風情のある手入れの行き届いた庭にいまどきまずらしい「茅葺の家」が離れとして立っていた、きれいに刈られた緑の芝生、山からでも水を引いたのか手頃の池には錦鯉が泳ぎ、取り囲むようにして庭木が配置されていた。

石と手入れのされた木が絵になる、緑の芝生も効果的だった、実にいい庭だ今時こんな落ち着いた和風な庭園を持つ家は少なくなってしまった、左が母屋。

石と手入れのされた木が絵になる、緑の芝生も効果的だった、実にいい庭だ今時こんな落ち着いた和風な庭園を持つ家は少なくなってしまった、左が母屋。

 

彼にこんな趣味があったとは、、、びっくりした、庭を眺めながら茶をいただき、しばし独立学園時代過ごした思い出を語り合って楽しかった。

 

私はあのころからいたずら坊主だったが彼の話にギクッとさせらて、遠い昔にした悪さを謝る羽目になった。
全校あげて杉の木の下刈りに行った時だった「雨が降ってきたと思って見上げたら高い木の上から村上さんが小便をしていた」「下で休んでいた菅野と自分に降り注いできた」といった。

確かにその覚えはある休み時間にブナの大木に登っていたら、二人が知らずに来て根元で腰を下ろして休んでいた、そこで青空から雨が降る事態を起こしたのだ。

「いやそんなことが確かにあったな、申し訳ないことをした」と謝やまった。

平成27,9,3

やっぱり釣りは面白い

退職して半年になろうとしている、ついこの間全職員に見送られながら花束を抱いて古巣をあとにしたのが昨日のような気がする、まあ何と言うかこんな調子で時間が過ぎてゆけば、めっきりしわが寄った我が身もままならなくなるのも意外と速いかもしれない。

 
去年の2月に退職を勧告されてからまさに激動の1年を送ったが、その日が近ずくに従い引退するのが楽しみに見えてきていた、やはり75歳という年齢は現役の仕事を続けるには肉体的に少々くたびれるのだ。

加茂の北防波堤で イサダを播いてメバル・アイナメ・タナゴを釣る。これが面白い。

加茂の北防波堤で
イサダを播いてメバル・アイナメ・タナゴを釣る。これが面白い。

 
辞めれば翌日から毎日が日曜日になって責任の2字から解放されるのだ、自由の身になったらまた釣りをしよう、海もいいがやはり一番心が休まるのはイワナやヤマメのいる渓流に分け入って自在に竿を振っているときだ。

 

木々に覆われた流れに入り込んで昔使った細身で軽い竿を使うのがいいだろう、年を取って力が衰えた手には腰の強いしっかりした渓流竿は重く感じられる、軽い分だらつくが振り込む技術は衰えていないはずだから支障はないだろう、釣れれば竿が大きく曲がり手ごたえがある。

 

いつもこんなことを考えながら退職の日を心待ちにしていた、いうなれば雨雲の向こうが明るく陽が謝している感じだった。

 

11月の末に海岸に近い山に入って栢(かやのき)木を7本とってきた、表皮をはいで節の左右から出た枝を丸めれば渓流で使うタモになる、イワナやヤマメを掬ったりエサの川虫を捕まえるのに使うのに適している。

 

用を足すだけなら釣具屋で売っている600円の安物で十分だが、これからの釣りは数を追うのではなくいかに楽しむかが肝心なのだ、自作の格好いいタモをぶら下げて沢を歩くと思っただけで楽しい気持ちになれる。

 

冬の間中タモつくりに熱中して網までも一針ひと針縫い合わせて作り、7個も完成させたのだからやはり退職後の釣りにはせた思いは膨らんでいたのだろう。

平成元年頃。 釣ってきたイワナを前に

平成元年頃。
釣ってきたイワナを前に

 

 

好きな者は4月の解禁を待ちかねてイワナ釣りのスタートになるが、私はすぐには始めない、これも何十年もイワナやヤマメを追い回した経験がそうさせるのだ、あの美しい渓流の魚も前年の産卵のくたびれが残って体は痩せて肌には黒く錆が残っている。

 

雪解けの増水の中でしこたま餌を食べて次第に太ってゆけば、5月の末には本来の見とれるほど美しい姿になってくれる。

 

奥山に入る体力はなくなっているから数釣りは捨てている、何よりも釣ったイワナを手に持ったときの感動がほしいのだ、そしてあのずるがしこいイワナやヤマメを短時間で楽をしながら釣って余韻を残しながら帰ってくるのが良いのだ。

 

解禁にはなっても4月は山にはまだまだ雪が有って入れない、そして海の釣りもまだとなれば近くの入りやすい川に、何度も何度も釣り人がやってきてはわずかな魚を釣ってゆく、、、、とどうなるか、イワナ、ヤマメは馬鹿な魚ではない、目もよく考える力もかなりのものだ、こうしょっちゅう脅かされては安心して流れに出てエサを追うわけにはゆかない。

 

大きな石の奥や、木の根の陰に身をひそめて静かになるのを待っているのだ、この沢は魚が居ないじゃないかと勘違いするほど釣れない。

 

ずる賢くなったイワナやヤマメを楽に釣るには、雨で増水した日に釣るという手がある、うす濁りが喰いを立たせているから針に餌をつけて流してやればびっくりする程我先に食いついてくる。

 

今年は5月の20日ごろから雨を待っていたがしかしなかなか降ってくれなかった、まるで私が昔岩魚を釣りすぎたのを恨んででもいるように、その日が来なかった。

 

いつでも行けるように釣り具から着替えの上下、フェルト底の長靴、それと自作のタモが車に積んであった。びくは昔使った特性の発泡スチロール製のがまだそのまましまってあった。

 

準備は出来ていたやっとまとまった雨が降った、夜通し降った雨は強かったからおそらく大山川はかなりの増水で川幅も増しているだろう、いつもより長い竿が良いだろう、6,3mのハエ竿を持った。

※写真は岡部夏雄氏の撮影による、赤川では巻き網でサクラマスを取るグループが何組もあって、昭和40年ごろまで年間合計3000匹以上もサクラマスが獲られていた

※写真は岡部夏雄氏の撮影による、赤川では巻き網でサクラマスを取るグループが何組もあって、昭和40年ごろまで年間合計3000匹以上もサクラマスが獲られていた

 

 

まるで昔イワナ釣りに目覚めて休みが待ちきれず、毎日早朝に釣って出勤していたあの頃に戻ったようだった、30分の道が遠かった坂之下集落で車を止めた。

 

沢の土手に軒先が届くほども川沿いに一軒の家が建っていた、この家が懐かしい、裏に回って竿を出した、エサはカゲロウの幼虫を使った、ハリスは1号でいい錘も大をつけた、この水具合ならいれば見境なく食いついてくるはずだ。

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ここは結構いいやつが釣れたところだった、深みの中ほどに石が見えた前と変わらぬいいポイントが出来ていた、竿は6,3mのハエ竿だった腕を伸ばして振り込み竿は水平、糸は垂直に流していった。 その第一投目目印が止まりそのまま流れに押されて水中に没した、竿先に小刻みに当たりが来ていた、大きく合わせをくれてみた、あら嬉しやがっちりと針掛かりした、結構いいやつのようだ細竿が引き回されている。

 

手ごたえを楽しんだ後に引きぬいた、白く光る魚体が水面を切って目の前に着地するわずかな時間が夢のようだった。

 

渓流釣りの素人じゃあるまいし、5万とも6万とも思えるほど釣ったこの自分が、たった8寸のイワナに感動していた、中学1年の夏に初めてサクラマスをヤスで刺したあの夢心地といえば良いのだろうか、75にもなった自分をこんなにも感動させてくれるとは釣りは良いものだとしみじみ思った。

ハクビシンをやっつけた茶虎ちゃん

いつの頃からか我が家のあたりにハクビシンがはびこってきた、いつごろから来たのかは良く分からないがそう遠くないことは確かだ、せいぜい平成の初めごろかもう少し先ぐらいなところだろう。

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※甲斐犬の茶虎ちゃん、毎日朝晩5km~6kmの散歩のお供を務める、元クラゲ館長さんの健康の源だ

 

いつの間にかすっかりはびこってしまい山にでも居てくれれば良いものが、住宅街の中にも居ついてしまった、木に登って鳥も襲うというし果物や野菜など何でも食べてしぶとく繁殖をする。

住処の近くにある畑はハクビシン家族の格好の食事場所になってしまう、収穫を楽しみに精を出している農家の方にとっては憤懣やるかたないのも良く分かる。

あれが増えてきたらそれまで増えすぎたと言われた狸が見えなくなった、生存争いに負けたのだろう。

※犬と暮らすのが子供のころからの夢だった、こうして共に暮らすようになりとうとう実現したことになる

※犬と暮らすのが子供のころからの夢だった、こうして共に暮らすようになりとうとう実現したことになる

 

5年ほど前に我が家の庭で石に腰を下ろして植木鉢の植え替えをしていたら、どこかからものすごいスピードで何かが走ってきて目の前にとまった、私の存在に気付かずに来たらしいこれが結構大きなハクビシンだった、そしてそいつが去ると追いかけてきたのだろうもう1匹が走ってきて通り過ぎて行った。

どうも繁殖期を迎えた男女が追いかけっこをしていた様だった、雪が降れば必ず毎朝猫のような足跡がついていたし、裏庭に作った畑の物もずいぶん食われてしまった。

どこに住みついているのか気になっていたが、意外な近さにそいつのねぐらがあった、毎日甲斐犬をつれての散歩で通る裏道に出た排水のヒューム管の中がすみかだった。

ハクビシン3

※私の居るあたりにハクビシンの住家が有る 、手前の畑が家族の食卓だった

 

私だけの散歩なら気が付かなかったと思うが何せ猟犬として名高い甲斐犬連れだったから、近くに行けば匂いをかいで分かるのだろう、必死の力でヒューム管に引っ張ってゆかれしばらく相手をさせられた。

そのうちに中から何やら唸り声が聞こえてくるようになった、中にいるのは狸かあるいはハクビシンかと思ったら有る時ちらりと見えた顔の鼻筋に白い化粧が見えた、「ハクビシンって奴は気が強いものだな、この犬に歯向かう元気があるのだから大した奴だ」。

私の散歩は夜の8時ごろと朝4時か4時半の2度だ、外はまだ真っ暗で電池を持って道を照らしながら歩いている、向こうは夜行性なので出会うチャンスがあるのだ、そして5月末ごろから6月の中ごろにかけて、ヒューム管の外にネズミのような小さな生き物が何匹もうごめくようになった。

そこを棲家にしているのは私の前を走り去ったあの男女だったようだ、ついに子供が生まれたのだ、その子供が次第に成長していった、

ヒューム管の外には畑が広がっていてスイカや、ナス、キュウリ、トウモロコシにエンドウマメ、など上手に作られていた。

 

多分荒らされているはずだった、働いていたお母さんに「どげだー、畑のもを食われてないかー」と聞いてみたら、やはりトマトにスイカなどかなり被害を受けて困っているようだった。

「そこの穴さハクビシンが居た、子供もぞろぞろと見えたぞ」そう言ったら悲鳴を上げた、「キャー気持ち悪い、困った、どうしたら良いろ」役場さでも相談してみたら、、、といったが何とかしてくれる保証もない。

しかし我が家の甲斐犬が何とかしてくれた。

次第に子供のハクビシンが成長して、ヒューム管から畑の中に餌を食べにゆくようになって、私がヒューム管に行くまでに戻れなくなった、犬が待ち構えているところに子供たちがあわてて逃げ込もうと戻ってくると、かじられてしまうのだ、そのたびに中からかなりのうなり声がした、両親にしたら我が子がかじられるので居ても立っても居られない心境だったのだろう。

はくびしん2 (2)

 

 

特に振り回して殺そうとする訳でもなく、じきに逃がしてやっていたまあ遊んでいる風だったが1週間も続いたころにとんと姿が見えなくなった、「あれ今日はどうしたのかな」と思ったがその後プツリとハクビシンの家族は消えてしまった。

あの家族にしたらさぞかし恐ろしかったのだろう、こんなところで子育ては出来ないと引っ越しを決めたのだろう、そう遠くには行けないはずだ子供6匹を連れた引っ越しはさぞかしご苦労なことだったろう、しかしこれでこの畑は安全になったそこのお母さんに大喜びされた、えらい、、と我が家の甲斐犬が褒められた。

夕日を釣りあげた館長人情話2

今日(2015/8/29)思いがけない方の訃報が入った、加茂水族館の長い歴史の中に大きな足跡を残した方で、鶴岡市ができて間もない加茂水族館を売却したとき、受け皿になった(株)庄内観光公社の専務を務め、のちに倒産を経て(株)佐藤商事の経営に移ってから社長を長く務めた田渕享冶氏である。

時の市長足達氏の壮大なる「観光の市」構想により、湯野浜温泉の裏山一帯を観光開発し高舘山とロープウエイで結び一大拠点にする、そのためには市ではできない事業をやらせる民間の会社が必要だった。

鶴岡市が呼び掛けて、銀座商店会、庄内交通、湯野浜温泉観光協会、湯田川温泉観光協会、加茂観光協会、由良観光協会、(株)佐藤商事などが出資しさらに市と県が併せて1000万円を出資して1億円の会社を設立した。

この新会社が当面お金も仕事もない、ならば当時繁盛していた加茂水族館を譲渡して経営を助けようとの思いで売られてしまった。

佐藤商事

佐藤商事が経営責任を持って新出発したホテル満光園オープンの日、左から2人目が秋元社長、3人目が田渕享冶氏

 

新会社は長く軌道に乗ることはなく常に難しい経営を迫られていた、水族館の利益はそちらに流れ続けたがそれでも足りず、昭和46年の12月31日には全職員が解雇され事実上の倒産を迎えることになった。

武士の商法ではないがお役人の商法だったから、初めから旨くゆくはずがない計画だったと言えば分かりやすい、典型的な例として有名なのが北海道の夕張市に見られる。

 

湯野浜温泉の芸者

オープンを祝って踊りを披露する湯野浜温泉の芸者さんたち

倒産後鶴岡市は(株)佐藤商事の秋元正雄社長に負債もろとも経営を引き受けて頂きその後は、庄内観光公社から一切の手を引き責任を逃れることになった、倒産後日帰り施設だったものをホテル化して収益性を上げて経営を安定させようと、難しい経営を一手に引き受けたのが田淵氏であった。

 

プラネタリューム

満光園は当初宴会場とプールを備え、それに本格的はプラネタリュームを持った日帰りのヘルスセンターだった

市民から多くの出資金を集め、繁盛していた水族館を売り、はせ参じた60名程の若い従業員を路頭に迷わせた、あの観光の拠点構想は何だったのだろう?田淵氏の葬儀は改めて深く考えさせられるきっかけになった。

一市長の思いついた構想がとてつもない大きな災いをもたらしたが、そのもっとも辛い難しい時代に社長を引き受けさせられたのが田淵氏であった。

市営時代の館長は観光課長の井上行雄氏だった、「市が水族館を売却した時に建物だけを売っても飼育係3人がゆかなければ買った会社が経営出来ない、新会社に移ってくれ」と頼まれた。

「悪くても市並みの待遇はする」約束してくれたが、それは守られることがなくその後に続く多くの困難の中で、飼育係3人が顔を合わせれば必ず出たのが「あのまま市に留まればよかった」という嘆きだった、「諸悪の根源が足達市長」ではないのか、長い間そう思ってきた。

 

旧加茂水族館

昭和39年にオープンしたころの旧加茂水族館、それから50年に及ぶ苦労の歴史が始まった

 

多くの職員が経営難の中失意のうちに去って行ったが、加茂水族館も取り巻く環境の変化についてゆけず苦労の経営が続くことになった。

そしてラッコの展示に「9回裏ツーアウトからの逆転満塁ホームラン」を打とうと導入した、これが裏目に出てさらに経営を圧迫ついに「弾尽き刀が折れた」、後は打つべき手もなく座して死を待つほか道はないと覚悟させられた。

ここでクラゲに出合いまさに起死回生のドラマが生まれて、あれよあれよという間に日本一に、そして世界一にと駆け上がり絵にかいたようなV字回復を成し遂げていった。

 

くらげ

くらげに出合うことが無かったら、館長が思い出を振り返ってのブログを書くことも出来なかっただろう、、、、夜逃げしただろうか、、あるいは赤川の橋の下でブルーシートに囲まれて暮らしていただろうか

 

この4月で退職して身が軽くなって初めて思いついたことだが、、、、少し今の心境を伝えたい、「この世にもしもは無いのだ」といった偉い方がいたが、そのもしも、、、と思うのだが。

オープンして4年目で新会社に売られることもなく「あのまま鶴岡市の経営が続いていたとしたら、加茂水族館の運命はどうなっていただろう」と思いを巡らした。

市の多くの施設がどんな運命をたどったのか、最も分かりやすい例を挙げてみる、平成13年に閉鎖されるまで鶴岡市立の「国民宿舎由良荘」があった。

 

国民宿舎由良荘

右に見える部分を増築し、大浴場をそこに移し温泉水を運んで天然温泉大浴場にした)
オープンしたのが昭和38年ごろだったと思うが、旧態依然とした昔ながらの温泉旅館が立ち並ぶ中で、鶴岡市がいち早く近代的なホテルを誕生させたとあって連日大繁盛した。

 

その利益はすべて市の財政に吸い込まれて消えてしまい、後の備えとして蓄えられることは無かった、その後湯野浜温泉や温海温泉に続々と立ち始めた「すべてを備えた温泉ホテル」に客が奪われて行き衰退の一途をたどった、その間オーナーであった市はどんな手を打ったのかは、云うだけくたびれるが簡単に述べることにする。

片や立派な玄関ホールや、エレベーター、バストイレ付の部屋、宴会場を持っていたのに対して「由良荘」はそれらを持っていなかった。

戦う武器を持たされずに現場は敵と対峙した事になる、現場にいない上司はただ数字を見てなぜ前年よりも収益が減ったのかと支配人を追及していたと聞いた、この出来事は厳しい経営の矢面に立たされた野坂氏ご本人から直接聞いた出来事だ。

辛かっただろうと思う、そして年間に必要な費用の不足分を市の予算から補てんして、赤字の経営が長く続いた、平成13年に閉鎖することになり1億3000万円の費用をかけて長い経営に幕を閉じた。

しかし今その閉鎖されていた国民宿舎を買った民間の業者が、エレベーターを取付け、玄関ホールを増築拡大し部屋にバストイレをつけて、温泉水を運び込み天然温泉のホテルとして心機一転、元気の良い経営を続けている。

 

館内

フロントの女性が館内を案内してくれた、初めて取り付けられたエレベーター、これがないホテルなど考えられないが、ここは此れまでそうだった。

 

加茂水族館もあのまま市の直営であったなら、全く同じような運命を辿ったであろうことは明白だ、赤字になってもその分の補てんをしてもらい、細々とした経営を続けることになったであろう。

その間に館長は数年で変わり、現場の提案は日の目を見ることなく、誰も責任ある行動はとらず成り行きのままに流れて行ったであろう、クラゲにも出会わず出会っても気が付くこともなく、あのまま「由良荘」のごとく自然消滅の道をたどったのではないか。

もしも建て替えようとの声が上がっても、低迷している加茂水族館をしり目に一足先に「文化会館計画」が持ち上がり、ちょうど水族館の分もふくめた建築費が膨らむ事になり、市としても金策尽き刀折れて水族館の建設はどうなった物やらわからない。

こうして振り返ると、足達市長が夢見た「壮大なる観光の市構想」は、50年たって時限爆弾がさく裂した様に、「多くの市民に恩恵をもたらす形で今実現した」のではないか。

 

バストイレ

バストイレがないホテルだったがこのように今は取り付けられた、いつか行って泊ってみたいと思わされた

 

落ち着いた純和風

二階にあった大浴場を移転した後にできた部屋、落ち着いた純和風の感じのいい部屋になっていた

 

 

民間の新会社に加茂水族館を売るという英断があったからこそ、広い世界にただ一つの「クラゲ水族館」が誕生したのだ、長年諸悪の根源と思っていたあの市長はじつは先見の明をもつ大恩人だった?。

栢木(かやのき)を採ってきた

7月初めての土曜日に水族館に行ってみた、気になっていたのは1日に開館した仙台市の「海の杜の水族館」の影響だった、去年は加茂がオープンして周りの水族館に少なからず影響を与えたと思うが、今年は逆にこちらが影響を受ける立ち場になったのだ。

退職をしたとはいっても長年苦楽を共にした古巣のことは気になるもので、東北地方最大の都市である仙台市に初めてイルカショウを売り物にした水族館が誕生するとなれば、かなりの影響を受けざるを得ない、いったいどれほど入館者が減るのだろうか、いつも頭にあったのだ。

賑う加茂水族館

賑う加茂水族館

 

朝9時半もう多くの乗用車が駐車場を埋めていた、まずまずの出足だった、建物の裏に回って職員用の駐車場に車を止めた、裏口から中に入りアシカとアザラシのプールを横目に、館内に入ってみた。

 

客とは逆のコースをたどりながら、クラゲの展示を横目に行くとやはりいつもの土、日とは少し様子が違っていた、思ったよりも客が少ない感じだった、大きくはないが影響を受けているのは明らかだった。

 

それでもクラゲの展示は人込みで真っ直ぐには歩けない、時々立ち止まってやり過ごしたり人の間を縫うように進んだ。

 

歩きながら思ったのは「これで客が少ないと言ったら罰が当たるだろう、この建物はたったの20数億円で建ったのだ、金額だけを見れば大金をかけたのに何を言っているのだと叱られそうだが、秋田の3分の一、新潟の4分の一、福島の6分の一の金しか掛けていないのだ、それを思えば御の字だな」、過疎の東北だとは言っても小さな体でこれから先、多くの巨大な同業と競い合って切磋琢磨してゆかねばならないのだ。

 

老館長は引退したがその後を継いだ若い館長と職員たちが頑張っていた、あの調子ならクラゲのいい展示と良いアシカショウー、そしてレストランも売店も受け付けもすべての部所で、いい成績を上げてくれるだろう。

アカクラゲ

アカクラゲ

 

土曜日で出勤はしたが今日の予定は特にない、たまには予定のない日もいいものだ、さて何をして一日を過ごそか、、、、、と思った時に思い付いたのが、渓流釣りで使うタモの製作だった、責任の2字から逃れた今の自分はありがたい。

 

「あれをまたやってみようかな、冬の間中7本も作ってみたが何か一つ満足できないものがあった」のだ。趣味の世界は用を足せればそれで良いというものではない、自分が満足するかどうかにどうしてもこだわるものだ。

 

雪に閉ざされた冬のことでする事もなく作業は大いに楽しかったが、栢木(かやのき)の枝の生え具合が思い描いたものと違っていた、もう少し右と左に広く開いているものが欲しかったのだがあの時はいくら探しても見つからず、まずまずの物で妥協したのだ。

両方に広く枝を張った栢木 このようなものがタモに適している

両方に広く枝を張った栢木
このようなものがタモに適している

 

栢木はそうどこにでも生えているものではなく、場所を知らなければ山に入ったからと言って見つかるものでもない、、、ならどこに行けば良いのか、、、20年も前に近くの大山川の上流で栢木が生えているのを見たかすかな記憶があった、あそこに行って少し採ってきてもう一度挑戦してみたいと思った、大山から水沢に出て大山川沿いに町田川から国道345号線で奥を目指した。

 

坂ノ下集落から左に折れて大机に向かった、二か所に「クマに注意」の立て看板があった、廃村になった大机の集落からさらに奥を目指した、道はひどい荒れようだった。

 

両側から道を覆う茅藪(かややぶ)を押しのけながら車がすすんだ、ここだったなと思って車を止めたが、そこから目的地に入る細道がなくなっていた、20年の間に予想以上に木々が生い茂っていた、いくら探しても痕跡さえも見つからなかった、杉の林も見事な大木になっていた「俺が来ていたころは歩くたびにナタで芝藪(しばやぶ)を切り払っていたんだが、誰も通らないと見えるなー」。

 

ここには少し奥に滝があって、その上から水を引いて山の田圃を潤す水路があったのだ、その水路沿いに歩いてずいぶんイワナ釣りに来たものだが、まあ仕方ない地形を頼りに杉の林に踏み込んだ、むっと来る暑さが来た、右手に回り込むとなんだか見覚えのある水路らしきものに行き当たった、もう水は流れていなかったがこの小さな水路に沿って道があったのだ。

 

藪を漕ぎながら奥に行くと記憶にあった一帯に栢木は群生していた、栢木というが人の話だと本当の名前は「犬栢(いぬかや)」というらしい、この木はあまり大きくはならない、見たところせいぜい3mが限度だった、1本ずつ丁寧に見て回り枝が横に張った気に入ったものを4本採った。

 

ようやく良い材料を手に入れることが出来た、どんな木にも言えることだと思うが、皮をはぐには適期というものがある、山の雪が消えて木々が一斉に根から水を吸い上げて緑の葉を茂らせ、花を咲かせ成長してゆこうとするその時わずかな時期が見事に芯から皮が剥がれる。

近所に住む孫と一緒に作る

近所に住む孫と一緒に作る

もうずいぶん昔に胃の薬になると聞いて、キハダの木の皮をはいだことが有ったがやはりその時期を外すと、表皮と中の黄色に染まった甘皮が剥がれない、それは蔓細工に使う山ブドウの皮についても全く同じだった。

 

採ってきた栢木は乾燥を防ぐために水につけておくとしばらくは剥がれやすさが保てる、夕方涼風が吹いてきたところで皮を剥ぎ始めた、親指と人差し指の爪を使って剥いでゆく。

 

面白いように剥がれるのだが、爪の間に木屑が入って痛い、まあ何と言うかそんなことも楽しみなのだ、夢中になって剥いでいるところに近所に住んでいる孫が来てやり始めた、大人がやっているとつまらないことも楽しそうに見えるのだろう。

二人とも真剣である

二人とも真剣である

一人でやるよりも連れがいた方が気分はいい、何だかんだと言いながら仕事が弾んだ。

 

少しずつ剥がれて中から赤みの差したきれいな木の肌が現れた、このまま乾燥してくれればいい色に仕上がるのだが、乾けば色が白くなってしまう。

 

木肌が赤みを射してたっぷりと水を含んでいるうちに用意した丸い型枠に縛りつけてゆく、両方の枝の生え際を縛って固定してから先の方に向かってギリギリと巻きつけてゆくと、いい具合に真ん丸にまげられた。

 

これがもし乾燥してしまったら、ヤカンの蒸気を当てるなどして温めないと枝は簡単に折れてしまうのだ。

 

アユ釣り用のタモだと抜きあげたアユをタモで受け止めなければならないので、結構大きいものが必要だがイワナ釣りだとせいぜい径が25~30cmも有れば間に合う。

 

たまにしか手に余るような大きいものが釣れることもないし、釣る餌の川虫採りの用を足せればそれで良いのだ、枝を巻きつける丸い鉄筋の枠には100円ショップに売っている植木鉢の台がちょうどいい。

金属の円い枠に枝を巻きつけていく

金属の円い枠に枝を巻きつけていく

 

5つ6つ準備した、紐をほどいて丸くつないでタモにするにはまだまだ先のことで、まずは半年も陰干しにしてしっかりと形を固定しなければならない。

 

ここから先もまだ工程は残っている、金枠から外して枝を接着して丸くタモ枠が出来上がる、さらに塗装をして網をつけてやっと出来上がる。

 

網は丁度あったものが手に入らないので自分で作るほかない、また100円ショップに材料探しに行ってみた、有ったのだ、、、洗濯機に入れる網の袋が、縫い目を外して1枚の布にしてタモのサイズに合った網を作ってゆく。

 

縫い物などしたことがないのだが釣りに使うとなれば、これも楽しみな仕事だ、いそいそと糸も針も買いそろえて縫い始めると時のたつのが忘れるほど没頭していた、なんと楽しい仕事があったものだ。そしてついに出来上がる。

 

この冬の間に7つも完成させた、5月の末に一番気に入ったタモを手に初めてイワナを釣りに行ってみた、流れの曲りにいい深みが見えたあそこなら釣れそうだ、土手から河原に飛び降りてさて、、、と思ったら踏ん張りが効かずにひっくりかえってしまった。

山奥の滝で一休みする

山奥の滝で一休みする

 

背中の後ろでポキリ!と音がした、アッと思った、精魂かけて作った栢木のタモが無残にも折れていた、アー無常なり、この世には神も仏もいないと見える。

夕日を釣りあげた男の人情話その1

長い間居座っていた水族館の館長を退いてもう2か月が過ぎた、時のすぎるのは本当に早い、この分だと1年後もすぐに来るだろう。

退職のことなど考えることもなく年を取ってしまったが、75歳になるのを機にこの3月で引退することは決まっていた、自由の身になったら何をして過ごしたらいいのかもう1年も前からいつも考えていたのだが、仕事のほかにこれといった特技もなく潰しの効かない我が身だから、ただ大人しくしている他ないなーと情けなく思っていた。

満で75歳にもなった老人だ、毎日が日曜日になり仕事の呪縛から解放されるわけだから、そのままに過ごしたらまもなくボケが始まるだろう、そうならないためには時々緊張する時間が必要なのだ、時間だけは幾らでもあるから病院でもまわって体の不自由な人に本でも読んで聞かせるのもいいなー、しかしそう言う自分が目もかすんで来たし耳もいささか遠くなってしまった、逆にこっちがしてもらいたい年になってしまったのだ。

油戸磯で50センチの黒鯛を釣った。4間の庄内竿で・・・

油戸磯で50センチの黒鯛を釣った。4間の庄内竿で・・・

いろいろ考えたがいざ本番となるといずれも実現性がない、新しく出発するということは結構大変なことだった、そんなところに思いがけない話が飛び込んできた、東京に事務所を持つある知り合いが「館長が退職したらおそらく講演の依頼が多くあるだろう、自分にそのマネイジングをさせてくれないか」「俺さそげ依頼があるものだろうか?」「結構日本各地から声が掛かるはずだ」、、、とおだてられてその気になり、「んだば頼むかー」とお願いをした。

実際どれだけ依頼があるのかという心配とは別に、なんとなく「退職後も何か必要とされて出番があるようだ」という思いが心の救いになった、この依頼があって退職後が楽しみになり4月1日が待ち遠しくなった。

ボケ防止の緊張は何とかなった、では楽しみはどうだろう「釣りが有るじゃないか」と思いついた、今泉港の間口を出れば私を待っている禁漁区があった、ここ6~7年ほどはそこに行っていないが禁漁区だから漁師も遊漁船も近ずくことはない。

ただ一人許された釣り場 今泉港の禁漁区でメバルを釣る

ただ一人許された釣り場
今泉港の禁漁区でメバルを釣る

あそこはただ一人館長だけが行ってもいいと許された専用の釣り場だった、深さが3~4m100m四方に鳥海山の女鹿石を敷き詰めて毎年アワビの稚貝を放流していた、ここで大きく育ったアワビを年に1~2度今泉の漁師が総出で採って、分配しよう、、、という計画だったが、海藻がほとんど生えず放したアワビもどこかに消えてしまった。

いつの間にかアワビの牧場は誰も行かず、敷き詰めた石のおかげで磯の魚の格好の住処になり、メバルや海タナゴ,アイナメなどの楽園が出来上がっていた、そこに船を止めて生きたイサダを撒き餌にして寄せれば夢じゃないかと思うほど釣れた、その場所専用にと作った庄内竿を使えば、手元から見事に曲がった細竿が男心をしびれさせてくれた、あの釣りをもう一度したい、、、、新水族館を作るという計画が進み始めるとともに、長くやっていなかったのだ。

メバルもタナゴもまた私が釣りに行こうと考えている事などつゆ知らず、ここは魚の楽園だとすっかり油断しているはずだ、ならば腕が痛くなる程も釣れるだろう。退職すればその楽しみを妨げる心配は何もなかった。

40代の若かりし頃の元館長。 大山川で釣った岩魚を前に

40代の若かりし頃の元館長。
大山川で釣った岩魚を前に

釣りはもう一つイワナ釣りが有る、私は欲張りなんだろう、海だけでは足りず渓流と二刀流を使っていた、かっては年に60回も山に入り3000匹以上も釣っていたのだ、もうあんなに釣らなくてもいいふらりと出かけて、せいぜい5~6匹もつれれば幸せな気持ちになれる。

庄内平野を取り巻く山々の流れは知らないところはない、山奥に入らなくてもそこそこ釣れる場所にはあちこちに有る、場荒れしていたって構わない居ないわけではないからそんな相手でも釣る手がある。

昔からわざと手ごたえを大きくするために「腰の強いイワナ竿」は使っていなかった、細身で軽いオイカワを釣る竿を使えば倍の手ごたえが有る、8寸から1尺もある良いのが釣れれば流れに乗って暴れまわってくれるだろう。

釣りをまた始めるという楽しみが、49年に及ぶ思い出の職場を去る「悲しく切ないはずの老館長の心」を豊かにしてくれた、後はその日を待つのみだ。